そうなれば、このお城「勝龍寺城」を訪れなければなりません
ここ勝龍寺城は羽柴秀吉との山崎合戦で退却した明智光秀が、最後に籠った城としても知られています。
娘、玉(ガラシャ)の嫁ぎ先ですが、細川藤孝からは援助も受けられず、もう運命はつきたのでしょう
娘、玉(ガラシャ)の嫁ぎ先ですが、細川藤孝からは援助も受けられず、もう運命はつきたのでしょう
近世城郭の先駆けといわれている 勝龍寺城でもあります
勝龍寺城・・TVの城番組でも紹介されていますので、行きたいと思っていました
所在地 長岡京市勝竜寺・東神足二丁目地内です
さぁ、拝見しましょう
勝龍寺城跡
模擬南門、枡形
本丸跡
この建物は公園管理棟らしいです
城門を入ってみましょう
いや~ 涼しい!!
こんな施設があると、休憩にもってこいですね
戦国乱世を駈けた4人の城「細川藤孝・忠興・ガラシャ・明智光秀」
公園として整備されています
ぐるっと廻ってみましょう
西辺土累
光秀出陣テラス
山崎合戦と勝龍寺城
そして、天守が建っていたと考えられている場所なんです
北門跡
勝龍寺城の石垣
勝龍寺城の石垣は野面積みと呼ばれる自然石を積み上げたもので、当時の最新技術を取り入れたものでした。使用されている石材は大きさが1mを超えるものまであります。五輪塔や石仏などを除くと、石材は砂岩やチャー トなど西山周辺に広く分布する石で占められています。石の状態から西山西麓の崖や川の上~中流域で採取し、城まで運搬したと推測されます。
勝龍寺城の石造物
勝龍寺城からは、石垣などに転用された、信仰に関連する石造物が数多く見つかっています。このような例は他の城にも見られ、石材不足を補うため、または城を守護するためといわれています。出土した石造物は五輪塔や一石五輪塔、宝篋印塔、層塔、板碑、石仏などがあります。 石仏の大半は大日如来とみられ、 地蔵菩薩も確認されています。
細川忠興・玉(ガラシャ)像
天正六年(1578)、明智光秀の娘たま(玉、のちの細川ガラシャ)は、織田信長のすすめにより、勝龍寺城主・細川藤孝(幽斎)の嫡男・忠興(三斎)のもとに輿入れします。
婚礼は勝龍寺城で挙げられ、幸せな新婚生活を送りましたと・・
丹後・宮津城にいた藤孝は光秀からの援軍を求められるもそれに応えることもなく、主君信長の死を弔って出家、名を幽斎と改めるとともに息子忠興に家督を譲りました
本丸の北東隅では、石垣で補強された、高さ四メートルの土塁が見つかっています。 石垣は、七段の階段になっており、階段を上ると、少し西へ回り込んで、土塁の頂上 まで行けるようになっていました。頂上に は約四メートル四方の平坦面があり、ここ は城の外を監視・攻撃するための櫓が存在 したようです。
隅櫓
本丸内からは四か所で井戸が見つかり、そのうち、この井戸を含む三か所が細川藤孝による城の改修に伴って作られたものでした。 井戸は底に太い木を井桁に組み、その上に円形に自然石を積み上げたもので、 石仏・五輪塔なども石材として利用してい ます。直径は0.9m深さは約3mあります。発掘調査中も多くの水が湧き出していました。本丸内には排水施設が整備されており、ここが本来、水気 の多い土地であることがわかります。
「ガラシャおもかげの水」
この水は、細川ガラシャ(玉)が、夫忠興と勝龍寺で過ごした日々、水面にその姿を映し出したであろう、歴史ロマンにちなんで名づけたものです。
所在地 長岡京市勝竜寺・東神足二丁目地内です
さぁ、拝見しましょう
勝龍寺城跡
所在地 長岡京市勝竜寺・東神足二丁目地内
勝龍寺城は、京都盆地の南西部に位置し、西国街道と久我畷の陸上交通を抑え、淀川水系にもほど近い、交通の要衝に立地します。
文明二年(一四七〇) 西軍畠山義就が勝龍寺を陣城としたように、応仁・文明の乱中には寺院としての「勝龍寺」が、たびたび臨時的な砦として利用されるようになり、次第に恒常的な城郭 として整備されたようです。
