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2023年8月8日

七月の神社探訪・・・中井権次一統の世界、兵庫県丹波市市島上垣 愛宕神社です

2016年5月5日に訪れました
中井権次一統の世界、兵庫県丹波市市島上垣 愛宕神社です

丹波市市島歴史資料館を訪れた際、その地より、わずかな距離
素通りするわけがありませんね
まして、7年ぶりですから・・・
その当時と比べ、撮影機材も大幅に変わっているので、ばっちし撮影したいものです

社頭

        石灯籠、安永三年(1774年)

       社殿横 石灯籠

元禄六(1693)


        狛犬



神輿殿



中井権次一統の世界は、こちらからどうぞ!
https://nakaigonji.blogspot.com/2023/08/blog-post.html















2023年4月16日

中井権次の足跡・・・五社稲荷神社、兵庫県丹波市柏原町柏原

振り返れば、2015年3月が初めての「五社稲荷神社」参拝で、中井言次君音の彫刻を拝見いたしました
それから、8年が経ちました

いま、そのときの記事見れば、なんと恥ずかしき内容、写真でしたね
いはもたいして変わりませんが、現像方法などなど、多少はましになったと、思います


五社稲荷神社

たんば黎明館にて開催された、企画展「中井権次と柏原藩」講演会に参加いたしました

柏原にくれば、柏原八幡宮、五社稲荷神社は参拝、撮影は欠かせません?ので、カメラ2台持ちで、やってきました

その詳細は写真は、平凡なおっちゃんの足跡「中井権次の世界」でご覧いただければと思います

https://nakaigonji.blogspot.com/2023/04/40011.html

まぁ、出来映えは?






2023年3月29日

柏原八幡宮は、令和の大修造中でした

中井権次の足跡である、柏原八幡宮、 兵庫県丹波市柏原町柏原3625
令和の大修造中でした

前回参拝したのは、2018年5月22日でした
もう五年前のことか!

柏原八幡宮御鎮座壱千年記念事業「令和の大修造」御奉賛のお願い

奉賛された方々の金額別と御芳名
・・・なんと、壱億円が、お一人、いらっしゃいますね


参拝いたしましょう
・・参道途中で、木の根橋を・・・


社務所

鳥居前から
令和の大修造中・・三間社流造りの本殿に入母屋造りの拝殿は修造のため覆われています

手水舎
・・・残雪?

柏原八幡宮由諸

・御祭神:誉田別命(応神天皇)・息長帯比賣命 (神功皇后)・比賣命(多紀理比賣命)(多紀都比賣命)(市杵島比賣命)

・御鎮座
社伝によれば、舒明天皇の御代(六二九~六四一)出雲の連らが、 当山(入船山)の頂きに素盞鳴尊を奉祀(現八坂神社)したのが当宮の創始と言われている。
その後、万寿元年(一〇二四)に入船山周辺の、三箇処から霊泉の 湧出を奇瑞として、後一条天皇の勅旨により国家鎮護として京都の石清水八幡宮より御分霊を勧請し、丹波国「柏原別宮」が創建され 社殿を始め多宝塔 極楽寺 大安寺 清水寺ほか五十四坊が造営された。

・御神徳
厄除開運、五穀成熟、病患平癒、家内安全、勝運必勝、子宝安産、 交通安全、産業興隆の神として尊崇され、とりわけ厄除けの神威が高 く毎年二月十七日、十八日に斎行する厄除大祭は「丹波柏原の厄神 さん」と親しまれ、北近畿を中心に全国各地より七万人余の参拝者で 終日賑わい、十七日深夜から十八日の未明にかけて執り行われる 「青山祭壇の儀」は日本最古の厄除神事で、往古の道饗祭、疫神祭の 遺風を今に伝える流例伝承の神事である。
 
・建造物
社殿は天正十三年(一五八五)に羽柴(豊臣秀吉の造営によって再々 建されたもので、三間社流造りの本殿に入母屋造りの拝殿を連接し、軒唐破風の向拝一間を張出す複合社殿で、檜皮葺きの屋根に、箱棟、千木、勝男木をのせる。
(大正二年 国宝保存法により特別保護建造物に指定、現在は国指定 重要文化財)明治維新の神仏判然令により仏像、経巻、仏具の一切を 別当寺の東光院(乗宝寺)に移し、円満に神仏分離が行われた。
当宮には三重塔(兵庫県指定文化財) 鐘楼に釣鐘(兵庫県指定文化財) など神仏混淆当時の景観を今日に保っている。

