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2026年6月9日

長野の旅 国宝 旧開智学校校舎です

閉館に間に合わなくてもかまわないと思いながら上田城から旧開智学校へ走ってきました
時間には間に合ったが、感があたったのか、下調べが甘いというか、なんと休館日でした

一応、背面をパチリいたしました


国宝 旧開智学校 校舎
国宝指定(今和元年 2019年 9月30日)附建築関係資料(文書56点図面7点) 
※重要文化財指定建築面積 昭和36年(1961) 3月23日
建設面積:513.58m2  木造二階建 寄棟造 桟瓦葺 中央部八角塔屋付
建築樣式:擬洋風建築
建築年 明治9年(1876)  移築復元工事 昭和38年~39年(1963~64)
設計・施工:立石清重 Seijyu Tateishi(1829-1894)


翌日、再びやってきました

入場券です、来校記念になります


上右の入場券の裏の説明より⋯

校舎の建築

開智学校は、明治6年(1873)筑摩県学を継承して開校され、同9年校舎を新築した。
校舎の新築は、教育を立県の指針とした筑摩県権令永山盛輝のもと、地元住民により計画され、松本の大工棟梁立石清重がはるばる東京·横浜へ出向き、東京大学の前身開成学校などを参考にして設計施工した。工費約1万1千円の約7割が地元住民らの献金によるものであった。

国宝指定

昭和36年(1961)に重要文化財に指定された校舎は、令和元年(2019)に、近代学校建築としては初めての国宝に指定された。国宝指定にあたっては、文明開化期の洋風建築受容の様子を示し、近代教育の黎明を象徴する擬洋風校舎として、深い文化史的意義を有することが評価された。

昭和の移築·修理

旧開智学校は市内の中心部を流れる女鳥羽川沿いにあったが、同河川改修工事のため昭和39年現在地に移築復元された。開智学校に保管されてきた明治時代から現代にわたる教育資料などの収蔵資料は約11万点にのぼる。その一部を展示して昭和40年から教育博物館として一般公開されている。

青い空になんとマッチングしていることか、実に美しいです

真正面です
画角、入いりません
旧開智学校校舎は、明治9年(1876)4月に完成し、その後90年近く使用された小学校の校舎です。地元松本の大工棟梁立石清重が設計·施工しました。和風と洋風が混ざりあった擬洋風の校舎は、東京の開成学校(東京大学の前身)や国立第一銀行をはじめとして、当時の擬洋風建築の特徴をよく取り込んでいます。東西南北の風見を配した八角塔がそびえ立ち、
舶来のギヤマン(ガラス)が散りばめられた白亜の広大華麗な校舎の出現に、人々は新しい時代の幕開けを感じたことでしょう。
昭和36年(1961)3月23日に重要文化財に指定されていた校舎は、同38年1月から翌年8月にかけて、市街地を流れる女鳥羽川のほとりから現在地に移築され、新築当時の形に近づけて復元されました。昭和40年4月から校舎の公開と教育資料を展示する博物館として開館しました。
令和元年(2019)、近代学校建築としては初めて国宝に指定されました。開化期の洋風建築受容の様子を示し、近代教育の黎明期を象徴する校舎として、深い文化史的意義を有すると評価された校舎は、激動の時代に立ち向かった当時の人々の気概と新時代への希望を今に伝えています。
開智学校は、江戸時代の松本藩校崇教館の流れを引き継ぎ、明治5年(1872)5月に開校した筑摩県学を母体としています。

すこし右に移動し、見上げてパチリ





      和風と洋風が混ざった擬洋風建築

     この説明、案内でそれぞれの名称がよくわかります


風見鶏は、東西南北の方位です

さぁ、校内に入りましょう
校章 三枝の松

国宝 旧開智学校校舎
国宝 旧開智学校校舎
旧開智学校校舎は、明治9年(1876)に完成した小学校の校舎です。
筑摩県権令·永山盛輝の学事奨励策のもと、学区内の住民が建設費を出し合い、松本の大工·立石清重が設計·施工しました。
当時の地元新聞で「目今日本第一等の小学校」と評された擬洋風の校舎は、完成から140年以上の時を経た令和元年(2019)9月30日、近代の学校建築として初めて、国宝に指定されました。



