2018年11月15日

山口県萩市への旅・・・No8、堀内鍵曲・・山口県萩市堀内

秋、行楽の時季、行先は山口県萩市、島根県津和野への2泊3日の旅をしています・・・
・・山口県萩市、堀内地区重要伝統的建造物群保存地区を巡ります・・

山口県萩市堀内の堀内鍵曲、旧明倫館跡、平安橋を巡ります


・・・堀内地区重要伝統的建造物群保存地区・・・
近世城下町の武家屋敷の地割りを残す土塀の連なる町並みが続きます
堀内は旧萩城三の丸にあたり、毛利輝元が慶長十三年(1608)に指月山に城を築き、町割をおこなったことに始まる。保存地区は堀内のほぼ全域で、藩の諸役所(御蔵元・御木屋・諸郡御用屋敷・御膳夫所・御徒士所)と、毛利一門をはじめとする大身の武家屋敷が建ち並んでいた。近世城下町の武家屋敷としての地割が今もよく残り、土塀越しに見える夏みかんとともに歴史的風致を形成している。
現在も、地区内には永代家老の益田家の物見矢倉など10数棟の武家屋敷が残ります・・・萩市観光協会より引用

展示品の古地図・・・白枠、左から堀内鍵曲、旧明倫館跡、平安橋


堀内鍵曲

「鍵曲」は、敵の侵入や攻撃に備えるため、左右が高い土塀で囲まれた、見通しきかない鍵手形の道路である
藩政時代、このあたりはには重臣たちの邸宅が建ち並んでいたが、明治時代以後、ほとんど解体され、夏みかんの畑になった
なお、この堀内地区は、平安古地区とともに、国の「重要伝統的建造物保存地区」に選定されている
口羽家住宅そばの鍵曲は往時の趣をとどめ別名「追廻し筋」とも呼ばれています


反対側から・・・

この備忘録記するおり・・・
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」のワンシーン 松陰が妹、文に話している場面・・・
背景は「堀内鍵曲」があったと思い、録画保存から、探しました・・見つけました・・(汗)
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」再生時、撮影引用
・・・至誠にして動かざるは未だこれ有らざるなり・・・
無理だとおもうことでも、行動することが大切なのです・・・忘れていますね!



旧明倫館跡(堀内)

ここは、萩城三の丸の南側に創建された萩藩校明倫館の跡地です
萩藩校明倫館は、萩藩五代藩主毛利吉元が享保三年(1718)に創建し、全敷地は九百四十坪ありました
江戸時代に全国で三百近くあった藩校のうちでも比較的早い時期にできており、整備、教育内容共に全国でも有数の藩校でした
嘉永二年(1849)に萩城下の中央の江向の地に移されるまで百三十年間にわたって、藩政を担う藩士育成のための教育が行われていました

・・・建物はなく、案内板と石碑のみ・・・中は荒れています・・・もと、夏みかん畑か?


市指定有形文化財・・平安橋

この橋は萩城三の丸の三箇所の総門(北・中・平安古)の一つである「平安古の総門」前の外堀に架けられ、城下町から三の丸への通路の一つであった
慶安五年(1652)の萩城下町絵図には木橋として描かれているが、城下の新堀川に架かっている石橋がいずれも明和年間(1764~71)に構築されているところから、同時期に石造りに架け替えられたものと思われる
橋の材質は安山岩で造られており、吊り桁・定着桁を備えたゲルバー桁橋の構造を持った無橋脚の珍しい橋である
橋桁6.04m、幅3.95m、堀底からの高さは2.5mである


現役です

なかなか素晴らしい景観です 
のんびり歩いて、あちこちキョロキョロ・・実に、楽しいですね






山口県萩市への旅・・・No7、口羽家住宅・・山口県萩市堀内

秋、行楽の時季、行先は山口県萩市、島根県津和野への2泊3日の旅をしています・・・
・・山口県萩市、堀内地区重要伝統的建造物群保存地区を巡ります・・

萩市堀内、口羽家住宅を訪ねます


・・・堀内地区重要伝統的建造物群保存地区・・・
近世城下町の武家屋敷の地割りを残す土塀の連なる町並みが続きます
堀内は旧萩城三の丸にあたり、毛利輝元が慶長十三年(1608)に指月山に城を築き、町割をおこなったことに始まる。保存地区は堀内のほぼ全域で、藩の諸役所(御蔵元・御木屋・諸郡御用屋敷・御膳夫所・御徒士所)と、毛利一門をはじめとする大身の武家屋敷が建ち並んでいた。近世城下町の武家屋敷としての地割が今もよく残り、土塀越しに見える夏みかんとともに歴史的風致を形成している。
現在も、地区内には永代家老の益田家の物見矢倉など10数棟の武家屋敷が残ります・・・萩市観光協会より引用