・境内の狛犬
本殿前一対の狛犬は「丹波佐吉」(源照信)の作で、大阪府泉南地方 を産地とする、和泉砂岩を原材料とした物で一般に「浪速狛犬」と 呼ばれる部類に属するものである。
大新屋村(現 柏原町大新屋)で旗本佐野家の代官を勤仕していた、 上山孝之進成績と、北山村(現柏原町北山)居住の有力者、田口金次 昌栄両人によって文久元年(一八六一)に寄進したもので、台石の 「奉献」の文字は筑前国(福岡県北西部)の女儒亀井少琴の揮毫になる。 丹波佐吉の作品は丹波市内に数点現存しており、左記の二点は奉拝、 拝観することができる。
 大燈寺 觀世音像  (青垣町稲土)
   稲荷神社 狐像の一対 (柏原町北山)

厄除神社前一対の狛犬は柏原町内で木彫作家を営む初代「柏里」 (本名磯尾健治)の石材を用いた作品で、昭和二十七年(一九五二)二月 に氏子崇敬者によって献納されたものである。


この日は参拝者さんが多いですね
・厄除けですかね


本来ならこの姿(2018年5月22日参拝時)


柏原八幡宮の資料では、前大修造は50年前だったそうです


今日はこの「厄除神社」しか、撮影できません
「厄除神社」も改修されたようで、きれいです
しかし、参拝者さんが多いので、上部だけ?

虹梁、蟇股

木鼻



手挟み



蟇股
・・・修復されたのかなぁ? きれいです

修造中の本殿を隙間からパチリ!

檜皮ですね

奉納絵馬
・・嘉永七(1854)

・・文政七(1824)
令和の大修造中でしたので、本殿は拝見できませんでした
いつ、修造は終わるのでしょうか?

きれいになった本殿を、参拝して写真に収めたいものです
楽しみです









2023年3月8日

中井権次の足跡‥柏原藩陣屋、表御殿

兵庫県丹波市柏原町 柏原藩陣屋です

この玄関、唐破風下の懸魚、蟇股、桁隠し、虹梁の彫刻が、六代目中井権次の足跡なんです


六代目 中井権次橘正貞なのです
と、いうことで、再度、撮影して、記録を残しておきます

写真は、平凡なおっちゃんの足跡「中井権次一統の世界」でご覧いただければと思います
https://nakaigonji.blogspot.com/2023/03/blog-post.html

この度は、新発見の虹梁・・・なかなか興味深いものでした


またまた、柏原町を探索してみましょう









2023年3月6日

柏原歴史資料館企画展「中井権次と柏原藩」講演会終了後、柏原藩陣屋で刻銘拝見いたします

企画展「中井権次と柏原藩」の講演があり、予約して受講いたしました

今回は、中井権治正次の刻銘、新発見なのです

 講演会が終わり、皆さんは歴史資料館で説明を受けられますが、前回説明を聞いていますので、単独行動で、柏原藩陣屋へ行きます
もちろん、入館料210円は必要です


今回の新発見の説明箇所(下、赤枠)

安政五年(1858)に建立された柏原藩の藩校崇廣館。
その部材の虹梁には、「中井権治正次」の銘があり。
中井家所蔵の「覚帳」を確認すると、同年に「御殿様 覚門所」の記述がありました。
「覚門所」は「学問所」だったのです。