天使と龍はどこから来たか?
旧開智学校校舎の象徴となっている天使と龍の彫刻。
天使のデザインは、当時の代表的な新聞である『東京日日新聞』(錦絵版)のタイトルデザイン
から引用されたと考えられています。龍の彫刻は、移築前の開智学校に隣接していた浄林寺
(当時は廃仏毀釈で開智学校の支校になってから持ってきたといわれています。
校舎の真正面に天使と龍を配置した理由は定かではありませんが、新しい文化と伝統が混ざり合った、まさに文明開化を体現したデザインです。



「丸太柱」はお寺の柱

校舎中央の回り階段を支える丸太柱は、松本藩主戸田家の菩提寺全久院からの転用材といわれています。全久院の建物は、開智学校の初代校舎で、現存する国宝校舎を建てる時に取り壊されました。
経費捻出や工事費節約が課題となっていたので、お寺の古材は貴重な資源でした。松本を襲った廃仏毀釈の嵐は、近代教育の芽生えを支えた一面もあったのです。

この螺旋階段をよ~くみると、左隅がすり減っていますね、左しか使えませんね


教室
どこか、懐かしさを感じますね

成績不良児学級

開智学校は明治23年(1890)から成績順にクラスを分ける能力別学級編成がなされ、これにあたる教師も学年で一番優秀な者が担当しました。しかし実状はいじめの問題や担任確保が難しく、一旦廃止となりました。
そんな中で輪湖卓三先生は自ら志願して学級を再開させ、それまでの反省を活かし児童への配慮も行い、並々ならぬ努力と熱意をもって指導にあたりました。


成績不良児学級 先生の言葉
(成績不良は)先天的か否や之れを知る能はず只々各人が社会、家庭、児童の 已往及現在を顧み又深知して自己の作れ尺度を以てはかり断定を下すのみ
(中略)自分の脳裏を顧みれば先天的の不良児童の方少く家庭に於て又社会に 於てこれが原因をなしたるを深く思ふ (中略)吾人は之れに向って益々注意し 教育の道をたどらんとす

いつの時代もいじめはあったのですね
・・家庭に於て又社会に 於てこれが原因・・と、あるね


いや~ なつかしいですね? 「九九」ですね
この図、フォントは違えど、いまも使っているのかなぁ?



御座所の由来

明治天皇が開智学校を視察した際、この部屋で休憩をしていきました。もともと普通の教室
でしたが、お出迎えのために現在の形に改造されました。その後、明治天皇との由緒がある
特別な部屋として扱われるようになります。明治20年代以降は御真影と教育勅語の保管場所
となり、あわせて来賓の応接にも使われました。
校舎完成からわずか4年で、特別拝観や掃除以外では自由に出入りできなくなってしまいました。



桟唐戸

この扉は「桟唐戸」といいます。
一際、和風·寺院風の印象が強い扉ですが、移築前の開智学校の隣にあった浄林寺というお寺から持ってきた扉です。当時、浄林寺は廃仏毀釈で廃寺となっており、開智学校の支校として使っていました。
扉上部についている彫刻は、飛竜という仏教上の生き物と波しぶきが対になっています。





飛竜


螺旋階段を2階から見ると…
なんと、急な階段ですね、上から見れば、右端がすり減っているのがわかります

謎の扉

階段の踊り場の、床から1メートルほどの高い位置に扉があります。ドアノブに手が届きにくく、部屋へ入るにも一苦労です。この不思議な扉はなぜ生まれたのでしょう。
この場所にはかつて教室棟へ続く廊下があり、この扉は創建当初は「世話役詰所」の出入口でした。現在の場所へ移築した際に教室棟が復元されず、廊下を階段に変更したことで扉だけが残ったのです。謎の扉は、教室棟が続いていたことを示す名残です。