展示品の古地図・・・白枠が口羽家住宅


国指定重要文化財 口羽家住宅


表門は、萩に残っているものとしては最も雄大な規模を有する長屋門である。
桁行22.2m、梁間4.9m、入母屋造り本瓦茸である。片潜門の南側には門番所・中間部屋・厩を置く。
門番所には表向きに出格子があり、また門側にも窓があって門の内外を見通すことができるようになっている。
門の表側は白壁、腰下は、なまこ壁となっている。
口羽家の表門は、延宝3年(1675)に江戸藩邸の門を拝領して萩に移築したと伝えられるが、現存の門は建築手法からみて18世紀後半のものと思われる。
特に、主屋と表門が揃って残り、萩城下に現存する屋敷としても古く、かつ全国的にも比較的数の少ない武家屋敷の一通例として価値がある


表門を入り宅内へ・・・

主屋

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」のロケ地のようです

口羽氏は毛利氏の庶流で、もとは石見国邑智郡口羽村を領した用路城主であったが、関ケ原の戟の後毛利氏に従って萩に移り、藩の寄組士(禄高1018石余)として代々萩城三の丸に住んだ。この三の丸(堀内)一帯は、大身の武士が住んでいた地区で、当時の面影をよく残し、重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けている。
この建物は南向きで、切妻造り桟瓦茸屋根の東側に、入母屋造りの突出部を設けている。
間取りの平面構成は、棟通りで前後に仕切った、6間取り型で、東側に張り出した台所がある。
座敷と奥座敷の間には2畳の「相の間」があり、「武者隠し」の名残とも考えられる。
座敷からは庭をへだてて、橋本川や対岸の玉江の風景も楽しめ、風光明眉な趣のある一等地である


奥座敷と手前の二畳の相の間・・


椎ノ木・・・樹齢250年ぐらいと、係員さんがおっしゃっていました

根・・・

流れるは、橋本川・・・対岸の玉江の風景も楽しめ、風光明眉な趣のある一等地である

よく手入れが行き届いております
昭和51年10月解体復元工事が行われ、54年4月に竣工したとパンフにあります

そのパンフの表紙は、「毛利元就御座備図」・・・その左下に「口羽通良」が描かれています







2018年11月14日

山口県萩市への旅・・・No6、天樹院墓所・・・山口県萩市堀内

秋、行楽の時季、行先は山口県萩市、島根県津和野への2泊3日の旅をしています・・・
・・山口県萩市、堀内地区重要伝統的建造物群保存地区を巡ります・・


・・・堀内地区重要伝統的建造物群保存地区・・・
近世城下町の武家屋敷の地割りを残す土塀の連なる町並みが続きます
堀内は旧萩城三の丸にあたり、毛利輝元が慶長十三年(1608)に指月山に城を築き、町割をおこなったことに始まる。保存地区は堀内のほぼ全域で、藩の諸役所(御蔵元・御木屋・諸郡御用屋敷・御膳夫所・御徒士所)と、毛利一門をはじめとする大身の武家屋敷が建ち並んでいた。近世城下町の武家屋敷としての地割が今もよく残り、土塀越しに見える夏みかんとともに歴史的風致を形成している。
現在も、地区内には永代家老の益田家の物見矢倉など10数棟の武家屋敷が残ります・・・萩市観光協会より引用

展示品の古地図・・・白枠が天樹院墓所位置


天樹院へ参ります


毛利輝元は、天文二十二年(1553)毛利隆元の長男として安芸郡吉田郡山城(現、広島県安芸高田市)に生まれた。戦国時代中国地方の覇者となった毛利元就の孫にあたる。
中国地方8ヶ国112万石を領有する大大名に成長し、天正十七年(1598)広島に居城を築いた。
慶長五年、毛利氏は関ケ原の戟に敗れ周防,長門(現在の山口県)2か国36万9干余石に削封された。輝元は居城を萩に選定し、同年11月11日、萩城へ入城した
萩開府にあたって、城下町の建設を推し進めるとともに、萩藩経営の安定に腐心した。
寛永二年(1625)73歳で没し、萩城三の丸(堀内)の天樹院に葬られた


唐門・・・
・・・唐門の右柱付近の壺に入場料を納めます・・・

国指定史跡・・・萩藩主毛利家墓所(天樹院墓所)

