ページ

2026年6月4日

長野の旅、 二泊目の宿は松本市内の4星HOTELです

上田城「P」から二泊目の宿に向かって走ります
時間も余裕がありましたから、観光スポット、国宝旧開智学校へ走ります
万一時間外に到着してもそれはそれでいいのです
ところが、ハプニングが起こりました
それは、山越え国道143号線を走ってしまいました

プリウスα君のカーナビにルート案内を託しました
そして、iPadのMOVIリンクにもね
下図、本来のルートなれば、国道254号線を走るのです
ちょっと渋滞に入り、迂回してしまったのです
これが、大変なミスとなりました
通常、プリウスα君のカーナビは、道を変えても必ず元に設定したルートに戻そうとします
でも、なぜか、今回は別のルートを選んでいたのです
これはカーナビのせいではありません、途中コンビニで水を買いました
私、その時、この地点から、ルート再検索をしてしまったのです
結果、この操作が国道143号線の山道を走るルートに変わってしまったのです
慣れていた操作とは、えらい所でのミス、山の中に迷い込んだのです(赤矢印)


あとで調べてみたのですが、青木峠、標高1040mとあります
この山にはトンネルが確か2ヶ所ありまして、それも信号付き

一車線で、くねくねの山道、約1時間走っても対向車は1台のみ
このような道、いつものことですからなんともないのですが、助手席の嫁、怒っています

途中、野生の鹿の親子が10mほど前を横切りました
お!驚きましたね
熊でなかったのが幸い?
長野、松本付近、熊出没するのかなぁ

くねくねした山道(林道ではない)を走り終えました
まぁ、なんとか無事?で、国宝旧開智学校に到着しましたが、なんと休館日
やっぱり!!
では、HOTELに走ります


今回の宿は、Gemini君に聞いてみました

・解答
1. 松本ホテル花月
松本城へ徒歩約5分という、これ以上ない好立地にある老舗ホテルです。

2. 浅間温泉 みやま荘

3. ホテル ブエナビスタ
松本駅と松本城の中間ほどに位置する、松本を代表するシティホテルです。

この回答をみて一泊目は、浅間温泉 みやま荘、二泊目はホテル ブエナビスタにしました
なんと、4星ホテル、高級ホテルです


夕食です
松本市、駅前に行きます

個室が主のお店
周りを気にせず、ゆっくり夕食をいただけます


地酒もいただきました
諏訪湖の付近に酒蔵が数件ありましたね
で、最初にいただいた冷たいビールで、ラッキーな出来事が!
この件は、別の記事にします

ゆっくり食事もでき、ほろ酔いかげんで、松本駅に行ってみました

街の灯りがない、だから暗いと思うのだが!
その中、ワイワイ人だかりが?
うん?これは近づかないほうがいいかなぁ? 団体で抗議活動のようです
夜空みあげると、三日月
その三日月の下の光、そう金星です(下赤丸)
空気が澄んでいるのか、明るくキレイです

HOTEL エレベーター前

素敵な部屋でゆっくり疲れをとりました


そして翌日、朝食です、豪華です
HOTELでは定番?シェフの作るオムレツは美味しかったです
それにしても貧乏性ですね、プレートすべてに食べものをいれてます
お焼きまであります・・大丈夫か?

美味しかった、完食でした

さぁ、長野の旅、最終日です
出発します

楽しみです








2026年6月3日

長野の旅、真田氏から今に伝わる上田城です そのニ、尼ヶ淵の石垣

城内から西虎口から急な階段をおりて、尼ヶ淵を歩いて石垣を眺めます


尼ヶ淵(西)

下、赤線 算木積み うめ殺しがみられる

この左側にある「上田泥流層」の案内板、尼ヶ淵の崖


上田城跡駐車場や芝生広場の一帯は、江戸時代には千曲川の分 流が流れていた川原で、尼ヶ淵と呼ばれています。この川は上 田城を守る天然の堀の役割を果たしていましたが、大水が出る と尼ヶ淵の崖を浸食することがあり、まさに諸刃の剣でした。 崖に見られる地層は三つです。上から1上田泥流層(火山が崩 壊した土砂などが堆積したもの)、一番下には3染屋層(川の作用で砂礫が堆積したもの)、そして、この二つの層の間には、火砕流に由来する粉じんが堆積しています。三つの地層の中では、2の層が一番軟らかくてもろいため、大水のたびに2の層を 中心に崖が削られてしまい、崖が崩れて櫓に被害が及ぶ心配がありました。そのため、上田藩主・松平忠愛は享保十八年(一七 三三)から石垣を築いて、崖を浸食から守りました。尼ヶ淵の石 垣のほとんどは、このように崖を守るために造られたものです。