では、柏原藩陣屋で新発見の刻銘拝見いたします

ひとり、柏原藩陣屋へ
・・・北面、桧皮葺の屋根は雪が溶けていませんね、エエ感じです

まさに独り占め!だれもいません

玄関

・・今回、丹波市学芸委員さんに撮影の許可を頂いております‥

玄関の裏手、長柄の間

では、独り占めで、じっくり拝見します

「崇廣館部材と中井正次の銘」
崇廣館は、建物の用途が変化しただけでなく、増築改築や移築という変化も経て、平成十九年(2007)に解体されました。その時の報告によると、「創建・ 安政五年(1858)、二階増築・明治十五年(1882)、移築・昭和八年(193 3)。創建時は桁行九間・梁間五間の平屋。明治 期に同規模の二階を載せ、一階東側に桁行五間・ 梁間一間半の平屋を増築、桁行二間・梁間二 の入母屋構造の玄関を有する」とあります。さ らに、柱や梁の部材についての報告の中で「特筆すべきは、2と十~十三の梁(図 部)として虹梁が使われ、上部に彫物師中井権治正次の銘があって、虹梁が元からあったのか、他の建物から持ち込んだのか定かではないが、2で使用されていることから明治期に持ち込まれたと見るのが妥当だろう。ただ、建年次の安政五年と符合するのが、解釈に悩 むところである。二間の虹梁を切断して単なる梁として使用していることから、当時の意識が低かったと思われる。改変されていないと思われていた玄関屋根も改変跡が見受けられ、一部転用材が使われている」と記されて います。


      新発見の刻銘と年号
・上段
彫刻を大きく切断された部材ですが、上部に写真のような銘が入っています。
まず年号です。「安政五戊午歳四月吉日」とあります。午と歳の部分は破損していますが、安政五年(1858) の干支は戊午ですので、間違いないでしょう。
同じ部材には、氏名も彫っています。 「中井権治正次」です。 中井正次は中井家過去帳などにより、文政六年(1823)に生まれ、明治十六年(1883)に亡くなったことがわかっています。安政五年時には三十五歳だったことになります。
ところで、氏名の上にも文字がありますが、破損が大きく解読は難しい状態です。 この箇所の文字の推測や、「権次」ではなく「権治」と入れている事などについて、他の彫刻に刻まれた銘との比較をしておきたいと思います。

・下段
左の写真は社寺彫刻研究家の白石雅之氏が撮影されたもので、銘に関するご教示もいただきました。(1)では彫刻の中に溶け込むように「正次」とのみ入れています。 (2)も「正次」ですが、その前に「丹栢城」と入れています。 では 「丹栢城」とは何かというと、(3)を見ると「丹州栢原城下住」と入れており、 「丹栢城」は「丹州栢原城」であることが確認できます。 (4)でも「丹栢城下住」 とあります。 代々の中井権次家の中でも特徴的です。さらなる探求が必要で すが、これらの銘からは、正次が柏原藩とのつながりに喜びと誇りを持っていた と感じられます。 (5) は明治初期の作品の銘で「氷上郡柏原住」としています。 なお「権次」については「次」「権治」と、両方の文字を使っています。


展示の様子

崇廣館 虹梁
崇廣館は、陣屋北西隅 (現・兵庫県丹波県民局 テニス コート) にあった藩校。 安政5年に建てられた。
この虹梁には、「中井権治正次」の銘があり、柏原の彫物師である7代目中井権次正次が彫ったものであることが分かる。 また、中井家に伝わる 『彫物細工萬覚帳』にも「殿様 覚(学)問所一こうりう(こうりょう) うづ雲 波」とあり、この記述とも合致する。


虹梁

さわるな!!
・・左:波 右:渦

 「中井権治正次」の銘
・・この刻銘では「治」が使われていますね・・
余談・・・
Nikon Z7には、フラッシュが付いていませんので、文字の深さ、影を付ける意味で、スマホのライトを点灯させ、パチリです
スマホのライトがなくても、優秀なカメラなので、ちゃんと写るのでが、今回は実験です


安政五年(1858)
・・・「安」が写っていない! 失敗、残念 左手にスマホライトをかざし、右手で、live撮影

切断された虹梁(右端)
・二間の虹梁を切断して単なる梁として使用
転用材として使われた当時は、中井権治の彫刻として認識、知識が乏しかったのか?知らなかったのか?
ただの部材として切断したのでしょうね

彫刻は深く彫られ、素晴らしい・・・
うず雲とありますね


中井権治正次の新発見の箇所を独り占めして、拝見いたしました


陣屋玄関からみる長屋門

長屋門・柏原藩陣屋の様子は次回に・・・

新発見・・・お見事でした


そして、その時に申し込んでいた、「企画展 中井権次と柏原藩」の冊子が届きました


そして、その送付封筒の丹波市料金後納郵便のデザインは・・・
中井権次の龍ではなく、丹波竜でした
そりゃ、選択は「丹波竜」だろうね!!(苦笑)



