天正八年(1580年)、丹後国は細川藤孝、忠輿親子の領国となります。
細川氏は、現在の伊佐津川と高野川に囲まれた平野部に田辺城を築きました。
これ以後、田辺城は細川・京極・牧野氏の居城として約290年間、領内統治の中心的存在でした。
細川藤孝(幽斎)…1543年、京都の東山で室町幕府の重臣三淵晴貞の二男として誕生。
実の父は、第十二代将軍足利義晴という。
信長、秀吉、家康に従って忠勤に励んだことこそが、戦乱の武家の生き方だったとあります。
明智光秀の三女、細川ガラシャという縁戚関係があるにも関わらず明智光秀に協力しなかったこと、明智光秀の天下人との器量があるとは考えていなかったからだとあります・・・資料館配布のパンフより引用
また、「舞鶴」の地名は、田辺城の雅称(舞鶴城・ぶかく)城)に由来しています
田辺城資料館・・・
----内部撮影は、撮影の許可を得て撮影ております(*^_^*)・・・細川幽斎の像!
歴代の城主は・・・
歴代の城主(城主就任年)
細川 藤孝 1580(天正8)→忠興 1582(天正10)→京極 高知 1600(慶長5)→京極高三1622(元和8)→ 京極高直1636(寛永13)→ 京極高盛1663(寛文3)・・但馬豊岡藩へ転封
牧 野 親成 1668(寛文8)→牧野 富成1673(延宝1)→牧野英成1693(元禄6)→牧野明成1737(元文2)→牧野惟成1750(寛延3)→ 牧野 宣成1783(天明3)→牧野以成1804(文化1)→牧野節成1825(文政8)→牧野誠成1852(嘉永5)→牧野弼成1869(明治2)・・廃藩置 県
・・・資料館配布のパンフより引用・・・
この甲冑は江戸初期のもので、実戦向きで、火縄銃の試し撃ちの痕が残っていると・・
写真みれば、向かって左の胴の丸いへこみか?
彰古館から見た明倫小学校 右は舞鶴警察署
平成2~3年の発掘調査により田辺城本丸の西端に位置する天守台の東側石垣と確認されたものである 天守台の規模は東西約21m、南北推定31m、基底部からの遺存高約4.5m 石垣は、古式穴太積み技法で積まれている |
明倫館(現明倫小学校)
牧野代(天明年間)藩校明倫齊として創立、文久年間に明倫館と改め明治五年明倫校となる 現存する校門が当時を偲ばせる |
芸屋台は江戸時代から昭和初期にかけて城下町の産土神朝代神社の祭礼等に使われたものです 豪華な見送り幕を掛け舞台の上では子供歌舞伎が上演され喝采を浴びたと・・・ |
いや、見事な龍と、兎の毛通しの鳳凰の彫物ですね・・・
細川幽斎・・武家の棟梁、源氏の正当な血を受け、荒々しい戦国の世にぬきんでた文人、武人とある・・・・田辺籠城と古今伝授・・が、お話がありますが・・長編になるため、省略です!
細川幽斎の嫡子、忠興の三男が、細川忠利・・・熊本54万石、初代藩主である・・
田辺城資料館のすぐ隣に市営「P」があり、本来ここを拠点として、これから、目的地の朝代神社、円隆寺を巡る予定でしたが・・・
聞くところ、朝代神社にも「P」がありますよ・・とのことで、移動します!
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