奥に南櫓

西櫓

川と河川敷? 自然の堀ですね


〈上田城お勧め見学ルートその4>

尼ヶ淵(城の南側を守った天然の堀) ここから本丸の櫓を見上げると、その守りの堅さを実感します。江戸時代にはここを千曲川の分流が流れていたのですから、さらに防俺は強固なものになりました。崖の高さは約12メートルあり、上田泥流層の垂直な崖がさらに敵の侵入を難しくしました ところが、千曲川が増水した際に、崖を川の水が削ってしまうことから、歴代の城主はこの対応に頭を痛めまし た 崖面に築かれた石垣には算木積みの古い技法と考えられるものもあり、仙石氏の頃、あるいはそれ以前に築かれた石垣である可能性もあります そして享保17年(1732)の大水では、ついに崖が大きく崩落してしまいました< そのため城主・松平忠愛は崖を守るための石垣の築造を計画し、翌年から工事を始めました。享保21年、石垣は完成しますが、石材と石工の不足から当初の計画通りにはいかず、南橋と西橋の下を除いて、石垣は低くなったり、造られずに終わってしまいました。


奥の石垣をみると…

算木積み うめ殺し(下赤丸)
ここからが真田でここからが仙石ともいえる可能性がある

このようなうめ殺し、算木積みを数ヶ所、見つけることができます
石使いは、赤丸と赤丸の間、算木積みの間の石は安山岩
外側は緑色凝灰岩、後で付け加えたものとわかる


地形がよくわかりますね

この辺一帯が尼ヶ淵
水運、船着き場 尼ヶ淵
流れ込んできた川の流れが淵になっている 
水運、船着き場とも考えられ物資の運搬やいざというときの脱出経路として船着き場があった痕跡の可能性がある
上田城のなかでは古手の石垣でもある

上部の石垣に転用石がみられるらしい




矢穴 石を割るために掘られた穴 約10cm 


南櫓下の石垣について
南櫓下の石垣は、上田城の南面を護る天然の要害「尼ヶ淵」より切り立つ断崖に築かれています。
中段石垣は、長雨により一部崩落したことから 修復工事を実施しました。
中央部の崖面露出部分は、崖が張り出しており石垣が無かった部分であることから、原形に基づきモルタルで修復しました。

ここは尼ヶ淵(東) 本丸堀の東側の端


下赤線・算木積みのうめ殺しがみられる
線の右は安山岩の野面積み、そして玉石、千曲川から持ってきた丸い石を石垣の隙間をうめる石として使っていた
左は割石と緑色凝灰岩のできた石垣



じつはこの右に本丸堀の空堀の外側がみられるのですが、工事中のため入れません
よって、その石垣をGoogleMap ストリートビュから拝借しました

下、赤丸が石桶、排水溝
GoogleMapより



広すぎるので、2枚を合成してみました
今日のお伴のカメラにはパノラマ撮影機能がない!

上田城の石垣で使われている主な岩石
石の色の違いでも判別できるようです
1・緑色凝灰岩 
2・安山岩 江戸時代
3・玉石
千曲川から持ってきた丸い石を石垣の隙間をうめる間詰め石として使っていた

