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2023年3月31日

柏原八幡宮 鐘楼・銅鐘・・・県指定文化財です

柏原八幡宮の三重塔の前にある、鐘楼・銅鐘・・・県指定文化財です

この銅鐘には康応元年(1389)と天文十二年(1542)の2つの年号が刻まれており、天正年間に豊臣秀吉が大砲鋳造の為、郡内の鐘を柏原東奥藤ノ目に集めた際、特に優れた物のため豊臣秀吉が改めて寄進したものです。

神仏分離の際、棄却の対象となったが「時の鐘」として特別に存続を許されて、今日に至っています。


     兵庫県指定指定  重要有形文化財・・・銅鐘


               



      厄除開運・難逃れの釣り鐘




銅鐘・・・
年号、康應は、思い込んだら、そのように見えてきて、なんとか読めそうです
康應はの南北朝時代の元号の一つ、室町幕府将軍は足利義満でした

木鼻も立派です



我が記事には、何度か登場しています
2018年5月、5年前に来て、記事にしています

この柏原八幡宮、柏原は、中井権次と深い関係と、現在も中井権次を研究、探求するその流れは続いています









2023年3月30日

柏原八幡宮  本殿前の狛犬は「丹波佐吉」の作です

丹波市 柏原八幡宮は、令和の大修造中です
本殿前に、狛犬はいました
一緒に覆屋の中かなぁ?と、思っていましたが、いました

それも修造中、狛犬の上部に庇があります(落下物保護用?)
本殿同様、大事に守っていかなければならない、貴重な狛犬です
そうです、「丹波佐吉」(源照信)の作です

境内の狛犬(説明板より引用)
本殿前一対の狛犬は「丹波佐吉」(源照信)の作で、大阪府泉南地方を産地とする、和泉砂岩を原材料とした物で一般に「浪速狛犬」と呼ばれる部類に属するものである。
大新屋村(現 柏原町大新屋)で旗本佐野家の代官を勤仕していた、 上山孝之進成績と、北山村(現柏原町北山)居住の有力者、田口金次 昌栄両人によって文久元年(一八六一)に寄進したもので、台石の 「奉献」の文字は筑前国(福岡県北西部)の女儒亀井少琴の揮毫になる。 丹波佐吉の作品は丹波市内に数点現存しており、左記の二点は奉拝、拝観することができる。
・大燈寺 觀世音像  (青垣町稲土)
・稲荷神社 狐像の一対 (柏原町北山)


柏原八幡宮の説明を引用
文久元年(1861)柏原大新屋の上山孝之進・柏原北山の田口金次が寄進したもので、作者は丹波佐吉(村上照信)、台石の文字は筑前国(現在の福岡県東部)の学者亀井小琴の文字です。
丹波佐吉は但馬の竹田で生まれ、幼い頃両親と死別し、柏原大新屋の初代難波金兵衛に養われて石工を志します。 その後京都、大阪で活躍し佐吉が彫った仏像が孝明天皇の目に留まり、大いにお褒めの言葉を賜った人物です。
この狛犬は佐吉の晩年の作品で、豪快で躍動感のある最高傑作です。
平成23年老朽化に伴い修理され、創建当時の姿を取り戻しました。



文久元年(1861)の佐吉の晩年の作品





台座の刻銘は壁側で、撮影はできません






なんど見ても素晴らしい狛犬です
顔つきといい、鬣、尾っぽ、つい触ってしまいそうです

令和の大修造が無事終わるように、見張って守っています

令和の大修造が終われば、会いに来ましょう









2023年3月29日

柏原八幡宮は、令和の大修造中でした

中井権次の足跡である、柏原八幡宮、 兵庫県丹波市柏原町柏原3625
令和の大修造中でした

前回参拝したのは、2018年5月22日でした
もう五年前のことか!

柏原八幡宮御鎮座壱千年記念事業「令和の大修造」御奉賛のお願い

奉賛された方々の金額別と御芳名
・・・なんと、壱億円が、お一人、いらっしゃいますね


参拝いたしましょう
・・参道途中で、木の根橋を・・・


社務所

鳥居前から
令和の大修造中・・三間社流造りの本殿に入母屋造りの拝殿は修造のため覆われています

手水舎
・・・残雪?

