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2015年5月31日

円隆寺・・・元田辺城主祈願所・・京都府舞鶴市!

いつもなら、寺社仏閣は、正面、鳥居、山門をくぐり参拝いたします・・当たり前ですね!

ところが、今回の円隆寺・・
朝代神社の備忘録でも記しましたが・・
境内から円隆寺へ入れるのです!
左図・・真ん中の赤丸部分の玉垣が空いて居る部分があります・・
写真下 赤丸部分・・・(写真、朝代神社参道)
で、その間から、円隆寺の境内へ入ってしまいました・・・(^^;)

円隆寺・・・愛宕山の山すそにある真言宗御室派・・山号は慈恵山

境内に入っていくと・・・
なんと、立派な、・・すごい、圧迫?圧力感のある、覆い被さるような、迫力ある本堂ですね!

現在の本堂や多宝塔、総門などは、18世紀末までに再建されたもの。地元の大工・林田伝之丞房章などの手によるもので、多宝塔の亀腹を瓦葺にするなど独創的な建築として価値が高いといわれている・・・Wikipediaより引用
奈良時代に行基が創建し、平安時代に皇慶上人が再興・・・
本堂は、棟札から天明6年(1786年)とある・・・府指定文化財
ググってみると・・
重要文化財(国指定)・・木造阿弥陀如来坐像を本尊とし、両脇に定朝作の薬師如来坐像・釈迦如来坐像( 平安時代)を安置するとある・・・

このような、唐破風の向排下も珍しいのでは・・・
扁額?に書かれている文字は・・・大日?四十八ヶッ所??霊場???圓隆寺・・と一部読める!
後は、私には読めない・・・

本堂から参道、総門をみる・・
すみません・・m(_ _)m GoogleMapより総門の写真を拝借します!
総門・・府指定文化財
三つ棟造りで、一般的な仁王像に代わって脇間の前後に四天王像を安置する珍しいものとのこと・・・
花頭窓なんですね・・・素敵な総門、ズボラするから、ね!・・・・残念!
多宝塔・・・府指定文化財
             
蓮弁瓦を用いた独創的な建築として価値が高いと評価されていると・・・
   ・・・・中央鳥居がみえる・・神仏習合か?
        
鐘楼・・府指定文化財
           木々、紫陽花?の生い茂る中に入っていくのは・・う~ん?
           

圓隆寺と朝代神社の間にある、聖徳太子堂・・・

これで、愛宕山の山すそに位置する、朝代神社、円隆寺と参拝いたしました・・・
じつは、桂林寺も予定していましたが、・・・・時間の関係で、パス・・・

又、宮津方面を訪れた時、参拝することにします・・・又は、土日の海上自衛隊の見学の折でも・・・
その時は、ひとり旅かもね!・・



訪問日:5月26日





2015年5月30日

朝代神社・・・城下町の氏神です・・京都府舞鶴市!

田辺城から約1kmのところに鎮座する、朝代神社・・・
赤舞鶴の観光パンフでは、地元の信仰が厚い城下町の氏神・・・とある!
「P」のこと、田辺城で聞いたので、「α君」で向かいます・・

神社鳥居の左手に朝代会館があります・・・
社務所とありますので、念の為、「P」の許可をいただきに・・・
勝手に「P」して、小言、言われるのもいやだからね・・・
参拝にいきますのでというと・・快く、どうぞ・・と!
鳥居前・・車止めの紋様が桐紋?  明神鳥居
そのすぐ奥に両部鳥居があります・・
社記・・・淡路島の日ノ小宮(現、伊弉諾神宮)からの奉遷に始まると・・
御祭神:朝代大神(伊奘諾尊)

御神徳:御祭神は日本民族の祖先神であり初めての夫婦神として結婚の道を開かれて人間生活に不可欠なあらゆる物をお産みになりました。また禊ぎ祓えにより罪穢を祓い清新と発展の方向を示された貴い神様であります

御由緒: 当神社の御創建は約千三百年前の天武天皇白鳳元年九月、淡路国日ノ少宮をお遷したのに始まります。 近世に入り、城下町田辺(舞鶴)の氏神様として歴代藩主の崇敬篤く、神輿・鳥居などの奉納が続き、士民を挙げての秋の祭礼は大いに賑わいました。
また、昭和三年には府社に昇格、「朝の参りは朝代さまよ」や「日毎夜毎の朝代参り」などと民謡にも唄われ、広く崇敬されております。 江戸期の大火に類焼し、元文四年に再建の御本殿(付・再建文書)が平成五年に舞鶴市の文化財に指定されております

