ページ

2024年4月26日

滋賀県の神社巡り・・・竜王町、苗村神社、東本宮です

おっちゃん二人で、滋賀県蒲生郡竜王町、国宝・苗村神社を巡ります

まずは、国宝の西本宮を参拝いたしました
県道541号線をわたって、反対側の東本宮へ向かいます



社名石

社頭

       社叢も歴史を感じますね

参道を進むと広い場所へ…本殿です

重要文化財 大正十三年四月十五日指定 東本殿 苗村神社

建立年代は、明らかでないが、向拝の蟇股の様式は、室町時代のものであり、前庭にある永享四年(1432)在銘の石 灯籠は本殿の建立と関係があると考えられる。また、正徳四年(1714)には、 大半の部材を取替える大修理があり、当初の形式が変えられたが、昭和三十三年の解体修理で、資料にもとづいて復原整備された。
正面は、格子戸であるが、少し入ったところに幣軸を廻して板扉を建て、東側面にも同様の扉口を設け、母屋の実肘木を通し材とし、妻飾の扠首組頂に花肘木を組みいれるなど、西本殿傍の八幡社本殿と共通する点が多い。なお、内外陣境の腰嵌板の彫刻格狭間は県下に類例が多いが当時の装飾手法として見るべきもの がある。
平成四年一月 竜王町教育委員会



蟇股 様式は、室町時代のものとある

右面 扉口


正面 格子戸 脇障子には意匠はないようです

       巨木に触れ、パワーをいただきました

苗村神社 国宝 西本宮 重要文化財 東本宮と二回に分けて記事にいたしました
しかし、よくぞ、戦火、災害にもあわず、歴史文化財が残っていることは奇跡かもしれません

また、訪れる日もあるかもしれませんね!
いや、来たいものです









2024年4月25日

滋賀県の国宝・神社巡り・・・竜王町、苗村神社、西本宮です

 おっちゃん二人で、滋賀県蒲生郡竜王町、国宝・苗村神社を巡ります

滋賀県野洲市、国宝の神社を昨年のある日、TVで紹介されていたのを観て・・・ここ、行きたいと!
そして、御上神社・大笹原神社を巡ってきました
訪れる前の下調べ時、先人が、「ここいかなきゃ!」と記述がありました
そこは、滋賀県蒲生郡竜王町、国宝・苗村神社
ここも国宝じゃないですか!
大笹原神社から走ること、僅か・・・
と、いうことでやってきました、竜王町、国宝・苗村神社です
県道541号線沿いにあります

社頭です

右:国宝 西本宮 左:重要文化財 東本宮
もちろん、国宝 西本宮が先ですね

鳥居扁額

お! 楼門
うん? 茅葺か!

神橋(しんきょう) 結界ですね 

重要文化財 楼門
建立年代は、明らかでないが、股の輪郭部や半世の形式などの技法から、応永 (一三九四年~一四二七年)ごろの造営と考えられる。
構造は、三間社一戸楼門入母屋造の茅葺 、この地方最大規模の和様を基調とした遺構である。
また、上層の扉や連子窓も古式を示し、軒尾垂木の先端を斜に造り、強けているなど禅宗様の手法も混用されている。下層は、縦横に貫で組まれるほか、斗横間の小壁に至るまで開されており、中央に扉もない形式は珍らしい様相といえよう。
平成四年一月 竜王町教育委員会