天樹院墓所は毛利輝元の墓所で、輝元と夫人および殉死者長井治郎左衛門の墓石三基がある
これらの墓は花こう岩製の五輪塔形である
なかでも輝元のものは高さ2.1m、夫人のものは1.8mといづれも大型である
また、墓の周囲は玄武岩製の玉垣、鳥居、石灯籠、長さ64mの参道の敷石、唐門などがあり、環境も良好である
ここは以前輝元の隠居所、四本松邸があったところで、彼の死後に天樹院(輝元の法号)
が菩提寺としてたてられたが、明治2年(1869)に廃寺となり墓所のみが残った



右:輝元 左:夫人

殉死者長井治郎左衛門の墓石

どこまで続くのか、長~い、道・・・

・・・GoogleMapで計測してみました・・・
旧厚狭毛利家萩屋長屋門から突き当たりまで直線で、865.71mもありますよ!!

さぁ、次なる史跡は・・・続きます



山口県萩市への旅・・・No5、旧厚狭毛利家萩屋敷長屋・・ 山口県萩市堀内85-2

秋、行楽の時季、行先は山口県萩市、島根県津和野への2泊3日の旅しています・・・

・・山口県萩市、堀内地区重要伝統的建造物群保存地区を巡ります・・
いよいよ、萩城下町を歩きます・・・相当な距離を歩くことになりそうです


・・・堀内地区重要伝統的建造物群保存地区・・・
近世城下町の武家屋敷の地割りを残す土塀の連なる町並みが続きます
堀内は旧萩城三の丸にあたり、毛利輝元が慶長十三年(1608)に指月山に城を築き、町割をおこなったことに始まる。保存地区は堀内のほぼ全域で、藩の諸役所(御蔵元・御木屋・諸郡御用屋敷・御膳夫所・御徒士所)と、毛利一門をはじめとする大身の武家屋敷が建ち並んでいた。近世城下町の武家屋敷としての地割が今もよく残り、土塀越しに見える夏みかんとともに歴史的風致を形成している。
現在も、地区内には永代家老の益田家の物見矢倉など10数棟の武家屋敷が残ります・・・萩市観光協会より引用

展示品の古地図・・・白枠が旧厚狭毛利家萩屋敷


萩城跡から南門を通り、旧厚狭毛利家萩屋敷長屋を訪れます

国指定重要文化財・・旧厚狭毛利家萩屋敷長屋


国指定重要文化財



厚狭毛利家は、毛利元就の五男元秋を始祖とする毛利家の一門です。
結石高8371石余のうち、主として厚狭(現在、山口県山陽小野田市)に知行地を持ち、ここに居館を構えていたので、厚狭毛利と呼ばれました。
厚狭毛利家萩上屋敷は、萩城の二の丸南門の南100メートルの要地にあり、面積約1万5500平方メートル(約4700坪)の広大なものでした。屋敷地の中にあった主屋や庭園などは、明治維新前後に解体されてこの長屋のみが残っています。
この長屋は昭和41年(1966)6月に国の重要文化財に指定され、翌42年7月から解体修理に着手し、43年11月に完成しました。解体修理の際に発見された棟札から、長屋は10代元教(のち元美)の代、安政三年(1856)5月に建てられたことがわかります。用材はすべて領地の厚狭で調達され、切り込みを施したうえ記号と番号をつけて、海路萩まで送ってきたといわれています。
建物規模は桁行51.4メートル、梁間5.0メートルと長大な構造で、現在萩市内に残っている武家屋敷長屋の中で最も大きく、屋根は入母屋造り本瓦葺きで、出格子5か所、格子窓6か所を設けています。内部は東の座敷(部屋数10)、中の座敷(部屋数6)、物置(土間、二階造り)、西の座敷(部屋数3)および板の間の5つのブロックに分かれています。各座敷は、厚狭毛利家の家臣たちの詰所になっていたものと思われます。
また、西の端にある板の間は中間部屋で、昭和43年の解体修理の際に復元しました。・・・配布パンフより引用


表側

内側

展示品・・・毛利輝元肖像

展示品

萩城模型




2018年11月13日

山口県萩市への旅・・No4、萩城跡・・山口県萩市堀内

秋、行楽の時季、行先は山口県萩市、島根県津和野への2泊3日の旅・・
国指定史跡・・・萩城跡を巡ります

宿の窓より、朝6時20分の景色・・・

無風、べた凪・・・今日もよき天気のようです・・・

指月山・・・萩城跡、この頂上付近にも櫓跡があるようですが・・・登りません!
左下の土塀は、二の丸土塀・・・楽しみです

二の丸東門から入ります

振り返れば、萩八景遊覧船乗り場が奥に見えます

はじめ、剥製かと思いました・・・他の観光客さんも同じように眺めていました・・・
じつは、本物の「鳥」・・・名前わかりませんが・・・微動だにしないのです
その距離、4mあまり・・・人慣れか? それとも、眼中にないのか? 無視か?

