粟鹿神社・・・式内社(名神大社)、但馬国一宮、旧社格は県社、但馬五社の一社
但馬国随一の古社であり、2000年以上の歴史があるとも言われる・・・
両開きの唐戸は、透かし彫りの欄間をつけ、羽根板には鳳凰が刻まれている(写真は左面)
朝来市指定文化財・・・栗鹿神社木造著色随身倚像(一対二体)
栗鹿神社木造著色随身倚像(一対二体)
木造著色倚像(一対二体)は随身門に安置されている 随身倚像の製作年代は、両像とも銘文は記されていないが、随身の像内に入れられた棟札から、江戸時代前期、宝暦五年(1755年)に修理されたことが判明する さらに棟札の裏には天和三年(1683年)に再興されたと記されている 台座は候補で、色彩は殆ど剥奪し、像内に修理時の補材が見られるが、造立当初の姿をよく留めている |
木造著色倚像(阿形)は、随身門の南東部に安置、総高117.6cm 像高82.2cm 一木造(内刳なし) 彩色、彫眼
左右に緌を付けた冠をかぶり、口は少し開けて顔をやや左に向ける
朱色の袍を着て、表袴をはき、五本の矢を挿した胡簶を背負う
右手に弓を左手に太刀を持つ
左右に緌を付けた冠をかぶり、口を閉じて顔をやや右に向ける
黒色の袍を着て、表袴をはく 左腰に太刀を佩き、五本の矢を挿した胡簶を背負う
随身門に安置されている 狛犬の製作年代は両像とも銘文は確認できない 迫力のある表情や力強さが見られる作風は、鎌倉時代風であるが、背筋の後半が湾曲しているのは、製作年代が新しいことを示すものと思われ、江戸時代前期の製作と推定される 台座は後補で、彩色もほとんど剥落し、足先にやや傷みがみられるが、力強く迫力のある当初の姿をよく伝えているのは貴重である |
左足を少し前に出して座り、口を閉じてやや右を向く
頭上に一本の角を出したたてがみは、直毛で房状に表している
右足を少し前に出して座り、やや左を向いて開口する
たてがみは巻髪
いい顔して、はりますね・・・! 写真左下:狛犬(吽形) 写真右下:狛犬(阿形)
拝殿、本殿・・
・・・なんでしょう・・ここは神域・・静寂のなか、この地に居るだけで、空気の流れ?、風?といい、ななにかに包まれているように感じられるのですが・・・私感!
祭神は、彦火火出見命・龍神・豊玉姫・・・
・・・・後方に小山?が見える・・・後述します・・・
その方が・・・あの杉の木に上からまっすぐ白く見える筋が見えますか?
・・・・あれは、落雷で、雷が走った痕ですよ・・・って、・・・おおぉ、すごいですね!
・・・写真下の「藤」・・・見事な藤が咲きますので、五月上旬にでもお越し下さい・・って!
そして、あの「竹田城、二代目城主、お手植えの藤です」・・って、教えて頂きました・・(*^_^*)
本殿の後は、こんもりとした、山・・それは、古墳と、教えていただきました・・・
・・・境内には、どこにも表記はない、いや、しないようです・・・
謎は調べないと・・ググってみると・・・
粟鹿神社は日子坐王終焉の地ともされ、その塚もあり、本来の祭神は日子坐王ともされるが・・・
文字、判読できないが、前出の関係者の方よりお話を聞きました・・・
そして、お二人の神社関係者のお二人の方とお話ができ、色々とお聞かせ願いました・・・
・・・いつか、どこかで、感じることが、出来ると思います・・・と、 ・・
但馬国一宮について
但馬国一宮は出石神社と当社の二社とされる。但し、いくつかの資料で異なっており、鎌倉時代の但馬国大田文では当社を二宮としているが、室町時代の大日本国一宮記では当社を一宮に挙げ、出石神社が記載されていない。現在は両社ともが但馬国一宮を称し、全国一の宮会に加盟している・・・Wikipediaより引用
是非、一の宮を巡拝下さいと・・・・わぁ、これは大変です・・・また、目的が増えました・・(*^_^*)
で、淡路国、伊弉諾神社も・・一の宮・・・はい、今年、1月に、参拝いたしました!
追記:この粟鹿神社のすぐ側に、中井権次一統の足跡、見事な彫物の當勝神社があります
ということで、この付近は、何度も走ったのですが・・・ね・・(^_^;)
http://a-shi-a-to.blogspot.jp/2015/04/blog-post_48.html
参拝日:3月17日
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