苗村神社 由緒
御祭神: 那牟羅彦神 那牟羅姫神 國狹槌尊
御神徳: 開運招福 家内安全 厄除 産業 工芸技術 五穀豊穣子授け 安産 子守りの守護神

御由緒
当社の御鎮座は上古に属し、平安時代の延喜式神名帳に 長寸神社と記す格式高い神社である。
社伝によれば垂仁天皇の御代に当地方を開拓された御祖を最高の産土神と崇めお祀りされた(東本宮)のが創祀とされる。その後、冷泉天皇の安和二年(969)三月二十八日 大和国吉野の金峯山より主神の一柱を勧請し、祀る社殿を造営された(西本宮)ことから両本殿がある。
爾来、諸願成就の神として尊崇し親しまれ、近郷三十三 ケ村の総鎮守として社運年毎に栄えてきた大宮である
長寸神社に苗の字を用いたのは、寛仁元年(1017) 後一條天皇より苗村神社の称を賜り現在にいたる
当社西本殿再建棟札銘文に曰く、社殿の修造は遠所まで沙汰して造立され、建保五年(1217)には有勢の豪族が神事を掌ったことが記されている
天文五年(1536)には、後奈良天皇は当社に正一位の神位を奉授され、よって勅使が参向し神主任官神号宸筆 勅額法楽和歌の寄贈等皇室及び公卿との関係頼る親密にて深く尊崇された。天正年間に、織田信長が馬鞍一具と太刀 七振りを献上する等由緒は顕著である
当社の例祭は毎年、四月二十日に斎行され、殊に三十三 年毎に式年大祭を執行し古式ゆかしく行われる
神域には国宝西本殿を始め、他五棟の建物及び木造不動明王立像等いずれも国の重要文化財指定が保存され悠遠なる名社としての歴史を物語っている



拝殿

国宝 苗村神社 西本殿 鎌倉時代(1308)建立

本殿 参拝します

本殿の姿がなかなか見える場所がないので右横、護国社からパチリです
中央が国宝 西本殿 右が十禅師社本殿 見えないが、本殿左に八幡社本殿の配置です

国宝  西本殿 
この本殿は、社蔵される棟札から徳治三年(1308) に再建されたと考えられる。
構造は、三間社流造で、全面は一段低い床張りとし、菱格子を入れて前室を作り更に一間の向拝を出し、屋根は檜皮葺とした形式は総合的に鎌倉時代後期の特質を現わしている。殊に、左右相称の透彫を施した正面二個の墓股は 美しい。また、殿内の厨子は小規模で簡素であるが手法は 優れ、本殿と同時代の作とみられ共に国宝文化財となって いる。
なお、社蔵される棟札は近在に見られない古物品で、当 時における修造の様子、活動人士、 神事の有力な担当者等 が明記され、当社歴を知る貴重な資料である。
平成四年一月 竜王町教育委員会


案内板
左:重要文化財 境内社 八幡社本殿 
中央:国宝 西本殿
右:重要文化財 境内社 十禅師社本殿
左:重要文化財 境内社 八幡社本殿 
建立年代は、明らかではないが、東本殿・楼門などと同 時代に、境内整備に伴って建てられたと考えられることや、 その様式から見て、室町時代(一四三〇年頃)の建立と考 えられる。
構造は、 一間社流造で、屋根は檜皮葺である。 この社殿 の特色は、側面に弊軸板扉の出入口を設けていることで、 このような形式は一間社流造の本殿では、わが国でも数が 少ない。母屋の三面向拝には美しい蟇股を飾り付けてい る。
平成四年一月 竜王町教育委員会

右:重要文化財 境内社 十禅師社本殿
この本殿は、社名が示すように、山王二十一社のうち上七社の一社十禅師の分霊社であって、天台宗護法神の一社であるから、台密勢力のもとに苗村神社社域に勧請された社である。
構造は、一間社流造で、屋根は檜皮葺である。 また、 墓股など装飾を施さない古式をとどめた社殿で、母屋の内部 は一室とし、正面に弊軸板扉を設け、他の三面を板壁とする。
建立年代は、明らかではないが、室町時代(1430年) に建てられたと考えられる。
平成四年一月 竜王町教育委員会


重要文化財 神輿庫


桁行四間、梁間二間、切妻造りの軽快な建物で、正面及 び北側面に各一ヶ所の出入口があるほかは柱間のすべてを板壁とした簡素な外観である。 建立は、社蔵文書によると天文五年(1536)に正一位の神位を受けたとき、 使の装束召替仮殿として建て、のちに神輿庫に用いたとある。装束召替仮殿としての用途は限られた期間であり、また平面が出入口のほかに開口部のないことは、当初から神 輿庫あるいは御供所などの倉庫的な再利用を企図して建 てられたものと考えられる。全国的に類例の少ない遺構と しても貴重である。
平成四年一月 竜王町教育委員会