文明二年(一四七〇) 西軍畠山義就が勝龍寺を陣城としたように、応仁・文明の乱中には寺院としての「勝龍寺」が、たびたび臨時的な砦として利用されるようになり、次第に恒常的な城郭 として整備されたようです。
元亀二年(一五七一)には、織田信長の意向を受け、細川藤孝によって大きく改造されました。藤孝在城期の勝龍寺城は、西岡 の有力国人神足氏の神足城(神足神社付近)を取り込むかたちで築かれました。
小畑川・犬川に挟まれた神足・勝竜寺の集落を含む、いわゆる惣構の城郭として評価されています。
昭和六三年(一九 八八)の発掘調査によって、主郭部で石垣が築造されていたこと、 建物の多くに礎石が用いられていたこと、瓦葺きであったことが 判明し、その後の城郭の標準となる諸要素を備えた、先駆的な城 郭の一つとして注目されています。
天正二年(一五七四)藤孝は、天守と思われる建物で三条西実 澄(のちの実枝)から古今伝授の切紙を受け、同六年(一五七八) には藤孝の子息忠興と明智光秀の娘玉(細川ガラシャ)の婚礼が執り行われるなど、文化的な交流の場ともなっています。
また、 同一〇年(一五八二)羽柴秀吉との山崎合戦で退却した明智光秀が、最後に籠った城としても知られています。
小畑川・犬川に挟まれた神足・勝竜寺の集落を含む、いわゆる惣構の城郭として評価されています。
昭和六三年(一九 八八)の発掘調査によって、主郭部で石垣が築造されていたこと、 建物の多くに礎石が用いられていたこと、瓦葺きであったことが 判明し、その後の城郭の標準となる諸要素を備えた、先駆的な城 郭の一つとして注目されています。
天正二年(一五七四)藤孝は、天守と思われる建物で三条西実 澄(のちの実枝)から古今伝授の切紙を受け、同六年(一五七八) には藤孝の子息忠興と明智光秀の娘玉(細川ガラシャ)の婚礼が執り行われるなど、文化的な交流の場ともなっています。
また、 同一〇年(一五八二)羽柴秀吉との山崎合戦で退却した明智光秀が、最後に籠った城としても知られています。
模擬南門、枡形
本丸跡
[改修] 室町時代 元亀2年 (1571) 改修
元亀2年(1571) 織田信長の命を受けた細川藤孝は、それまであった勝龍寺城を、京都防衛の軍事拠点として、大規模に改修しました。
昭和63年(1988) の発掘調査で 「瓦・礎石建物 (殿主)・石垣」という当時の最新技術を取り入れた城であったことが判明しました。
本丸は東西約120m 南北約80mの長方形で、 周囲は高さ4~5m の土塁で囲まれ、 外側には堀を巡らせています。
堀は幅10~15m・深さ約3mで本丸側の堀裾には石垣を築いていました。石垣の下には、沈み込み防ぐ木の土台が据えられていました。
堀は幅10~15m・深さ約3mで本丸側の堀裾には石垣を築いていました。石垣の下には、沈み込み防ぐ木の土台が据えられていました。
瓦も大量に出土し、軒丸瓦・軒平瓦の一部は明智光秀の坂本城や佐々成政の小丸城の瓦と同じ木型で作られた可能性が高いものでした。
これは織田家の家臣の城に支配下の瓦造り工人が派遣されたことによるものとみられます。
>石垣の下には、沈み込み防ぐ木の土台
たしか、胴木
軟弱な地盤を安定させるため石垣の基礎に木材を敷く
これって、新橋駅などにも用いられた建築工法らしい!
そして、最近、琵琶湖渇水の折、あの坂本城の石垣が現れその石垣の基礎部分で発見確認されたらしい
これは織田家の家臣の城に支配下の瓦造り工人が派遣されたことによるものとみられます。
>石垣の下には、沈み込み防ぐ木の土台
たしか、胴木
軟弱な地盤を安定させるため石垣の基礎に木材を敷く
これって、新橋駅などにも用いられた建築工法らしい!
そして、最近、琵琶湖渇水の折、あの坂本城の石垣が現れその石垣の基礎部分で発見確認されたらしい
城門を入ってみましょう
いや~ 涼しい!!