追記:文中文言は説明板などから一部引用いたしました
柏原藩陣屋内の写真撮影は、丹波市学芸委員さんに撮影の許可をいただいております











2023年3月5日

たんば黎明館にて開催された、企画展「中井権次と柏原藩」講演会に行ってきました

「中井権次と柏原藩」と、題しまして講演会が開かれました(下、赤枠)
もちろん、事前予約で申し込んでおります


場所は、たんば黎明館 2階多目的ホールです
たんば黎明館は、県指定文化財 旧氷上高等小学校校舎なのです



県指定文化財 旧氷上高等小学校校舎 附 棟札、門、柵
明治18年(1885)に現在地で建設された。 その 後氷上第一高等小学校、郡立柏原病院の建物となり、 同42年(1909) 郡立 (大正11年に県立) 柏原高 等女学校校舎として使用された。 その間、 多くの卒業 生や著名な人物を輩出した。
校舎は木造2階建であり、屋根は寄棟造で桟瓦葺、外壁は下見板張りで、 壁には胴蛇腹、 軒蛇腹をつけ、 外に面する窓はガラスの上下窓で、 窓台とモールディ ング付き窓枠からなっている。
玄関ポーチは2階建で西正面中央に位置し、1階は 吹放しのポーチ、2階は室内である。
屋根は切妻造で、正面側をペディメントとする。 柱は石造の柱礎の 上にたち、円柱で中間部に繊細なフルーディングをつ ける。 柱頭はイオニア風の形態である。
明治初期に建設された擬洋風建築にみられる形式が よく保存され、 近代初等教育施設の建築物として兵庫 県下では最古の部類に属する貴重な校舎である。

さぁ、入ってみましょう
何度も外観は見ていますが、入館は、実は、初めてなのです

エエ感じですね

会場である2階へ

講演会場です

始まりました・・・「企画展 中井権次と柏原藩」

これは珍しい地図ですね



展示されていた、説明板

中井権次一統
1615(元和元年)~昭和初期
彫物師として名をはせる柏原の中井家は、 柏原藩二代目藩主織田信則の時に、徳川家康の召し抱え宮大工中井正清の流れを受け継ぐ二人の兄弟が、元和元年(1615) 丹後与謝郡の中井役所から柏原八幡宮の三重塔の再建に招請されたことに始まる。 彼ら宮大工三代は、大工町 (現在の柏原町新町界隈) に屋敷を用意され相当な待遇で迎えられていた。
四代目の中井言次君音 (享保7年(1722) 天明7年(1787))からは、宮大工を弟たちに任せ、神社、仏閣の装飾彫刻を始 めた。 柏原町の五社稲荷神社の彫刻がその始まりで、彫物師として優れた技量を発揮している。 中井家の彫り物の主題は、龍であるが、霊獣、聖獣等多彩な彫り物を設えている。
屋号に青龍軒を揚げた五代目は、 中井丈五郎橘正忠 (寛延3年(1750)~文化15年(1818))、
六代目中井権次橋正貞 (安永9年(1780)~ 安政2年(1855))、 その弟の中井権次橘正用、そ
の子正実、 七代目中井権次橘正次 (文政5年(1822)~明治16年(1883)) 八代目中井権次
橘正胤(嘉永8年(1854)~昭和3年(1928))、 九代目中井権次橘貞胤 (明治5年(1872)~昭和33年(1958))と続いて作品を輩出している。
丹波市に居住した彫物師中井一統の活躍地域は、丹波市だけでなく、 篠山市、三田市、但 馬全域、 播磨の一部、福知山市、綾部市、宮津市、京丹後市、南丹市、京丹波町等々に及んでおり、その広域性と累代に亘る継続性は類を見ないものである。