柏原八幡宮由諸

・御祭神:誉田別命(応神天皇)・息長帯比賣命 (神功皇后)・比賣命(多紀理比賣命)(多紀都比賣命)(市杵島比賣命)

・御鎮座
社伝によれば、舒明天皇の御代(六二九~六四一)出雲の連らが、 当山(入船山)の頂きに素盞鳴尊を奉祀(現八坂神社)したのが当宮の創始と言われている。
その後、万寿元年(一〇二四)に入船山周辺の、三箇処から霊泉の 湧出を奇瑞として、後一条天皇の勅旨により国家鎮護として京都の石清水八幡宮より御分霊を勧請し、丹波国「柏原別宮」が創建され 社殿を始め多宝塔 極楽寺 大安寺 清水寺ほか五十四坊が造営された。

・御神徳
厄除開運、五穀成熟、病患平癒、家内安全、勝運必勝、子宝安産、 交通安全、産業興隆の神として尊崇され、とりわけ厄除けの神威が高 く毎年二月十七日、十八日に斎行する厄除大祭は「丹波柏原の厄神 さん」と親しまれ、北近畿を中心に全国各地より七万人余の参拝者で 終日賑わい、十七日深夜から十八日の未明にかけて執り行われる 「青山祭壇の儀」は日本最古の厄除神事で、往古の道饗祭、疫神祭の 遺風を今に伝える流例伝承の神事である。
 
・建造物
社殿は天正十三年(一五八五)に羽柴(豊臣秀吉の造営によって再々 建されたもので、三間社流造りの本殿に入母屋造りの拝殿を連接し、軒唐破風の向拝一間を張出す複合社殿で、檜皮葺きの屋根に、箱棟、千木、勝男木をのせる。
(大正二年 国宝保存法により特別保護建造物に指定、現在は国指定 重要文化財)明治維新の神仏判然令により仏像、経巻、仏具の一切を 別当寺の東光院(乗宝寺)に移し、円満に神仏分離が行われた。
当宮には三重塔(兵庫県指定文化財) 鐘楼に釣鐘(兵庫県指定文化財) など神仏混淆当時の景観を今日に保っている。

・境内の狛犬
本殿前一対の狛犬は「丹波佐吉」(源照信)の作で、大阪府泉南地方 を産地とする、和泉砂岩を原材料とした物で一般に「浪速狛犬」と 呼ばれる部類に属するものである。
大新屋村(現 柏原町大新屋)で旗本佐野家の代官を勤仕していた、 上山孝之進成績と、北山村(現柏原町北山)居住の有力者、田口金次 昌栄両人によって文久元年(一八六一)に寄進したもので、台石の 「奉献」の文字は筑前国(福岡県北西部)の女儒亀井少琴の揮毫になる。 丹波佐吉の作品は丹波市内に数点現存しており、左記の二点は奉拝、 拝観することができる。
 大燈寺 觀世音像  (青垣町稲土)
   稲荷神社 狐像の一対 (柏原町北山)

厄除神社前一対の狛犬は柏原町内で木彫作家を営む初代「柏里」 (本名磯尾健治)の石材を用いた作品で、昭和二十七年(一九五二)二月 に氏子崇敬者によって献納されたものである。


この日は参拝者さんが多いですね
・厄除けですかね


本来ならこの姿(2018年5月22日参拝時)


柏原八幡宮の資料では、前大修造は50年前だったそうです


今日はこの「厄除神社」しか、撮影できません
「厄除神社」も改修されたようで、きれいです
しかし、参拝者さんが多いので、上部だけ?

虹梁、蟇股

木鼻



手挟み



蟇股
・・・修復されたのかなぁ? きれいです

修造中の本殿を隙間からパチリ!

檜皮ですね

奉納絵馬
・・嘉永七(1854)

・・文政七(1824)
令和の大修造中でしたので、本殿は拝見できませんでした
いつ、修造は終わるのでしょうか?

