時間には間に合ったが、感があたったのか、下調べが甘いというか、なんと休館日でした
一応、背面をパチリいたしました
国宝 旧開智学校 校舎
国宝指定(今和元年 2019年 9月30日)附建築関係資料(文書56点図面7点)
※重要文化財指定建築面積 昭和36年(1961) 3月23日
※重要文化財指定建築面積 昭和36年(1961) 3月23日
建設面積:513.58m2 木造二階建 寄棟造 桟瓦葺 中央部八角塔屋付
建築樣式:擬洋風建築
建築年 明治9年(1876) 移築復元工事 昭和38年~39年(1963~64)
設計・施工:立石清重 Seijyu Tateishi(1829-1894)
翌日、再びやってきました
入場券です、来校記念になります
上右の入場券の裏の説明より⋯
校舎の建築
開智学校は、明治6年(1873)筑摩県学を継承して開校され、同9年校舎を新築した。
校舎の新築は、教育を立県の指針とした筑摩県権令永山盛輝のもと、地元住民により計画され、松本の大工棟梁立石清重がはるばる東京·横浜へ出向き、東京大学の前身開成学校などを参考にして設計施工した。工費約1万1千円の約7割が地元住民らの献金によるものであった。
国宝指定
昭和36年(1961)に重要文化財に指定された校舎は、令和元年(2019)に、近代学校建築としては初めての国宝に指定された。国宝指定にあたっては、文明開化期の洋風建築受容の様子を示し、近代教育の黎明を象徴する擬洋風校舎として、深い文化史的意義を有することが評価された。
昭和の移築·修理
旧開智学校は市内の中心部を流れる女鳥羽川沿いにあったが、同河川改修工事のため昭和39年現在地に移築復元された。開智学校に保管されてきた明治時代から現代にわたる教育資料などの収蔵資料は約11万点にのぼる。その一部を展示して昭和40年から教育博物館として一般公開されている。
真正面です
画角、入いりません
旧開智学校校舎は、明治9年(1876)4月に完成し、その後90年近く使用された小学校の校舎です。地元松本の大工棟梁立石清重が設計·施工しました。和風と洋風が混ざりあった擬洋風の校舎は、東京の開成学校(東京大学の前身)や国立第一銀行をはじめとして、当時の擬洋風建築の特徴をよく取り込んでいます。東西南北の風見を配した八角塔がそびえ立ち、
舶来のギヤマン(ガラス)が散りばめられた白亜の広大華麗な校舎の出現に、人々は新しい時代の幕開けを感じたことでしょう。
昭和36年(1961)3月23日に重要文化財に指定されていた校舎は、同38年1月から翌年8月にかけて、市街地を流れる女鳥羽川のほとりから現在地に移築され、新築当時の形に近づけて復元されました。昭和40年4月から校舎の公開と教育資料を展示する博物館として開館しました。
令和元年(2019)、近代学校建築としては初めて国宝に指定されました。開化期の洋風建築受容の様子を示し、近代教育の黎明期を象徴する校舎として、深い文化史的意義を有すると評価された校舎は、激動の時代に立ち向かった当時の人々の気概と新時代への希望を今に伝えています。
開智学校は、江戸時代の松本藩校崇教館の流れを引き継ぎ、明治5年(1872)5月に開校した筑摩県学を母体としています。
すこし右に移動し、見上げてパチリ
すこし右に移動し、見上げてパチリ
この説明、案内でそれぞれの名称がよくわかります
風見鶏は、東西南北の方位です
さぁ、校内に入りましょう
校章 三枝の松
国宝 旧開智学校校舎
国宝 旧開智学校校舎
旧開智学校校舎は、明治9年(1876)に完成した小学校の校舎です。
筑摩県権令·永山盛輝の学事奨励策のもと、学区内の住民が建設費を出し合い、松本の大工·立石清重が設計·施工しました。
当時の地元新聞で「目今日本第一等の小学校」と評された擬洋風の校舎は、完成から140年以上の時を経た令和元年(2019)9月30日、近代の学校建築として初めて、国宝に指定されました。
天使と龍はどこから来たか?