境内社:天満宮、大国神社、梅宮神社、松尾神社、祇園神社、疫神社、稲荷神社、須賀神社、多賀神社、工匠神社、奥姫稲荷神社、塩釜神社、恵比須神社 ・・・神社、社記より引用

参道を進みます・・・石灯籠の破損が激しいですね!
奥に見えるのが、円隆寺・・ここは隣同士なんです! 神仏習合ですね!
拝殿です・・
朝代神社・・狛犬が多いです・・写真下にも二組が・・横から睨み、前から睨み・・守っていますね!

本殿・・・
立派な彫物が!・・舞鶴市文化財・・元文四年(1739年)再建・・・向拝下彫物見事です!
備忘録記するとき、ググってみると・・・一間社流造、桧皮葺、舞鶴市内では最も古く建てられた神社本殿建築の1つで彫刻など意匠にも優れている・・と、ある!
本殿、正面唐戸の彫りも見事です・・
本殿、右斜め背面の木鼻、蟇股・・
木鼻の獅子の脚が細く、長いね・・獅子ではないかも?

逆光、そして、なかなか、撮影が難しい・・脇障子の撮影もこの高さが限界です!

鳥居横に立つ大きな石灯篭・・・天保十二年(1841年)と読める・・
        

ここで、朝代神社から、ずぼらして、境内から、円隆寺に参ります・・
備忘録記するとき、山門から入らないなかったこと・・浅はかでした!
では・・円隆寺へまいります・・・


備考:昼食場所を・・・
ここは、道の駅、舞鶴港とれとれセンター 海鮮市場です!
新鮮な魚貝類が並び、その場で調理もしてくれ食することができます・・
観光バスも大変多く、観光客で一杯でした・・・
私たちは、にぎり定食、焼き鯖巻きを・・・う~ん! 満足でした!









田辺城・・京都府舞鶴市!

田辺城・・・細川・京極・牧野氏の居城として約290年間、領内統治をした城・・!

天正八年(1580年)、丹後国は細川藤孝、忠輿親子の領国となります。
細川氏は、現在の伊佐津川と高野川に囲まれた平野部に田辺城を築きました。
これ以後、田辺城は細川・京極・牧野氏の居城として約290年間、領内統治の中心的存在でした。

細川藤孝(幽斎)…1543年、京都の東山で室町幕府の重臣三淵晴貞の二男として誕生。
実の父は、第十二代将軍足利義晴という。
信長、秀吉、家康に従って忠勤に励んだことこそが、戦乱の武家の生き方だったとあります。
明智光秀の三女、細川ガラシャという縁戚関係があるにも関わらず明智光秀に協力しなかったこと、明智光秀の天下人との器量があるとは考えていなかったからだとあります・・・資料館配布のパンフより引用



明治六年(1873年)、田辺城は廃城とされ、本丸付近は現在、舞鶴公園となっています。
また、「舞鶴」の地名は、田辺城の雅称(舞鶴城・ぶかく)城)に由来しています

田辺城資料館・・・
----内部撮影は、撮影の許可を得て撮影ております(*^_^*)・・・細川幽斎の像!

歴代の城主は・・・
歴代の城主(城主就任年)
細川 藤孝 1580(天正8)→忠興 1582(天正10)→京極 高知 1600(慶長5)→京極高三1622(元和8)→ 京極高直1636(寛永13)→ 京極高盛1663(寛文3)・・但馬豊岡藩へ転封
牧 野 親成 1668(寛文8)→牧野 富成1673(延宝1)→牧野英成1693(元禄6)→牧野明成1737(元文2)→牧野惟成1750(寛延3)→ 牧野 宣成1783(天明3)→牧野以成1804(文化1)→牧野節成1825(文政8)→牧野誠成1852(嘉永5)→牧野弼成1869(明治2)・・廃藩置 県
・・・資料館配布のパンフより引用・・・
牧野家ゆかりの甲冑・・
この甲冑は江戸初期のもので、実戦向きで、火縄銃の試し撃ちの痕が残っていると・・
写真みれば、向かって左の胴の丸いへこみか?