よき雰囲気の灯りです


出てきました
看板の後ろは開智小学校の校舎、グランドです

ベンチに座って涼を取りながら、パチリです



はい、国宝、旧開智学校校舎を見学いたしました

校門からの写真を撮影いたします
やはり撮影ポイントでしょう、撮影する方が多いですね
でも、内側におられる方が写り込まないように、シャッターチャンスを待ちます
はい、パチリです
うまくパチリできあtのですが、左端に人が写り込みましたのでトリミングです
だから、中心が左に寄っていますね


長野県松本市の国宝「旧開智学校校舎」は、約3年半にわたる大規模な耐震対策および防災設備工事を終え、2024年11月9日にリニューアルオープンしました。現在は創建当時の姿を保ちつつ、最新の展示や見学が可能となっています

そうなんです、実は大規模な工事を行っていることは知っていました
なので、松本市、長野県への旅は2025年以降と思っていました
そして、2028年から松本城の大規模な耐震工事に入いる予定とありますので、数年間城内に入れなくなるので、これも合わせて結果、この2026年5月となりましたが、大正解でしたね













2026年6月8日

長野の旅 松本市役所から松本城を眺めます

松本城の情報を探っていると、松本市役所の5階の展望施設に入れて、その眺望が素晴らしいとの情報を得ました

ならば、城内を見学が終わりしだい、ぜひ伺わせていただきたく

黒門で入城待ちで並んでいるとき、右手に松本市役所が見えます
一番上が展望施設ですね

ここで、ハプニング
入場券を買い求める列は私が二番
一番は外国の御夫婦
目と目が合って、ニコッと笑みで挨拶したら⋯
なんとなく、つい出来もしない英語の単語を並べ話かけていました
なぜって? 松本市役所の展望台の眺望を教えてあげようかなぁって!
「Where are you from?」
返ってきた言葉が‥お!なんと、フランスの方
英語が?のようですが、私はチンプンカンプン
奥様は会話にチャレンジするも、旦那は、??のようで、奥様が旦那にフランス語で説明しているのですが、想像するに「この人なんて言ってるか、わからん!」と言っているのでしょう!
フランス語で話しかけてくれるのですが、チンプンカンプン!
手で地図を書き示すが如き動きで、パリ、スイスの方から来たようなんです
で、私、スマホを開き、市役所、松本城の写真を見せて、そして市役所を指さして説明したつもりですが、でも、チンプンカンプンのようです
ここで、入城開始時間、門が開いてチケット売り場へ
最後は笑顔と度胸で、「I'm sorry!」 「Have a nice day!」
ドキドキでしたね

帰宅して思い出したのです
Google翻訳で意思疎通をはかればよかったと!

でも、よきチャレンジ?でした(笑)
嫁、何やってんの?という感じでしたね

なにごとも勉強です!


そんなこんなで、念願の松本城に入城できました

松本市役所へ
太鼓門の前が、松本市役所です


職務中、申し訳ありません
玄関受付で展望台にと、申告し、エレベーターで4階へ
あとは階段で5階の展望台にいきました

展望台には、横浜から来られた御夫婦と私たち4人です

おお! 絶景ですね
奥にみえるのは、北アルプスの山並みです

少し、ズームで城部分を

東側の景色

松本市市役所 公園緑地課の情報です
国宝・松本城、内堀周辺でTV番組で見慣れた?その姿をパチリして、入城して天守に上りました


日本全国にわずか12城しか存在しない現存天守
そのうち五城が「国宝」、七城が「重要文化財」です

今回、国宝・松本城を訪れ、これで現存する天守、青森県・弘前城・重要文化財を残すだけになりました

現存天守十一城を訪れたことになり、よき思い出となりました
青森、弘前城、いけるかなぁ?