こんな施設があると、休憩にもってこいですね
戦国乱世を駈けた4人の城「細川藤孝・忠興・ガラシャ・明智光秀」
公園として整備されています
ぐるっと廻ってみましょう
西辺土累
西辺土累
本丸の西辺に構築された土塁です。 この土塁の南側は本丸内で一番高く、また本来は、もう少し南の方へ張り出していました。
「殿主」と呼ばれた、いわゆる天守はこれらの立地的な条件から、この土塁上にあった 可能性が指摘されています。発掘調査では、 その石垣の一部とみられる人頭大の石と裏 込めの石が見つかりました。
光秀出陣テラス
山崎合戦と勝龍寺城
天正十年(一五八二)六月二日、本能寺で織田信長を討った明智光秀は、同六月十三日に、山崎合戦羽柴秀吉と戦います。
主戦場は山崎から勝龍寺城の間一帯で、天王山を奪い合う戦いではありませんでした。
一部の軍記物語には、光秀は「おんぼう(御坊)塚」に本陣を置いたとあり、これについては恵解山古墳(長岡京市)と境野1号墳(大山崎町)の二説があります。
戦いに敗れた光秀は、いったん勝龍寺城へ逃げ込み、夜中に城を脱出して居城の坂本城(大津市)を目指したようです。
しかし、途中の山科・上醍醐付近で落武者狩りに遭い命を落としたといいます。
寛文五年(一六六五)の絵図には、小泉川を挟んで対峙する両軍の陣が描かれています。
左の図はこの様子を地形分類した明治時代の地図に書き表した ものです。
絵図によれば、光秀の本陣は恵解山古墳付近に描かれ、境野1号墳付近は津田信春の陣としています。
また、天王山上に陣を描いておらず、少なくともこの絵図の作者は、主戦場を小泉川周辺と 認識していたことが分かります。
よき眺めです・・歴史の舞台ですね主戦場は山崎から勝龍寺城の間一帯で、天王山を奪い合う戦いではありませんでした。
一部の軍記物語には、光秀は「おんぼう(御坊)塚」に本陣を置いたとあり、これについては恵解山古墳(長岡京市)と境野1号墳(大山崎町)の二説があります。
戦いに敗れた光秀は、いったん勝龍寺城へ逃げ込み、夜中に城を脱出して居城の坂本城(大津市)を目指したようです。
しかし、途中の山科・上醍醐付近で落武者狩りに遭い命を落としたといいます。
寛文五年(一六六五)の絵図には、小泉川を挟んで対峙する両軍の陣が描かれています。
左の図はこの様子を地形分類した明治時代の地図に書き表した ものです。
絵図によれば、光秀の本陣は恵解山古墳付近に描かれ、境野1号墳付近は津田信春の陣としています。
また、天王山上に陣を描いておらず、少なくともこの絵図の作者は、主戦場を小泉川周辺と 認識していたことが分かります。
そして、天守が建っていたと考えられている場所なんです
北門跡
本丸の北西隅に位置し、石垣や門の礎石が良好に残っていました。門は二重になっており、石垣の高さは二メートル以上ありました。 堀を渡って北側から門を入ると、通路は東に直角に折れ曲がり、次の門が現れます。 このような構造を桝形虎口といい、敵が簡単に、城内に入れないようにし、土塁上から攻撃しやすい仕組みになっています。
なお、山崎合戦で羽柴秀吉に敗れた明智光秀は、 この北門から、逃げ出したしたといわれています。
勝龍寺城の石垣
勝龍寺城の石垣は野面積みと呼ばれる自然石を積み上げたもので、当時の最新技術を取り入れたものでした。使用されている石材は大きさが1mを超えるものまであります。五輪塔や石仏などを除くと、石材は砂岩やチャー トなど西山周辺に広く分布する石で占められています。石の状態から西山西麓の崖や川の上~中流域で採取し、城まで運搬したと推測されます。
なお、北門石垣の下段と門の礎石は発掘調査で検出された実物です。
勝龍寺城の石造物
勝龍寺城からは、石垣などに転用された、信仰に関連する石造物が数多く見つかっています。このような例は他の城にも見られ、石材不足を補うため、または城を守護するためといわれています。出土した石造物は五輪塔や一石五輪塔、宝篋印塔、層塔、板碑、石仏などがあります。 石仏の大半は大日如来とみられ、 地蔵菩薩も確認されています。
また、一石五輪塔や板碑には年号を刻んだものがあり、古いものでは大永二年(一五二二)、 新しいものでは永禄十二年(一五六九)のものがありま す。
模擬隅櫓と堀跡
細川忠興・玉(ガラシャ)像
天正六年(1578)、明智光秀の娘たま(玉、のちの細川ガラシャ)は、織田信長のすすめにより、勝龍寺城主・細川藤孝(幽斎)の嫡男・忠興(三斎)のもとに輿入れします。
婚礼は勝龍寺城で挙げられ、幸せな新婚生活を送りましたと・・
丹後・宮津城にいた藤孝は光秀からの援軍を求められるもそれに応えることもなく、主君信長の死を弔って出家、名を幽斎と改めるとともに息子忠興に家督を譲りました
北東隅櫓の石垣と階段
本丸の北東隅では、石垣で補強された、高さ四メートルの土塁が見つかっています。 石垣は、七段の階段になっており、階段を上ると、少し西へ回り込んで、土塁の頂上 まで行けるようになっていました。頂上に は約四メートル四方の平坦面があり、ここ は城の外を監視・攻撃するための櫓が存在 したようです。