楼門 境内から

さぁ、次は県道をまたいで、重要文化財 東本宮へ参りましょう









2024年4月24日

滋賀県野洲市の国宝・神社巡り・・・大笹原神社です

おっちゃん二人して滋賀県野洲市、国宝の神社を巡っています
第二弾は、大笹原神社です

昨年のある日、TVで紹介されていたのを観て・・・ここ、行きたいと思ったのがきっかけです
そして、暖かく?なった今日この頃、京都の友を誘って来たわけです

ここが、その入り口
この先は、googleストリートビューにも写真はありません
しかし、先人の口コミで「P」の位置もわかりました

さぁ、入っていきましょう

社頭です
この鳥居の左手に大きな「P」があります

国宝 大笹原神社
御祭神:須佐之男命・稲田姫命・八柱御子神 宇多天皇・敦實親王・佐々木高網公
須佐能命は天照大御神の弟神で人身上の悪疫悪病を除き健康・良縁・縁組・方除け・厄除けの神と霊験が広く知られた信仰を集めている

重文  篠原神社
御祭神:石凝姥命比賣命
オキナ夫婦この地に斎場を撰び皇祖天神により鏡餅と称せられる世に篠原もちと称するはこの事なり、その子孫 石命比賣命の霊を祀り当町氏神地主の 餅の宮と称え奉る


拝殿がみえてきました



大笹原神社

大笹原神社 本殿は国宝で室町時代(一四一四年)に岩倉城主馬淵定信が再建したものです。  京都の金閣寺より十年後に建築され造りは三間社入母屋造檜皮葺、特に彫刻が 優秀で東山文化の粋であります。
 本殿に向って左の建物は重文、春日造りの篠原神社で「餅の宮」とも呼ばれ鏡 餅の神が祭られています。 鏡餅発生の地といわれるこのあたりは全国でも名高い篠原餅の産地で、平安 時代より栄えた宿駅「篠原」では東山道(のちの中仙道)を行きかう旅人の腹をモ チ続け保存食またお土産品として販売しこの辺一帯が餅の名物となりました。
本殿右の池は寄倍の池と呼ばれ池というより水深が深い底なし沼であります。
その昔、水不足から御輿を二基沈めて祈願したところ、いかなる日照り続きであ ろうとも涸れることなくたえず満水になっているといい伝えられています。


拝殿背後、本殿へは柵のため、近づけません
しまった…望遠レンズは車の中!

国宝 本殿

国宝 大笹原神社本殿

大笹原神社は、寛和二年越知諸実が社領を寄進し、社殿を造営したと伝えられ、祭神は須佐之男命ほか六神を祀る。
現在の本殿は、棟札より応永廿一年(1414)に建てられたことがわかる。
形式は三間四方に一間の向拝を付けた入母屋造本殿である。
装飾性に富む、華麗な本殿としては県内では屈指のもので貴重な建物である。


右側より一枚
棟札十一枚があるようでそれも含めて国宝とある

望遠レンズは車の中
と、なれば、クロップしかない


神紋
箱棟の上の神紋は、四目結で、 それは近江源氏佐々木氏の紋・・・由緒略記より


本殿・左側
花狭間格子戸、その上の透彫の欄間、向拝や母屋の正側面の 柱間に挿入した蟇股、それに脇障子に施された浮彫彫刻である

本殿・右側



本殿、左側に配置されている、重要文化財 大笹原神社 境内社 篠原神社本殿

この本殿は石凝姥命を祀る。
小屋内に棟札があって応永卅二年(1425)に建てられたことがわかる。
形式は一間社隅木入り春日造。小社ながら形態の優れた境内社本殿である。



本殿右手に配置する境内社

寄倍の池
池と名が付いているが、ここは深い沼である
「その深さは 近辺に例が無く、どんなに日照りが続いても常に満水で涸れたことがない、二基の御神輿が沈められ、溶底深く眠ったままである」と伝えられている。

説明文を読めば、どこか不気味さを感じる池です
シダが生い茂るむこうに祠が見える

その祠に参拝するため、池の淵を行ってみるのだ!!
・やはり石灯篭があり、参拝できる

狛犬



手水鉢 刻銘がわからない

さぁ、帰途です
境内から見る、鳥居・石灯籠


拝殿においてあった、由緒略記をいただきました
内容を拝見すると、この地域の詳しい歴史が記載されているので、文字起しをしてみました
非常にわかりやすく、歴史書としても素晴らしい内容でもあります