2026年6月7日

長野の旅 国宝松本城です、その二、入城

松本城・配布パンフの説明によれば…

松本城天守築造
松本城は戦国時代の永正年代初めに造られた 深志城が始まりです。戦国時代になり世の中が 乱れてくると、信濃府中といわれた松本平中心の 井川に館を構えていた信濃の守護小笠原氏が、館 東の山麓の林地区に移し、その家臣らは、林城を取り囲むように支城を構えて守りを固めまし た。深志城もこの頃林城の前面を固めるために造 られました。その後、甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い、この地を占領し信濃支配の拠点としま した。その後天正十年(1582)に小笠原貞慶 が、本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を 回復し、名を松本城と改めました。
豊臣秀吉は、天正十八年(1590)に小田原 城に北条氏直を下し天下を統一すると、徳川家康を関東に移封しました。この時松本城の小笠原氏が家康に従って下総へ移ると、秀吉は石川数 正を松本城に封じました。
数正・康長父子は、城と城下町の経営に力を尽くし、康長の代には天守 三棟(天守・乾小天守・渡櫓)はじめ、御殿・太鼓 門・黒門・櫓・塀などを造り、本丸・二の丸を固め、三の丸に武士を集め、また城下町の整備をすすめ、 近世城郭としての松本城の基礎を固めました。
天守の築造年代は、康長による文禄二年から三年(1593~4)と考えられています。



入りましょう
黒門です

いち早く、入ってきたお陰で、人影はありません
よき一枚になりました

城入口です
左側が、電子チケットでの入城、入場券は右の松からぐるっとまわって入ります


渡櫓(天守への入口)

天守と乾小天守をつないでいるのが渡櫓です。天守閣への 入り口である大手口は、頑丈な扉があり 簡単には中に入れないように造られてい ます。

天守内部です

階段付近は撮影禁止
なかなか手ごわい階段です

鉄砲の蔵 天守二階

古さを感じますね

この階は窓が多く明るい階です。竪格子窓(武者窓)が東・西・ 南の三方にあります。
四部屋に分けられ ていて、武士たちがつめている武者溜だったと考えられています。


御座の間(天守四階)
書院造り風のこの部屋は、いざというときに は、城主がいるところ(御座所)になりました。 天井が高く、四方から光が入ります。柱はすべて桧で、かんながかけられていて鴨居の上には小壁もあり、てい ねいな造りに なっています。



天守六階
天守六階は周囲に3尺(90cm)通りの入側が巡る3間の一部屋となっている。
無目敷居が回っているので、畳を敷くことも可能である(階段を除き京間16畳となる)。
有事には最高幹部の司令塔(城主の座所)となるところである。
六階の床面は地上22.1m、堀水面上23.9mあり、東は山辺谷から美ヶ原高原、南は
松本市街の中心部と塩尻·木曾方面、西は安曇平が広がり、その向こうに北アルプス
(乗鞍岳·槍ケ岳·常念岳·燕岳など)、北は信州大学·国宝開智学校から放光寺·城山
方面が一望できる。


天井の井桁に組まれた太い梁の奥に祀られている松本城の守護神である「二十六夜神」の御神体です
ここは戦の時、周りの敵の様子を見るところ(望楼)として使われました。
天井は井桁梁で六階に登る階段(天守五階)がっちりと組まれています。
天井中央にまつられているのは、 二十六夜神と いう松本城を守る神様です。


天守六階から西側を望む

北側 国宝旧開智学校がみえるね

月見櫓に下りてきました
北·東·南に設えてある舞良戸を外すと、三方吹き抜けになり、回りに巡らされた朱塗
りの回縁や船底型の天井など書院風の造りと相まって、優雅な雰囲気を醸し出し、天守·
渡櫓·乾小天守と比べ開放的で、平和な時代に造られたことがよく分る。
この月見櫓は松本城主松平直政(家康の孫)によって、一国一城令という統制の厳しい中、
寛永年中に三代将軍家光を迎えるため、増築されたものである。
現存する城郭建築の中で月見櫓を持つのは松本城と岡山城だけであるが、天守と一体と
なっているのは、松本城だけである。