南側の防御策として真田は河岸段丘を利用
当時は崖の真下を川が流れていたので防御力が高かったと

時代がわかるのか?算木積みのはめ殺しが数カ所みることができました

真田家からはじまり、仙石家・松平家と、築城から400有余年の今、この石垣をみていると、その歴史を感じるのですが、私は上田城=真田氏が染み付いていますね

よき御城でした










2026年6月2日

長野の旅、真田氏から今に伝わる上田城です その一

私の頭には、上田城=真田氏 です

案内書によれば…
上田城は天正十一年(1583)、真田昌幸によって藥かれた平城で、上田盆地のほぼ中央に位置しています。
堀と土塁で囲まれ、虎口(出入口)に石垣を使った簡素な城ですが、第一次、第二次上田合戦で德川の大軍を撃退し、天下にその名を轟かせました。数ある城郭のなかで、2度もの実戦経験をもち、輝かしい戦果をあげた城は、全国でも他に例はありません。
しかし、上田城は関ヶ原の合戦後に破却され、藩主であった真田信之も松代へ移封となりました。その後、小諸から入封した仙石氏により城は再算され、近世後半には松平氏の居城となります。
幕末には本丸に槽門2基、機7基がありましたが、現在は櫓3基と格門1基をみることができます。また、園内には石垣や土塁が至る所に残されています。
真田氏からはじまり、築城から400有余年、戦国ロマンあふれる園内ですと、上田城案内にあります

さあ、わくわくしています
そうですね、大河ドラマ、ブラタモリ、お城番組など幾度なくその番組をみて、頭の中はすっかり行った気になっています

「P」です


「P」にα君を停め、眺めれば、左、現存西櫓、右、南櫓が見えます

「P」から南櫓を見上げながら、順路、案内板みながら進みます


南櫓
南櫓下の石垣は、上田城の南面を護る天然の要害「尼ヶ淵」より切り立つ断崖に築かれています。
中段石垣は、長雨により一部崩落したことから 修復工事を実施しました。
中央部の崖面露出部分は、崖が張り出しており石垣が無かった部分であることから、原形に基づきモルタルで修復しました。


お、いい感じの並木みちです

けやき並木、じつにすてきな歩道です
二ノ丸橋とあります
橋脚の右下に電車のプラットフォーム跡があります、公園下駅


お堀の移りかわり


けやき並木のこの場所は上田城二の丸の堀の跡です。
二の丸をかぎの手に囲んで、その延長は約646間 (1163m) あり、 上田城の堅い守りに役立っていました。 
その後、昭和3年5月に上田温電北東線が開通し、この地を電車が通っていました。
昭和47年2月に電車が廃止され、現在に至っています。

坂道をあがります
うん? ここに使われている木材は、電車廃材の枕木に思えたのだが?

上田城

二ノ丸橋です
奥は工事中のようですね

上からみる樹齢100年けやき並木
この時期の新緑はうつくしい

本丸土塁の隅欠(すみおとし)
上田城や藩主屋形 (上田高校)の土塁、堀、城下の寺社の配置等には鬼門除けが見られ、真田氏の頃から設けられていたものとされる。鬼門とは北東の方位で、鬼が出入りする方角として忌み嫌われ、建物等の東北の角をなくして隅欠としたり、 城下町の鬼門に寺社を置いたりした。
上田城本丸の土塁は東北の隅を切りこみ、やぐら2棟をその 両脇に配置していた。堀や土塁の斜面が内側にへこんで見え るのはそのためである。
二の丸堀の東北の角は、かぎの手に折り曲げ2、外側を「樹 木屋敷」と呼ぶ林としていた3。また、藩主屋形の土塁・土塀 も隅欠をするなど、各所に鬼門を除ける強い意識がみられ、上 田城の特徴のひとつである。

工事のおかげ?で、本丸土塁の隅欠の付近まで通路規制でしたので、見ることができました

上田城の城主
真田家・仙石家・松平家



真田氏が築き、仙石氏が復興し、 松平氏が守り伝えた上田城 叶えよう夢を!!
本丸櫓と武者溜りの復元
江戸時代、 旧市民会館一帯は石垣や土塁に囲まれた武者溜りでした。 そして、 本丸には7棟の櫓と2つの櫓門、 土塀が築かれていました。 天守はありませんでしたが、本丸に7つもの櫓が所狭しと並び、 鬼門除けとして北東の土塁の隅には櫓が2棟建てられました。 上田市は城の正面である、二の丸東虎口から本丸東側までの範囲を優先して復元整備し、上田城が誇る堅い守りを皆さんに 体感していただけるよう、取り組んでまいります。