この神社の場所は大篠原小字天徳で、この前方すなわち南一帯は小字「天王前」と申しま。
そこで明治の神仏判然令(明治元年三月、当時はまだ慶応四年といっていた。この神仏判然令が出てから廃仏毀釈運動が起こる)が出るまでは天王さん(詳しくいえば牛頭天王社、それは京都東山区祇園社、すなわち八坂神社と同じ祭神、素戔鳴尊・稲田比売命・その他)と申しました。はやり病(伝染病・流行病)を除く「徐疫神」としてまつられ、薬師如来の化身(神仏が形をかえてこの世にあらわれ、衆生済度をすること、うまれかわり)といわれ、また素戔鳴尊をその垂迹といいます。だからここから近い岩蔵寺の薬師(重要文化財の木造薬師如来立像・鎌倉)さんとは一体の神社でございます。

 ところが明治になって、大笹原神社と改称されました。実は大篠原神社と申し上げるべきが、 この右(境内社)の篠原神社と同じ名もつけられませんので、シノ竹を、ササ竹にしてオオササワ ラ神社と名づけられました。
滋賀県には現在神社建築で国宝は八つございます(大津市の日吉神社西本宮本殿と拝殿・東本宮本殿と拝殿、 竜王町苗村神社西本殿、長浜市竹生島の都久夫須麻神社本殿、野洲市の御上神社本殿と大笹原神社本殿)その中の一つが この大笹原神社本殿でございます。
この神社は社伝によりますと、今より千年昔の寛和二年(986)に社殿が造営されたこととなっていますが、現在の建物(桁行三間 梁行三間 一重 入母屋造 向拝一間 桧皮葺)は室町時代の建築であります。そのことは応永二十一年(1414)の棟札(棟上の時、工事の由緒、建築の年月、建築者またはエ匠の名などを記して棟木に打ち付ける木製の札)によってわかりますし、また、領主馬渕広定の再建である事もわかります。全部の棟札十一枚をも含めて国宝でございます。
この本殿は前から外陣・内陣・内内陣と分かれ、内内陣はさらに三室に分割してそれぞれに神座が設けられて居ます。外陣は床を一段低くし、建具なども開放的につくられているのに対 して、内陣と内内陣は閉鎖的であります。

この本殿の特色は各所に配した彫刻の見事さでございます。外陣は花狭間格子戸、その上の透彫の欄間、向拝や母屋の正側面の 柱間に挿入した蟇股、それに脇障子に施された浮彫彫刻など、沢山ある県下の神社建築飾の豊富なことは第一であります。しかも、個々の彫刻は抑制されたなかにも力強さを発揮しており、優雅な姿とあいまって、室町時代建築のなかの優秀作でございます。
あの箱棟の上にサンゼンと光っている神紋は、申すまでもなく四目結(目結を四個並べた紋)で、 それは近江源氏佐々木氏の紋 でございます。そしてこの神社は大篠原の集落から大分遠くへはなれ、しかも、神社南面が定石とはいえ、集落をお尻にして建てられています。
そこでこの神社は、あの城山を守って居られるようでもあります。そこには佐々木氏の支流の砦(要塞)があったからでしょうが、それとも大篠原とは元は街道から遠くはなれた奥篠原の意味で、 もとはこの神社を中心に集落が在ったのかとも思われます。いずれかにしても、在所からあまりにも離れ、街道からも離れていたことが、戦火は勿論、災害に遭わなかったのかとも思われます。 次にこの境内社の篠原神社本殿は国の重要文化財で、これも棟札によりますと応永三十四年 (1427)(「上ふき応永三四年十一月秋」の墨書)に建っていたのでございます。この建築様式を春日造(切妻造・妻入・正面に廂をつけて向拝とし、棟に千木と堅魚木とを設ける、奈良の春日神社がその代表)と申します。
この神社は小さいが(一間社)、もともとはこの地の地主神(土地の守護神)で、村発生と共に在った神で、「往古より此所に御座候 当村氏神地主也 昔ささわら成時におきな夫婦きたれり、そしてこの地をひらき之を篠原大明神と申候」と社殿にございます。
ご祭神は餅の神様で、この辺は俗に篠原餅といわれる良質のモチ米の産地でございまして、今も良質のオブラート(紙餅)はこの地のモチ米で作られると聞いています。
この辺の田園は粳を植えても糯米になるとさえいわれ、こうしてモチ米の産地であると共に、この付近の山はまた見事な柿の産地でもございます。

・・・配布由緒略記より引用いたしました