・・・時打矢倉跡・・・

本丸門です・・・



国指定史跡・・萩築城の由来と構造
慶長五年(1600)毛利氏は関ケ原の戟に敗れた結果中国地8か国の領地を削られ周防、長門(現在の山口県)2か国36万9干余石の領主に移封されました。
そこで輝元は居城として防府、山口、萩の3か所を候補地として徳川幕府の意向を伺い、萩指月山麓に築城することになりました。
慶長九年(1604)着工、同十三年竣工。これより文久三年(1863)第十三代藩主敬親が藩府を山口に移転するまでの260年間、政治の中心地でありました。
明治七年天守閣、居館を解体しました。
萩城は平山城の形式に属し阿武川デルタの根元を横断し外堀とし、その外を城下町とし内を城郭とした。外堀の内に三の丸を置き、中堀を堀って二の丸を設け、二の丸の内側に内堀をめぐらして本丸を指月山麓に構えた。
さらに指月山頂には詰丸を設けている・・・入場券パンフより引用


中央が天守閣跡石垣

石垣の上に登って、天守閣跡へ・・・

天守閣跡へ・・・

天守閣跡・・・

本丸の南西に当る位置に高さ14.4m下層は東西19.8m、南北16.2mの5層の天守閣がありました。
最上層は勾爛をめぐらした桃山初期の形式を示す白亜のもので、初層が石垣の外に張り出し俯射装置として利用できるようになっていました

天守閣跡から本丸門方面を眺める・・


萩市指定文化財・・・花江茶亭(自在庵)

もと藩主毛利敬親の別邸にあつた茶室を明治20年頃移築したものてす。
幕末の頃敬親が茶事にことよせて家臣とともに国事の密議をこらした場所て有名です
この場所は藩主居館の奥書院にあたり、庭石、池、築山は当時のものです


旧梨羽家茶室(煤払の茶室)

東郊中津江にあつた寄組士梨羽家(3干2白石)の別邸茶室で、城内煤払のさい、藩主が一時居館を出てここに休んだことからこの名があります。
全国的にまれな花月楼形式のすぐれた茶室です

庭石、池、築山は当時のもの・・・






志都岐山神社

拝殿


明治12年萩の有志が山口にある豊栄、野田両神社の分社として建てたものです
毛利輝元を主祭、元就、敬親二公を配祀とし、他の代々の藩主は合祀してあります


ここは、大河ドラマ「花燃ゆ」のロケ地です

万歳橋・・・
藩学明倫舘孔子廟の池にかかつていたものを移したものてす



潮入門跡・・・

二の丸土塀(銃眼土塀)・・・

・・・宿から眺めた土塀ですね・・・

二の丸は東西153間、南北58間で、その内に13の矢倉、井戸34か所、蔵元役所などがありました。
東門から潮入門に至る城壁が続いておりましたが、この土塀は昭和40年春一部復元したものです

ここは、大河ドラマ「花燃ゆ」のロケ地です
土塀前から眺める・・・じつにキレイです(釣り人がいますね)




指月山・・・山頂には詰丸跡(見えませんが想像です)

指月山頂にあり、陸と海への監視のための望楼であった。頂上の平地を石段で区切り上段を本丸、下段を二の丸として,各々の石垣の上に城壁をめぐらし、矢倉もあった。
いまは、石垣、矢倉跡、水溜め二ケ所が残っており、昭和41年城壁の一部、水溜めを復
元整備され往時をしのぶ貴重な存在となっております・・と!

南門跡・・・

   


毛利輝元公像

毛利輝元は、天文二十二年(1553)毛利隆元の長男として安芸郡吉田郡山城(現、広島県安芸高田市)に生まれた。戦国時代中国地方の覇者となった毛利元就の孫にあたる。
中国地方8ヶ国112万石を領有する大大名に成長し、天正十七年(1598)広島に居城を築いた。
慶長五年、毛利氏は関ケ原の戟に敗れ周防,長門(現在の山口県)2か国36万9干余石に削封された。輝元は居城を萩に選定し、同年11月11日、萩城へ入城した
萩開府にあたって、城下町の建設を推し進めるとともに、萩藩経営の安定に腐心した。
寛永二年(1625)73歳で没し、萩城三の丸(堀内)の天樹院に葬られた


萩城模型

指月公園の名でもある萩城跡・・・なかなか見応えのある城跡でした
天気よければ、最高ですが・・・冬、厳しいでしょうね!

入場料、観光客は210円(長屋門入館料含む)、萩城跡は、萩市民は無料です