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2018年6月30日

円成寺・・中井権次一統の足跡を巡って・・兵庫県丹波市柏原町小倉1

中井権次一統の足跡を巡っています

「中井権次の足跡」・・・2018年4月第二版が発行されました
第一版と見比べて、新たに追加された、足跡を巡っていきます

まず、最初は、兵庫県丹波市柏原町小倉1、円成寺を訪ねます
丹波市への道、国道176号線、鐘ヶ坂峠を下った右手にあります、なんど、この前を通ったことか・・・・

圓成寺・・・丹波新聞コラムの中井一統の技で、2017年3月に紹介されていました
しかし、記事を拝見して、本堂内ということで、拝見は難しいと判断し、スルーしておりました
今回、お願いしてみようと思い、訪ねました・・・それが!!

獅子山、方除の寺、円成寺です

堀?

円成寺城跡らしい・・・この段地と、この堀?・・・円成寺はその屋敷跡か?


「P」をして、歩いていると、前を行かれるご高齢の方の手元を見れば・・・「中井権次の足跡」のパンフを持っておられました・・・勿論、お声をかけさせていただきました
私も、「中井権次の足跡」を訪ねてまいりました・・・と!

そのご高齢の方、なんと、円成寺の檀家さん、それも代表の方で・・・
・・・どうぞ、どうぞ、上がって見てください・・・と!
これはこれは、なんと運のいいことか・・・お言葉に甘えて本堂内へ・・・

そうすると、なにやら書類をお持ちいただき・・・・これが、下絵です・・って!
ええぇ・・・驚いて、舞い上がってしまいました

なんと、その下絵のコピーを、いただきました・・・
備忘録に掲載するにあたり、画像には「中井権次」の文字を挿入しています

2016年9月の丹波新聞にも掲載されたとのことで、その時の記事まで、コピーいただき、嬉しくて・・・
その内容は、中井権次顕彰会の調査の結果、須弥壇の下絵が圓成寺の須弥壇と一致したと・・・

八代目・・・青竜軒中井権次橘正胤(1854~1928)の下絵です

・・・須弥壇・・・
下絵・・・左書:須弥壇 大正元年十二月画書之 中井権次橘正胤
    右書:氷上郡小倉村円成寺須弥壇彫刻也


そして、その彫物は・・・代表、そして、ご坊の許可を得て、写真撮影いたしました
こんな機会は、まず、ありません・・・興奮して、乱写です
勿論、仏様は写しません・・・仏様は観音菩薩様です


・・・雲に浮かぶ天女・・・

右手から




      象に乗る普賢菩薩

      獅子に乗る文殊菩薩

下絵どうりの、見事な彫物・・・いままで、飾布で覆われていたとのこと・・・

須弥壇下部の彫物

正面・・・龍です

左側面・・・虎ですね

右側面

ここにも・・と! 須弥壇前の前机を覆いをめくってくれました・・・
おお! 逆さ龍ではありませんか・・・お見事!


そして、本堂、欄間、九面に彫刻が施されています







「刻銘はここにあるよ」・・・っと、案内いただきました
その欄間の彫り師は・・・五代目・・・青竜軒中井正忠 彫刻の銘があります


創建は慶長十年(1605)円通寺の末寺として建立されたが、もっと古いとも言われる古刹である
寺院に関して、代表のお話は・・・1605年開かれ、1710年ごろ、火災で焼失、再建されたらしい・・・(1700年か、1710年か・・・私、うろ覚えです)

円通寺・・・2018年6月にも訪れましたね!
https://a-shi-a-to.blogspot.com/2018/06/blog-post.html

円通寺も中井権次一統の足跡・・・六代目中井権次橘正貞とあります
・・・天保年間(1840年)に焼失後再建された・・・

なにやら、円成寺は円通寺の末寺なので、中井一統での仕事をと、そんな関連も見え隠れし勝手に想像しています・・・私感

円成寺・・・五代目、青竜軒中井正忠、七代目、中井権次正次、その子、八代目、青竜軒中井権次橘正胤の親子がこの圓成寺の彫り物に関わっていたとのこと・・・すばらしい彫物を拝見させていただきました

五代、六代、七代、八代目・・・いや、繋がりましたね・・・


先人の資料では、無人寺だったともあります・・・ただ、家内安全、けがれ、病気などを除去する祈願・祈祷を方除の寺と知られていると・・・

「中井権次の足跡」・・・2018年4月第二版に追加掲載された、中井権次一統の足跡を巡りのスタートが、こんな素晴らしい、拝見の仕方ができたこと、圓成寺代表に感謝いたします

まもなく開催される、彫刻下絵展が楽しみです


追記:圓成寺が正式名ですが、漢字を円成寺にしています




2018年6月29日

何鹿神社・・・京都府船井郡京丹波町曽根竿代29

京都府船井郡京丹波町曽根竿代29、何鹿神社を訪ねます

山王七社・・・・何鹿神社、橋爪の二ノ宮神社(八幡宮)、酒治志神社、九手神社、子守神社、能満神社と日吉神社を巡っています・・・

延喜式内社、何鹿神社です


社頭、案内板・・・

何鹿神社(延喜式内 出石鹿いそ部神社) いそ・・・山偏に石、文字がない!