きれいになった本殿を、参拝して写真に収めたいものです
楽しみです









2023年3月28日

プリウス・アルファ、エアーエレメントと、エアフィルター 三度目の交換です

愛車α君のオドメータは112897km
最近、燃費が悪くなってきました

プリウスアルファのエアーエレメントの交換時期は・・・
TOYOTAの説明では5万km(シビアであれば25000km)
前回は2019年11月20日 91300kmで交換しました
と、いうことは、3年半で、21597kmしか走っていません
そうですね、コロナでめっきり出かけることもなくなりました

と、いっても交換時期といえば交換時期です
今回は純正のエアーエレメントを購入しました


左:現在 右:純正のエアーエレメント ZVW41用
色は緑から、白
白であれば、汚れ具合の把握がらくですね

エアフィルター
これは、1年か、10000kmの交換がお勧めらしいが、3年半も使ってしまいました

・Amzonで、下写真のもの発見、購入です

ダッシュポケットとの奥を外します

内カバーを外します

左が旧 右が新

嫁が花粉症なので、効果があれば良いのですが・・・
いつも内気循環で、エアコン使用しています

さぁ、燃費よくなるでしょうか?
室内空気は、綺麗になるでしょうか?

そうだ!
あと、2ヶ所作業が残っています

・スタドレスタイヤを夏用に入れ替え
・オイル交換

別の日に作業しましょう・・・

追記:Amazonに午前10時半に注文したら、当日お届けという表示
なら、それでと注文したら、当日のPM7時に届きました
すごいけど、どこから来るのか?
どうも、大阪府堺市付近から出荷されたようです

恐れ入りました







2023年3月27日

承久の乱ゆかりの地、椋橋総社(鯉の宮) 大阪府豊中市庄本町1-2-4

椋橋荘氏神・勅願所・鯉の宮である「椋橋総社」 大阪府豊中市庄本町1-2-4です
所用の折、そばを通るのですが、阪急神戸線の踏切もあり、旧猪名川もあり道複雑で、スルーしていました
大河ドラマ、鎌倉殿で有名な承久の乱ゆかりの地でもあり、今回参拝いたしました

社叢のクスの巨木がすごいです
左右の金網で囲まれているのが鯉の池のようです

承久の乱ゆかりの地 椋橋荘
鎌倉時代この地一帯は椋橋荘と呼ばれる荘園でした。 椋橋とは古墳時代以降にこの辺りを治めた豪族、椋橋部連に由来します。「庄本」の地名は、椋橋荘の「荘」が庄となり、荘の中心地であったことから庄本と名づけられたとされています。 古来より猪名川で運ばれた土砂による肥沃な土壌と、池田からの木材運搬、瀬戸内 海から京の都へ運ぶ物資を内航船から川船へ乗せ換える港 (河尻)として大いに栄えた地域でありました。
当時この椋橋荘を所有していたのは、時の権力者であった後鳥羽上皇や藤原氏 でした。上皇は自らの離宮水無瀬殿に江口・神崎から遊女・白拍子を集め豪奢な 宴を開いておりました。そのうちの一人に上皇の寵愛を一心にうけた白拍子が いました。名を亀菊(後の伊賀局)といい、上皇はこの亀菊に椋橋荘を与えていました。

その時代、鎌倉幕府が既に存在していたとはいえ、畿内はまだまだ京の朝廷勢力が強い中で、幕府は地頭を配置します。 荘園の支配権をめぐり、亀菊とこの地頭 の間に諍いが生じ、上皇は、時の幕府執権北条義時に地頭の罷免を要求しますが、 幕府はこれを拒否します。 この事件を機に、幕府と緊張関係にあった後鳥羽上皇は、承久三年(千二百二十一年)義時追討の院宣を出し、ここに後鳥羽上皇対北条義時の 「承久の乱」が勃発します。
美濃の各務原と宇治川で両軍の決戦となり、朝廷側は敗れて上皇は隠岐の島へと流されることとなります。(吾妻鏡・承久記)