織田信包 1543(天文12年)~1614(慶長19年)
織田信包は、丹波国柏原藩の初代藩主であり織田信秀の息子で、織田信長の弟として、天文12年(1543) に生まれた。
初名は信良、通称は三十郎、別名は信兼と称した。
永禄11年(1568) 兄・信長の命により長野氏に養子入りし長野信包と称し、伊勢国上野城主となった後に伊勢を加増され安濃津城の城主となり、織田上野介と称した。
その後、信長に従って各地を転戦、兄の天下取りを補佐した。
天正元年(1573) 小谷城の戦いで信長の義弟・浅井長政が滅亡した際には、長政の正室で信長の妹の市とその3人の娘、茶々、初、江を保護している。
天正10年(1582) 本能寺の変で信長が亡くなったあとは、豊臣秀吉に従ったが、小田原征伐や朝鮮出兵について秀吉と意見が合わず改易に処せられてしまい、与えられていた安濃津城を没収され、近江に移封(2万石)となった。文禄3年(1594) 信包は、剃髪し老犬斎と称し、京都の滋雲院に隠棲した。
秀吉が亡くなる直前の慶長3年(1598) に、丹波国柏原に3万6千石を与えられ柏原藩主となり、秀吉の遺命により秀吉の子秀頼の補佐役に任じられている。
柏原へ移封となった信包は、 加古川の水運と山陰街道を整備し、柏原町母坪に舟着場を設け、加古川を下り高砂から大坂までの舟運を開いたともいわれる。 また、氷上町沼村が毎年
洪水で水没したことで、 慶長16年(1611) に佐治川に堤防を築き、河川改修を行い、村民の 税負担を軽減している。 信包の死後その遺徳を偲びお宮が建てられ、今も織田上野介明神と
して祀られている。
慶長19年(1614)、72歳で没した。


今回の講演会とは関連はありませんが、丹波と云えば、赤井氏、黒井城

荻野(赤井)悪右衛門直正 
1529 (享禄2年) ~ 1578 (天正6年)
甲斐武田氏の甲州流軍学書 「甲陽軍鑑」に、名高き大将来 13人の筆頭に「丹波ノ赤井悪右衛門」と記され、近隣諸豪から「丹波の赤鬼」と呼ばれて恐れられた直正は、荻野氏一族である氷上町新郷の後屋城主赤井氏の出自で、幼名を赤井才丸といい、幼少の頃から豪胆、知勇に優れていた。
春日町朝日の朝日城を拠点とした荻野十八人衆の盟主として請われ、 荻野姓を名乗った。
天文23年 (1554) の正月2日、年賀の席で黒井城主荻野伊 豫守秋清を刺殺して黒井城主となり、これより悪右衛門と号して、黒井城南麓 (現興禅寺地所)に下館を設け本格的に黒井城及び城下町の整備に着手した。
折しも、勢力を伸ばしてきた織田信長に直正は、一度服命するが、但馬此隅城の山名氏とのの関係が悪化し、 これが一因で信長と敵対することとなった。
信長は、天正3年(1575) 明智光秀を総大将として丹波平定に派遣している。
光秀は、 八上城主波多野秀治ら丹波の国人衆の過半数を服従させ黒井城を包囲したが、交戦は2ヵ月に及び翌天正4年(1576) 1月15日、かねて盟約どおり突如波多野軍が寝返って光秀を急襲し、総崩れとなった光秀は壊滅的な打撃を受けて亀山城に帰城した。 これを後世「赤井の呼び込 み戦法」 と呼んでいる。
信長との対決が間近くなった直正は、毛利氏の提唱する「三道併進策」 に呼応し、反織田勢力の毛利 吉川、武田、石田本願寺等と同盟を結びその一翼を担ったが、天正6年(1578) 3月9日に病没する。
直正の死後、盟主を失った黒井城は、日に日に士気が衰え、その勢力も衰退し、光秀の2 回目の黒井城攻めに、遂に落城の憂き目を見ることとなった。
勇猛を誇った直正の武勇伝は、この地に伝わる黒井音頭にも長々とうたわれ、今も人びと の間で語り継がれている。


追記:文中文言は、案内板より引用しております


現在の街割り、道とも同じように見えますね
上の地図と見比べると・・・
まっすぐ伸びる道が、大手筋 その突き当たりに大手門があったらしい

2月14日の展示説明会と、2月23日の講演会は、新発見がお披露目され、その説明はなかなか興味深いものでした

講演会が終わり、皆さんは、歴史資料館で説明に行かれましたが、私は前回、説明を聞いておりますので、単独?だれもいない柏原藩陣屋へいき、新発見の梁を独り占めして眺めてきました
そして、丹波市学芸員さんに許可いただき、撮影もできました

その記事は、次に・・・

いやいや、じつに楽しかったです
講演時間は1時間30分、あっという間に終わりました
参加人数は予約制で、およそ50人
みなさん、中井権次のファンでしょう・・・勉強熱心です
これからも、中井権次一統についてもっと知りたいと思っております