祭神:大山祇命  品陀別命 彦狭知命
天武十二年すでに社が遭ったと伝えられ、大宝二年(702)から出石鹿いそ部神社、正和四年(1315)から何鹿神社と呼称している。

永禄十二年(1349)再建、弘化五年(1848)再建。
貞和五年(1349)に書かれたと認められる大般若経が明治六年(1873)まで社内に存在していた天正の頃まで中丹波山内荘7社の神輿が当社に集まり祭礼式を執行した。
本社は山内の荘の一宮とされ、昔から荘内の人々が尊崇し神輿の存在中は例祭日に右7社の神輿をかついできて御旅祭礼があったと伝えられる。
平成11年5月12日不審火により全焼した。本殿は弘化五年2月再建のもので三間社流造檜皮葺き(50㎡)軒唐破風の向拝を一間に造る形式、端正な中に柔らかな味を漂わせ江戸末期の特徴をよく現した建物でその上に覆い屋鋼板葺き(82㎡)があった。
現在の社殿は、平成11年氏子の中より再建委員八名、委員長は村山和夫を選出、再建の議がまとまり、平成12年4月より十年間、氏子一戸につき毎月2000宛の積み立てにより工費を拠出することとなり、設計を谷垣俊平、施工を松本寛・森次郎・北村亨・西畑幸二共同企業体、代表松本寛が担当、平成12年4月25日着工、平成13年10月完成。その工費約七千萬円、その規模形式は三間社流造銅板葺神饌所を併設し約60㎡である・・・案内板より全文引用・・・




       参道

拝殿

うん? 本殿全体写真がない・・・撮影ミス‥・ 仕方ないス!

新本殿


境内社・・・春日神社、大原神社




     本殿前、石燈籠‥・正徳三年(1713)と読める

旧社殿の瓦か?


何鹿神社の付近の栗の木・・・花、満開・・・梅雨ですね

栗の花は梅雨入りの少し前に咲く花・・・・栗の花は「墜栗花」と呼ばれ、梅雨を知らせる花とされます・・・TVの気象説明にて知りました
この一帯は、栗栽培か? 背の低い栗の木が花を咲かせていました

山王七社・・・・何鹿神社、橋爪の二ノ宮神社(八幡宮)、酒治志神社、九手神社、子守神社、能満神社と日吉神社を巡ってきました

これで、すべて山王七社すべて参拝いたしました

何鹿神社・・・出鹿郷の総社として崇敬され「一の宮」とも称されていたらしい
由緒には、天正の頃まで中丹波山内荘7社の神輿が当社に集まり祭礼式を執行したとある

山王七社巡りの参拝がこの何鹿神社が最終とは、偶然であるが・・・うん!




2018年6月28日

日吉神社・・・京都府船井郡京丹波町井尻宮越15

京都府船井郡京丹波町井尻宮越15、日吉神社を訪ねます

山王七社・・・・何鹿神社、橋爪の二ノ宮神社(八幡宮)、酒治志神社、九手神社、子守神社、能満神社と日吉神社を巡っています
能満神社と日吉神社は兄弟社と言われていました

鳥居・・・2014年に建て替えられたと・・・

舞殿

境内には、由緒書、案内板は見つかりません

御祭神 :大山咋命
文安元年(1444)創建と伝わります。旧社格は村社。


三間社、本殿

向拝
・・・珍しい獅子噛み? 鬼噛み?

木鼻

木鼻 持送り

    左、脇障子

     右、脇障子

       本殿、右側・・恵美須神社

       本殿、左側・・産霊神社

    旧山内庄山王七社の1社で、石燈籠に「六之宮大明神」と刻まれ・・・
    そして、寛政五年(1739)と読めます

社務所



      鳥居横の巨木

山王七社・・・・何鹿神社、橋爪の二ノ宮神社(八幡宮)、酒治志神社、九手神社、子守神社、能満神社と日吉神社を巡っていますが、残り一社は、何鹿神社です

日吉神社・・・情報が少ないです