白拍子から後鳥羽上皇の寵姫まで登りつめ摂社「出世亀菊天満宮」として往時を偲ばせております


参拝いたします



椋橋総社略記
御祭神:素鳴之尊・神功皇后
御利益:国土安全、国家安泰、邪悪災厄除け、病気快癒、学問上達 縁結び、商売繁盛、交通安全、安産、子供守護
御由緒:当神社は古来より東西椋橋荘(現庄内一円、豊南町、上津島、 今在家、尼崎市戶の内、神崎、額田、高田、園田周辺)の中央 である本(庄本)に鎮座し、同荘の産土神で、掠橋総社又 は椋橋荘神前松原の社とも称する。
遠き神代の御時、素鳴之尊が高天原より鯉に乗り神前(神 崎)の水門を経て、当荘に御降臨なされたことにより崇神七年 椋橋部連の祖、伊香我色平命が斎い定め祀ったと伝えられている。
又当神社は神功皇后が新羅へご出発の時、神々をこの神庭 に集め、幸をお祈りになったという霊験著しい古社である。 天文八年御奈良天皇の勅願所と定められ、東京橋荘を社領とし て加えられた。
明徳二年藤原秀安は金鼓を寄進した。
天正年間池田筑後守は嫡子多聞丸誕生のため武運長久を祈り獅子頭を寄進した、獅子頭は社宝となっている。
その他当神社には鯉伝説がある。
又、当地椋橋荘は承久の変(一二二一年)発端の地である。


梁上、鯉ですね

木鼻



鯉伝説・・・
素戔嗚尊は高天原から鯉に乗り神崎の水門を経て降臨され、崇神天皇7年に伊香我色乎命が祀ったと伝えられています。

出世亀菊天満宮並びに恵比須神社

一、出世亀菊天満宮
鎌倉時代、時の帝、後鳥羽上皇御信仰、上皇の寵姫亀菊、後の伊賀局の信仰厚かった天満宮をこの地に勧請し、出世亀菊天満宮としてお祀りしている。
御祭神は菅原道真公・学問上達の神様
二、恵比須神社
本殿御祭神素盞鳴之尊の御子孫事代主尊を 大昔より祭祀する。
福徳の神、商売繁盛の神 として信仰厚き社である。

椋橋荘と承久の変(一二二一年)について 鎌倉時代、この地椋橋荘は後鳥羽上皇の寵姫亀菊の 所領であった。地頭との間に紛争を生じ、後鳥羽上 皇は時の執権北条義時に地頭の改補を要求、幕府は これを拒否、当時、朝幕間に緊張関係があり、このこ とが起因となって承久の変が起った。「東鑑」「承久記」


        旧大鳥居の柱
これより二百米南にあった元禄十年(1697)建立の大鳥居、高さ五七米、巾七・二米は平成七年一月十七日発生した阪神淡路大震災により倒壊した。
この石柱は大鳥居の東側の柱の一部である。ここに記念として保存する。平成八年九月吉日 

手水舎

この記事を記するとき、調べたのですが・・・
東西椋橋荘は、12世紀半ばに、摂関家領椋橋荘が椋橋東荘と椋橋西荘に分立してできた荘園で、猪名川と神崎川の合流点、現在の大阪府豊中市南西部と兵庫県尼崎市戸ノ内町付近に位置した)の中央である荘本(庄本)に鎮座し、同荘の総産土神で、椋橋総社又は椋橋荘神前松原の社とも称する。遠き神代の御時、素盞嗚之尊が高天原より鯉に乗り、神前(神崎)の水門を経て当荘に御降臨なされたことにより、崇神天皇7年(紀元前91年)11月、椋橋部連の祖、伊香我色乎命が斎い定め祀ったと伝えられている。椋橋荘は正史にも明らかな地で、椋橋部連とその部曲民の住む土地であった。この荘の区域は猪名川を境にして東西に別れ、東椋橋荘が石蓮寺、寺内、浜、長嶋、三津屋、野田、牛立、菰江、上津島、嶋田、今在家、洲到止、荘本(庄本)、島江、以上14ヶ村と、西椋橋荘が高田、神崎、戸の内、推堂、穴太、富田、額田、高畑、善法寺、法界寺、以上10ヶ村と、東西合せて24ヶ村からなっていた
・・・Wikipedia

若い頃から、この地域は仕事で、往来してはいたものも、今、知る情報ではなかなか興味深い地域です

「庄本まちあるき」をしてみましょうか!



追記:記事中文言は、案内板、Wikipediaより引用しました