旧開智学校校舎の象徴となっている天使と龍の彫刻。
天使のデザインは、当時の代表的な新聞である『東京日日新聞』(錦絵版)のタイトルデザイン
から引用されたと考えられています。龍の彫刻は、移築前の開智学校に隣接していた浄林寺
(当時は廃仏毀釈で開智学校の支校になってから持ってきたといわれています。
校舎の真正面に天使と龍を配置した理由は定かではありませんが、新しい文化と伝統が混ざり合った、まさに文明開化を体現したデザインです。
校舎の真正面に天使と龍を配置した理由は定かではありませんが、新しい文化と伝統が混ざり合った、まさに文明開化を体現したデザインです。
「丸太柱」はお寺の柱
校舎中央の回り階段を支える丸太柱は、松本藩主戸田家の菩提寺全久院からの転用材といわれています。全久院の建物は、開智学校の初代校舎で、現存する国宝校舎を建てる時に取り壊されました。
経費捻出や工事費節約が課題となっていたので、お寺の古材は貴重な資源でした。松本を襲った廃仏毀釈の嵐は、近代教育の芽生えを支えた一面もあったのです。
教室
どこか、懐かしさを感じますね
成績不良児学級
開智学校は明治23年(1890)から成績順にクラスを分ける能力別学級編成がなされ、これにあたる教師も学年で一番優秀な者が担当しました。しかし実状はいじめの問題や担任確保が難しく、一旦廃止となりました。
そんな中で輪湖卓三先生は自ら志願して学級を再開させ、それまでの反省を活かし児童への配慮も行い、並々ならぬ努力と熱意をもって指導にあたりました。
成績不良児学級 先生の言葉
成績不良児学級 先生の言葉
(成績不良は)先天的か否や之れを知る能はず只々各人が社会、家庭、児童の 已往及現在を顧み又深知して自己の作れ尺度を以てはかり断定を下すのみ
(中略)自分の脳裏を顧みれば先天的の不良児童の方少く家庭に於て又社会に 於てこれが原因をなしたるを深く思ふ (中略)吾人は之れに向って益々注意し 教育の道をたどらんとす
いつの時代もいじめはあったのですね
・・家庭に於て又社会に 於てこれが原因・・と、あるね
いや~ なつかしいですね? 「九九」ですね
この図、フォントは違えど、いまも使っているのかなぁ?
御座所の由来いや~ なつかしいですね? 「九九」ですね
この図、フォントは違えど、いまも使っているのかなぁ?
明治天皇が開智学校を視察した際、この部屋で休憩をしていきました。もともと普通の教室
でしたが、お出迎えのために現在の形に改造されました。その後、明治天皇との由緒がある
特別な部屋として扱われるようになります。明治20年代以降は御真影と教育勅語の保管場所
となり、あわせて来賓の応接にも使われました。
校舎完成からわずか4年で、特別拝観や掃除以外では自由に出入りできなくなってしまいました。
桟唐戸
この扉は「桟唐戸」といいます。
一際、和風·寺院風の印象が強い扉ですが、移築前の開智学校の隣にあった浄林寺というお寺から持ってきた扉です。当時、浄林寺は廃仏毀釈で廃寺となっており、開智学校の支校として使っていました。
扉上部についている彫刻は、飛竜という仏教上の生き物と波しぶきが対になっています。
飛竜
螺旋階段を2階から見ると…
なんと、急な階段ですね、上から見れば、右端がすり減っているのがわかります
謎の扉
階段の踊り場の、床から1メートルほどの高い位置に扉があります。ドアノブに手が届きにくく、部屋へ入るにも一苦労です。この不思議な扉はなぜ生まれたのでしょう。
この場所にはかつて教室棟へ続く廊下があり、この扉は創建当初は「世話役詰所」の出入口でした。現在の場所へ移築した際に教室棟が復元されず、廊下を階段に変更したことで扉だけが残ったのです。謎の扉は、教室棟が続いていたことを示す名残です。
よき雰囲気の灯りです
出てきました
校門からの写真を撮影いたします
やはり撮影ポイントでしょう、撮影する方が多いですね
でも、内側におられる方が写り込まないように、シャッターチャンスを待ちます
はい、パチリです
うまくパチリできあtのですが、左端に人が写り込みましたのでトリミングです
だから、中心が左に寄っていますね
だから、中心が左に寄っていますね
長野県松本市の国宝「旧開智学校校舎」は、約3年半にわたる大規模な耐震対策および防災設備工事を終え、2024年11月9日にリニューアルオープンしました。現在は創建当時の姿を保ちつつ、最新の展示や見学が可能となっています
そうなんです、実は大規模な工事を行っていることは知っていました
なので、松本市、長野県への旅は2025年以降と思っていました
そして、2028年から松本城の大規模な耐震工事に入いる予定とありますので、数年間城内に入れなくなるので、これも合わせて結果、この2026年5月となりましたが、大正解でしたね
そして、2028年から松本城の大規模な耐震工事に入いる予定とありますので、数年間城内に入れなくなるので、これも合わせて結果、この2026年5月となりましたが、大正解でしたね
































