彰古館から見た明倫小学校 右は舞鶴警察署
天守台跡・・・
平成2~3年の発掘調査により田辺城本丸の西端に位置する天守台の東側石垣と確認されたものである
天守台の規模は東西約21m、南北推定31m、基底部からの遺存高約4.5m
石垣は、古式穴太積み技法で積まれている


明倫館(現明倫小学校)
牧野代(天明年間)藩校明倫齊として創立、文久年間に明倫館と改め明治五年明倫校となる
現存する校門が当時を偲ばせる
立派な門ですね・・・
明倫小学校の白壁・・・いや、すばらしい・・
お城の隣に広い敷地のなか、屋台庫が・・・

芸屋台は江戸時代から昭和初期にかけて城下町の産土神朝代神社の祭礼等に使われたものです
豪華な見送り幕を掛け舞台の上では子供歌舞伎が上演され喝采を浴びたと・・・
ガラスに陽が反射して写りません・・・嫁の日傘をかざして・・パチリです!
いや、見事な龍と、兎の毛通しの鳳凰の彫物ですね・・・

細川幽斎・・武家の棟梁、源氏の正当な血を受け、荒々しい戦国の世にぬきんでた文人、武人とある・・・・田辺籠城と古今伝授・・が、お話がありますが・・長編になるため、省略です!
細川幽斎の嫡子、忠興の三男が、細川忠利・・・熊本54万石、初代藩主である・・

田辺城資料館のすぐ隣に市営「P」があり、本来ここを拠点として、これから、目的地の朝代神社、円隆寺を巡る予定でしたが・・・
聞くところ、朝代神社にも「P」がありますよ・・とのことで、移動します!

金剛院・・中井権次一統の足跡を巡って・・・京都府舞鶴市鹿原595

関西花の寺第三番霊場・・金剛院です!
金剛院には、重要文化財、三重塔、数々の文化財、そして、中井権次の足跡の本堂があるのです!
舞鶴市観光をしようと決めた時、中井権次の足跡、所在地の一覧表から・・おおぉ、金剛院が!

舞鶴東ICを降りて、僅かな距離・・・静かな空気が流れている金剛院に到着です!
到着時刻は、午前9時・・・観光客、だれも、いませんね!

山門・・
・・・金剛院配布のパンフより全文引用・・・
        ・・・由来・・・
当山は、平安時代初期の天長六年(829年)人王第五十一代平城天皇の第三皇子、高岳親王によって創建されました。 親王は第五十二代嵯峨天皇の皇太子でもありましたが、世の無常を感じて仏門に入り、法名を眞如と称し、弘法大師の十大弟子の一人として仏法の興隆につくしましたが、更に法を求めて天竺に向かい、途中消息を絶ちました。  ご本尊の波切不動明王は、第七十二代白河天皇のご痛気平癒祈願の為、永保二年(一〇八二)若狭の固から勧請されたもので、帝のご病気はこの不動明王の力によって忽ち平癒しました。帝は大いに満悦し、当時荒廃していた当山を復興し、三層の塔を建立して眞如親王を追善供養し、勅願寺として「意思寺」の寺号を下賜されました。また、第七十四代鳥羽天皇の皇后美福門院も深く仏法に帰依し、平忠盛(清盛の父)を造営奉公に命じ、久安二年(1146年)新たにに阿弥陀堂を建立し堂塔を修復するなどして、当山は本坊の金剛院の外に十二坊舎、食堂、浴室なども整備され全盛期を迎えます。  このように当山は皇室の庇護も厚く、その後の戦国動乱や天災人災にも耐え今日に至っていますが、江戸時代には歴代の田辺城主も当山を外護し、三重塔から本堂に至る山腹の楓は細川幽斎の植樹で、秋には全山紅葉に映え訪れる人が後を絶ちません。また境内地南西の鶴亀の庭も幽斎作と伝えられています。  ご本尊の波切不動尊(秘仏)は、弘法大師入唐渡海時の故事に因み、海難除け、重病平癒、火難、水難等捨ての災難を除く仏様として、広く人々に信仰されています。・・