この月見櫓は、人気なのか? 窓に近づけないほど満室?
外人さんが、窓ベに座って休憩していて動かないのです
それと、女性、Bigなのです

天井を眺めて梁をパチリです


下りてきました

石落と狭間
天守閣では、戦国 時代の主力武器であ った鉄砲戦への様々 な備えを見ることが できます。
厚い壁には矢狭間・鉄砲狭間 があわせて二五ヶ所 あり、天守・乾小天守・ 渡櫓の一階には石落が設けられています。 石落は石垣を登って敵を防ぐ工夫で、 狭間と同じように 鉄砲を使っての攻撃も可能な武備でした


月見櫓が順路、出口になっています
その付近の広場で、人気、忍者ショー? 
みなさん、楽しんでいました
平和な時間です

写っている方は皆、外国人観光客の皆さん

太鼓門・鏡石
玄蕃石伝説
伊深(松本市岡田、別に山辺山という説もある)にとても大きな石がありました。
太鼓門の脇にすえる石にちょうどよいということになり、石川玄蕃頭康長みずからが石の上に乗り、お城まで運ぶことになりました。

ところが、石を運ぶ人々の中に一人、不満を言う者がいました。それを聞いた石川康長は石から飛び降りると、 不満を訴えた者を呼びだし、大勢の前で首をはねました。槍をとると、その首を突き刺して高くかかげ、ふたたびその大石の上に飛び乗ると「者ども、さあ引け!」 と大声で号令をかけ、石を引かせました。
このできごとがあってから、誰がそう呼び出したのかは分からないけれど、その大きな石を玄蕃石と呼ぶようになりました。
このような名前がついた石は、珍しいです。


太鼓門枡形の由来
城の入り口を固く守るためには様々な工夫がなされた。 その典型的なものが枡形門で、 石垣 土塀を四角に囲って、 内と外に門を二重に構えたものである。 松本城には、大手門・ 太鼓門・ 黒門の三つの枡形門があった。
太鼓門は、天守築造後の文禄4年(1595) 頃に石川康長によって築造され、それから270余年後の明治4年(1871) 11月、 旧物破壊の風 潮の中で取り壊されたままになっていた。 第2次世界大戦後になって文化財保護の思想が高まり、 松本城国宝保存工事、黒門の復興等を経て、 平成11年(1999) 3月、 128年ぶりに太鼓門枡形が復元された。
この門の名称の由来となった太鼓楼は門台北石垣上に置かれ、 太鼓や鐘がおかれて様々な合図が発信され、 また櫓門の脇には、築造者の 官名に因む、重量22.5トンの巨石、「玄蕃石」 を据え威風堂々とした枡形門を形造っていた。 一般に城の重要な門には、 威厳をそえるため 巨石を据えることが多かった。 この玄蕃石も同様な意味を持つものである。
石川康長のころには天守を中心として本丸・二の丸 (内曲輪) を 「御本城」 として整備拡充し、 三の丸 (外曲輪) には武士を集住させるため の武家屋敷を建設し、 五ヵ所の城戸 (柵門) はいずれも櫓門に変えられた。


二ノ丸御殿跡へ入ります

二ノ丸御殿跡から天守を望みます

北裏門跡への橋

プリウスα君の車内より信号待ちの時の一枚です
ここが正式な?観光入口かなぁ?

と、いうことで念願の松本城へ行ってきました
TV番組で放送される松本城の撮影ポイントでの撮影もできました
開城前の時間に並んで入城してだれもいない、写らない天守も撮影できました

さぁ、松本城を展望できる、松本市市役所に行きましょう




追記:記事中文言の一部は、配布パンフからの引用です