隅櫓
本丸の井戸跡
本丸内からは四か所で井戸が見つかり、そのうち、この井戸を含む三か所が細川藤孝による城の改修に伴って作られたものでした。 井戸は底に太い木を井桁に組み、その上に円形に自然石を積み上げたもので、 石仏・五輪塔なども石材として利用してい ます。直径は0.9m深さは約3mあります。発掘調査中も多くの水が湧き出していました。本丸内には排水施設が整備されており、ここが本来、水気 の多い土地であることがわかります。
「ガラシャおもかげの水」
この水は、細川ガラシャ(玉)が、夫忠興と勝龍寺で過ごした日々、水面にその姿を映し出したであろう、歴史ロマンにちなんで名づけたものです。
「地下水100%の水道水です。ご自由にお飲みください」
友好都市締結20周年記念し寄贈されたもの
敵が本丸を攻めようとするとその側面から敵に対して反撃ができた、その様子を「横矢」という
[年代] 室町時代 元亀2年 (1571) 改修
沼田丸の井戸跡
沼田丸にあったこの井戸は、四角形に組 んだ角材の上に円形に石を積み上げて作ら れています。使用されている石材の大半は 自然石ですが、本丸の石垣と同様に、石仏 や五輪塔も含まれています。 井戸の直径は 〇・八メートルで、深さは二メートルあります。この井戸は、細川藤孝が城を改修した時に作られたもので、十六世紀末までに は埋め戻されていたようです。
ここにも「ガラシャおもかげの水」ありました
数人の方がペットボトルを持ってきて、水、汲んでいましたね
汗でボタボタでしたので、顔を洗いましたが、水道水?温かったです
周辺「P」案内
勝龍寺だけではなく、周辺散策にはいいかも!
台数は少ないですが、無料です
定番:マンフォール
友好都市締結20周年記念し寄贈されたもの
昭和58(1983)年4月21日に中国寧波市と友好都市盟約を締結したとある
その寧波市から寄贈されたものとある
その寧波市から寄贈されたものとある
敵が本丸を攻めようとするとその側面から敵に対して反撃ができた、その様子を「横矢」という
帰ります
しだれ柳が見事です「P」の前は、曲輪 沼田丸跡です
[年代] 室町時代 元亀2年 (1571) 改修
本丸の南西側に接して作られた東西約40m 南北約65mの台形の曲輪です。
本丸と同様に周囲を土塁で囲み、 外側に堀を巡らせています。
ここは細川家の絵図 (江戸時代) に描かれる 「沼田丸」 に該当します。
この「沼田丸」という名称は細川藤孝の妻、麝香 の実家である越前の沼田氏にちなんだものと考えられます。
また、沼田丸の東側には、左右を堀で囲われた帯曲輪があったことも発掘調査で明らかになりました。
帯曲輪は沼田丸と本丸を結ぶ中継地点として利用されたと推測されます。
本丸西辺土塁の 中程で低くなっている箇所は、 帯曲輪と本丸を結ぶ通路の名残と考えられます。 堀からは陶磁器や瓦などが見つかり、当時の生活 の一端が窺い知れます。
本丸と同様に周囲を土塁で囲み、 外側に堀を巡らせています。
ここは細川家の絵図 (江戸時代) に描かれる 「沼田丸」 に該当します。
この「沼田丸」という名称は細川藤孝の妻、麝香 の実家である越前の沼田氏にちなんだものと考えられます。
また、沼田丸の東側には、左右を堀で囲われた帯曲輪があったことも発掘調査で明らかになりました。
帯曲輪は沼田丸と本丸を結ぶ中継地点として利用されたと推測されます。
本丸西辺土塁の 中程で低くなっている箇所は、 帯曲輪と本丸を結ぶ通路の名残と考えられます。 堀からは陶磁器や瓦などが見つかり、当時の生活 の一端が窺い知れます。
沼田丸の井戸跡
沼田丸にあったこの井戸は、四角形に組 んだ角材の上に円形に石を積み上げて作ら れています。使用されている石材の大半は 自然石ですが、本丸の石垣と同様に、石仏 や五輪塔も含まれています。 井戸の直径は 〇・八メートルで、深さは二メートルあります。この井戸は、細川藤孝が城を改修した時に作られたもので、十六世紀末までに は埋め戻されていたようです。
ここにも「ガラシャおもかげの水」ありました
数人の方がペットボトルを持ってきて、水、汲んでいましたね
汗でボタボタでしたので、顔を洗いましたが、水道水?温かったです
周辺「P」案内
勝龍寺だけではなく、周辺散策にはいいかも!
台数は少ないですが、無料です
定番:マンフォール
長岡京市はたけのこの産地です、中心に、「長」の字をデザインした市章が刻まれています
勝龍寺城・・尋ねられて、良かったです
京都へ行く場合は名神高速を使うため、まず大山崎で降りてこの付近を散策することもありません
西国街道の風情のある街並みもあるようです
もう一度、涼しい?時期に「P」して、徒歩にて、惣構の痕跡、土塁、空堀跡とか、探して歴史を感じたいと思います