山門を入ると、入山料を収めます・・・奥の建物は本坊・・
ここで、入山料を納めるとき、小銭がなく、ウロウロしていると・・出掛ける寸前のご住職が車を停めて、お越しいただき、・・お釣りをいただきました(^^;)
その折り、少しだけ、お話をすることができ・・・参拝理由として、三重塔と、本堂、中井権次の彫物と・・・この出会いが、多禰寺での再会?へと繋がるとは・・・
金剛院指定文化財・・・

阿弥陀如来座像(重文・平安時代後期作)
増長天立像(重文・平安時代後期作)
多聞天立像(重文・平安時代後期作)
深沙大将立像(重文・鎌倉時代・快慶作)
執金剛神立像(重文・鎌倉時代・快慶作)
金剛力士像 阿形(重文・鎌倉時代作)
金剛力士像 畔形(重文・鎌倉時代作)
他、文書、什器、絵画等多数を収蔵
千年ガヤ・・


このガヤの木は、高岳親王が植えられたと伝えらえ、樹齢1000年以上ともいわれているガヤの老齢木です
高さ22m、幹周り5.3mに達する府内随一の巨木で、京都自然200選「植物部門」に剪定されています。
このガヤは雌の木で秋には2~4cmの楕円形の果実が落下し、翌年の秋に熟して裂けます


重要文化財 金剛院塔婆
木造こけら葺 室町時代
現在の塔は、幾度にもわたる修復を経ており、室町時代に再建されたと見られるもので、永保三(1083年)、高岳親王(真如法親王)の追善供養のため建立されたものを起源としています。
この塔は、各層の間を狭くして、軒を深く見せ、組み物も実に複雑で、匠の技の偉大さを秘めています
朝日、逆光のため、反対側から・・・
この塔は昭和25年解体修理され相輪新調して完全復元されたもので、屋根はこけら葺きで北?例の整った各層の屋根のリズムには????がある。
・・・?は案内板より判読不明

初層の内部には太い四天柱が設けられ来迎壁には室町時代の花頭窓がついているのが珍しい

二、三層は三手先、二十繁捶の和様系の美しい塔婆で、軒の出が深いため、水平への広がりがあってこころよい景観を呈している・・・
・・・案内板より引用


手前、柵の側に、旧相輪の一部が見える・・

残念ながら単体の写真忘れました!

三重塔から本堂へ・・・
三重塔から本堂に至る山腹の楓は細川幽斎の植樹と云われている・・・
本堂です

彫物師 丹波柏原住 中井権次橘正貞の足跡です・・・
見事としか、いいようの無い彫物です・・ 天女の姿は、初めてみました!
・・・部位の写真は下部に掲載します・・・


鐘楼・・・この脇を通り、滝へ参ります・・・
        
残念ながら、枯れているかごとく、僅かな水しかありません
ご住職に教えていただいた、ビューポイントの鹿原公園へ出ます・・
おや、この壁の五本線は・・・門跡寺院か?

ご住職の言われるように・・・ビューポイントです!
説明板にあるように各層の間を狭くして、軒を深く見せているので、屋根が大きく見え・・重厚な趣です・・
どっしり、構えて、今まで見てきた三重塔と一線を画しますね!・・よき、お姿です!
パンフも紅葉の時期の写真がこの位置から撮影しています!・・真横から見える唯一の場所ですね!

広大な「P」・・・手前は観光バス用? 奥の「P」に「α君」がいます!
金剛院から帰途の途中、すぐ側、その道沿い立つ、荒々しいと感じた・・・
奉行杉・・樹齢九百年・・平 忠盛 植と、案内板があります
        


金剛院・・・重厚な三重塔・・見事な彫物のある、本堂、千年のガヤ・・舞鶴市の観光地、第一番の選んで正解でした・・・
ひとつ心残りが・・・細川幽斎作と云われている境内地南西の鶴亀の庭を拝見しておりません!
次の機会に・・・・

訪問日:5月26日


では、これより下部は、中井権次の足跡、作品を掲載しています・・・m(_ _)m



今にも飛びかからんばかりの龍・・そして、天女の姿・・・初めて見ました!

向拝、背面・・・
左下、彫物師 丹波柏原住 中井権次橘正貞と刻銘があります!


左、木鼻
右、木鼻
兎の毛通し・・・鳳凰やね! 一部、痛みが・・心配です!
手挟み・・いや、見事です!
海老虹梁と手挟み、木鼻を・・