本丸東虎口
現在、本丸の東西虎口には3棟の櫓が残っています。 東虎口にある南北2棟の櫓は明治8年(187 5)に民間に払い下げられ、上田城の北方、太郎山山 麓の上田遊郭に移築されました。
昭和16年(194 1)には市内の建築業者から東京の料亭に転売され るという事態が起こりましたが、市民らにより上田 城址保存会が結成され、2棟の櫓を買い戻しまし た。その後、戦局の悪化による中断をはさみながら 同24年(1949)に現在地に復元。南櫓・北櫓と名付 けられ、上田城跡のシンボルとして人々を迎えるこ とになりました。昭和34年には、西櫓とともに長野 県宝に指定されています。
また現在東虎口にある櫓門は、古写真等を根拠に 平成5年度に復元したものです。


本丸東虎口の左手、空堀

もしかしたら、真田の痕跡
空堀、排水の穴がある もしかしたら真田の時は水が?


真田石
鏡石 真田石 高さ2.5m 幅3m


大手の石垣に巨石を用いる 例は多く、城主はその権威を示 すために、大きさを競ったとい う。真田石は、真田信之が松代 に移封を命じられた際に、父の形見として持っていこうとし たが、微動だにしなかったとい う伝承がある。現在ある石垣は 仙石忠政が造ったものである
が、真田氏に寄せる人々の敬愛の情がうかがえる伝承である。


北櫓

眞田神社
昭和28年 代々の藩主を祀る 

眞田神社 本殿

真田井戸 
この井戸からは、 抜け穴があって城北の 太郎山麓の砦に通じて いた。敵に包囲されても その抜け穴より兵糧を 運び入れるにも、城兵の 出入りにも不自由 しなかったという

直径2m 深さ16.5m 本丸唯一の井戸


本丸西櫓
本丸には7棟の櫓がありました。 いずれも元和8年(1622) 真田信之の松代転出後 に上田城主となった仙石忠政が行った、寛永 3年(1626)からの上田城復興工事の際に建てられました。
現在、本丸の東西虎口には隅櫓が3棟ありますが、南橋・北櫓の2棟は、明治維新後、他所へ 移築されていたものを現在地に再移築したものです。西櫓のみが寛永期の建築当初の部材を 残し、外観もほぼそのままの姿を残す西櫓は 全国的にも貴重な建物であり、昭和34年には南 櫓・北櫓とともに長野県宝に指定されました。
櫓の構造は桁行5間(約9m)梁間4間(約7.2m)の二重櫓で、主要材は松とです。
屋根は入母屋造で本瓦葺き、外壁は下見板張りで一部を白漆喰の塗籠としています。
窓は「武者窓」という形式で、突き上げ戸が取り付けられており、棒で突き上げてすばや く開けられるようになっています
1階の狭間(矢・弾丸を放つための窓)は、いずれも下方の敵を狙いやすいよう低い位置に開けられています。南・北面では左から縦長の矢狭間が 一つと、正方形に近い鉄砲狭間三つが並んでい ます。また西面では、左側に矢狭間が一つ、そ の 右に鉄砲狭間が並んで配置されています



本丸西櫓を城内より

上田城 略年表から
天文十年 (1541)「海野平の合戦」に敗れた真田幸隆は、上田の地を追われる。
天文十六年(1547)幸隆の三男·昌幸が誕生。
天文二十年(1551)幸隆、砥石城を攻略し、再び上田の地へ。
天正三年(1575)「長篠の戦い」で二人の兄が戦死。昌幸が真田家を継ぐ。
天正十一年(1583) 昌幸、上田城を築城。
天正十三年  (1600) 第一次上田合戦。
慶長 六年 (1601) 第二次上田合戦。「関ヶ原の合戦」後、上田城が徳川方に接収される。
慶長 六年(1601) 徳川軍によって上田城破却。その後信之に上田領が引き渡される
元和六年(1622)仙石忠政入封
宝永三年(1706)松平忠周と所領交代

城内をみて回りました

二の丸東虎口から本丸東側までの範囲を優先して復元整備できれば、また訪れたいですね

さぁ、次は石垣です
続きます