兵庫県三田市下槻瀬、蓮華寺‥山門・室町末期、多宝塔・文化九年(1812年)・・いずれも、県指定重要文化財である・・・
境内、参道より
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川原観福寺の門と同形式の単層仁王門であったところ、昭和63年の解体修理にあたって屋根下の木組みを検討した結果、創建時は二層の楼門であったことが確認されたので、原形に復元した。
縁腰組は三手先に組み、中備は間斗束、和様を基調に室町時代末の特色をよく残している。
寺伝によれば戦国の兵乱に罹災、のち豊臣秀頼の命により片桐且元が再現したといい、また仁王像(市指定文化財)は観福寺と同様運慶作と伝えている。
なお正面上に掲げてある山号額は享保十九年(1734年)京都門跡尼寺宝鏡寺よりおくられた額である
・・・案内板より引用 |
山号額・・・
享保十九年(1734年)京都門跡尼寺宝鏡寺よりおくられた額である
仁王像(市指定文化財)は観福寺と同様運慶作と伝えている
真言宗 大覚寺派 深谷山 蓮華寺・・
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奈良時代、法導仙人の開山と伝える。中興の祖は慈心尊恵といい、比叡山に学び川辺郡清荒神清澄寺の住持となり、有馬温泉寺に入った僧で、「平家物語」の「冥土蘇生記」の主人公。
尊恵が闇魔王宮に持参したという曼荼羅・教本・数珠などは、寺宝として伝わる
七堂伽藍を備えた大寺であったといい境内に堂跡が残る
本尊阿弥陀如来は文永八年(1271年)の制作で、聖観音菩薩と地蔵菩薩を脇侍とする
楼門は戦国時代焼亡、豊臣秀頼による再建という
山号額は京都門跡尼寺宝鏡寺の寄進
多宝塔は文化九年(1812年)の再建、市内唯一の塔である
中世の石造物も多く、嘉歴二年(1327年)造塔の阿弥三尊種子石碑は聖衆が寄進、一石五輪塔は長享三年(1499年)曼荼羅の由来を裏書きした寺僧良真を供養したもの
・・・案内板より引用 |
多宝塔・・県指定重要文化財・・三田市唯一の塔である・・・
近世後期に再建された多宝塔であるが、設計図面を残している。
塔正面三間の中央は4枚の桟唐戸、両脇は花藤窓、側面中央に引違い戸、その両脇は板張。蟇股は正面三間共あって、側面と背面の三間は中央間のみで両脇には間斗束を付けている。
垂木は初重が平行、二重が扇形で図面通りである。下から見る扇形垂木は見事である。屋根葺きは初、二重とも、元々桟瓦か桧皮葺であったかは原図ではよくわからない。
堂内は四天柱なく奥壁に須弥壇がつくられ、釈迦仏をまつり、床板張り格子天井造りである。
棟札によれば文化9年(1812年)鴻池組によって建てられたものである・・・案内板より引用
塔正面三間の中央は4枚の桟唐戸、両脇は花藤窓、側面中央に引違い戸、その両脇は板張
多宝塔付近から見る景色・・いや、みごとな景色です・・
この坂、緩そうに見えますが、いやなんの・・結構勾配があり、キツイのです!
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木器の興福寺にある板碑と同じ彌陀三尊種子を刻んだ板碑である。この地方に多く使われている石英粗面岩(波豆岩)である
主尊種子阿彌陀如来を大きく彫り、その下左右へ脇侍である観音・勢至両菩薩種子を配し、下半分には一行の銘文がある
彫りは全体にやや浅く、形状は自然石利用なのでタテ・ヨコ線ともすっきりしていないが、頂部の三角は手を加えたもののようである
造塔供養こそ仏の教えにかなうものと、遊行している立場の「ひじり」たちが、嘉歴二年(1327年)秋彼岸の日に立てた珍しい石造物である・・・案内板より引用 |
嘉歴二年(1327年)造塔の阿弥三尊種子石碑・・・県指定重要文化財
市指定文化財・・・五輪塔
波豆石造品の1つである・・ 銘文・種子はないが、室町時代後半の作品と思われる
本堂・・・
川原観福寺の山門といい、宗派も同じ・・・そして、高売布神社の拝殿の扁額も京都宝鏡寺門跡尼の寄進・・・
さらに波豆石の名がよくでてきます・・・最近の備忘録では、酒滴神社の重要文化財の鳥居など・・
ご近所、この地域は、なんらかの歴史的関連性があるかもです・・・私感
参拝日:2月24日
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