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2016年3月23日

生野天神宮・・・京都府福知山市生野

梅田春日神社から、国道9号線、山陰道を西へ三俣の生野神社を目指して走ります・・・


その途中・・「カーナビ君」の地図に、生神宮が表示されています・・・

これは、参拝しなければ・・・
通り過ぎるわけには・・ねぇ!(*^_^*)
鎮守の杜・・・「袂の森」という名所らしい・・・
金の椎の実
生野の天神さんの森には椎の古木がたくさんありました
この椎は、大昔、大神宮さまが、丹波から伊勢へ移られると途中、ここでお休みになりました
その時におともの者が食用としてもっていた椎の実をまいたのがもとになり、立派な氏神さんの森となった・・と、 この生野の里にみいちゃんと呼ぶ十歳位の女の子がおりました。お父さんはなくなり、お母さんと二人暮らしの気のやさしい女の子でした。お宮さんの下にある雲田たんぼに黄金の波を打たせてみんなを喜ばした稲がすっかり刈り取られた頃、お母さんは病気になりついに寝込んでしまわれました。 心配なのはみいちゃんです、何とか早く元気になってもらいたいと毎朝早く起き出して天神さんへお参りしました。 今日もお参りして帰ろうとしますと、大きな椎の木の根元に白いものがうずくまっているのが目につきました。何だううがとこわごわ近づいて見ますと、鉄砲で打たれたのが、あるいは木の上の巣から落ちたのが、白い羽を皿ぞめにした、こうの烏が傷ついた両足でひな鳥をかかえてうずくまっているではありませんか・・
みいちゃんは「かわいそうに」といいながらだきかかえて自分の家に帰り、近所で大きなかごを借りてきてわらを敷き、その上に親子烏を入れてやりました。水を与えたり、たにしやかえるを捕えてきてえさにしました。親鳥は二、三日で死んでしまいましたが、子鳥は日増しに元気になり、飛び立てそうになりました。 お母さんの看病の上、毎日鳥のえささがしに困り、仕方なく子鳥をかごから出しました。子鳥は喜んでパタパタと音をたてながら飛び立って行きました。 それから二、三日たった静かな夜のことです。みいちゃんの枕もとで声が聞こえるので目をさますと、頭巾をかぶり紫色の衣をきた少女が、「私はお世話になったこうの鳥です。そのご恩返しにあ母さんのご病気をなおします。あの月が満月になったら、森の中の池のつつみに金色の椎の実を置いておきますから、それをせんじてお母さんに飲ませなさい。あ母さんはきっと元気になられます。さようなら。」といってきえました。みいちゃんは、「待って下さい。」と後を追いましたがもう姿は見えません。しかし飛び去った後に一本の黒い羽が落ちておりました。みいちゃんは夢であったかと思いながら、満月の夜、池のほとりを探しますと、金色の椎の実が落ちております。喜んでこれをひろって家へ飛ぶようにして帰り、いわれたとおりこれをせんじて母に飲ませますと、母はめきめき元気になりました。 女二人暮らしの家ながら、近所の人々もうらやましがるような明るい楽しい毎日を送るようになりましたが、みいちゃんの家の床には一本の黒い羽が飾ってあったということです。

福知山市老人クラブ連合会発行『福知山の民話』より原文のまま
この話はテレビの「マンガ日本むかし話」でも放映されたことがあります。
昭和十年頃まで椎の巨木が残っていました・・・・・・全文、案内板より引用


境内へ・・
・・・鳥居は四角い柱ですね!
由来記・・・

この天神宮は用明天皇の頃、約千五百年前、丹波の國七天神の一社として建立され寛政年間改築、元禄七年京都吉田の住人により御神体菅原道真公と再献されて今日に至ったものである・・・
・・・大江山、生野の道遠ければ、また、ふみを見ず天の橋立・・
と、小式部内侍の詠める古跡「生野ノ庄」たもとの杜の社として崇拝された・・一部省略・・生野区

・・・由来記より引用
覆屋・・・
覆屋の隙間から、パチリです・・・内部、雑然としているので、上部のみ載せます・・m(_ _)m
境内社・・・天照皇大神宮
その社のそばの、梅・・開花も遅いかも・・なにせ、寒い・・・


生野の里・・・・ググってみました・・
 このあたりが、約千年前の平安時代から京の都と丹後の国を結ぶ京街道宿場町として栄えた「生野の里」・・とのこと・・・
江戸時代に入っても貝原益軒の「西北紀行」にもその賑やかな様子が描かれでおり、丹後の宮津藩主は参勤交代のとき、この地で一泊したといわれ、今も本陣跡が残っています

国道9号線、山陰道、三俣、生野神社・・へ、走ります・・


参拝日:3月17日









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