頼次は領内の野間社(布留の宮)の再建をはじめ、ついで新しく「地黄城」と、城下町を構築に着手した(慶長七年(1602年)
普請奉行山田彦左衛門の縄張りにより東西75m・南北110m・面積8200平方メートル、さらに大手・搦手・裏には彫りをめぐらし、四方には石垣を高く築き高塀が設けられた。城内には御殿、官宅をはじめ十数屋舎が配され、北側には三層の楼閣がきわ立だった。普請完成は元和元年(1615年)とされている。近世初頭の陣屋敷として偉容を輝かせたが星はうつりて明治二年(1869年)藩籍奉還となるや旗本能勢氏(四千八石)も累代祖霊の見守る中終焉を告げたのである・・清和源氏 頼光派・・・以上、地黄城址、案内説明板より、全文引用
能勢氏は、摂津国(北摂地方)の封建領主。清和源氏頼光流を称する・・・能勢地方は源満仲以来の本拠地である多田に隣接することから古来より源氏と関係の深い土地であったと考えられる・・とある・・・先日の多田神社の清和源氏同族会へと繋がっていくのです・・・
http://a-shi-a-to.blogspot.jp/2015/04/blog-post_57.html
なかなかの石垣のラインである・・
地黄公会堂・・・
地黄城大手門跡近くにある木造二階建て、昭和初期に建てられて、今も現役の公会堂
ここで、思わぬことが・・・・!
先客?・・所謂、カメラマンの方!がおられる・・その方が、私に「どこを狙っているのですか?」と・・
いや、私は、城址を拝見しにきたのです、そして、スナップ写真ですよ!・・って、ことから・・
同伴のおばさんが、よく、この城址をご存じで・・・と・・
・・一応、資料館で聞きましたから、そして幟が・・と・・
それからが大変・・そう30分ぐらいかなかぁ・・立ち話で、撮影談話を、いや、一方通行ですが・・(*^_^*)
その方、全日本写真連盟とかのコンテストによく入賞されるらしい・・
そりゃ、大きな一眼レフ下げて、脚立を持参してまで、城の石垣を狙っているらしい・・
しかし、この城址、今日で二日目とのこと・・なぜか? そう、撮影ポイントの前に工事用車両が止まっているので・・
その車が、移動するかどうかを待っているらしい・・・(^^;)
写真コンテストへの投稿に対する心構え、考え方、等々・・・そして、撮影ポイント、撮影方法、撮影テクニック、など、ご伝授いただきました・・m(_ _)m
最終的には、撮影教室での勉強も薦められました・・!
因みに、地黄公会堂を撮影を例に・・建物のコントラストはいいのですが・・2階の窓、その中に段ボール箱が見える・・
そういったところもよく観察しなければ・・ね!・・って!・・・おおぉ!と、感心しかり・・
むずかしいね・・・写真は!・・と、感じながら、お礼を申し上げ、丸山城へ向かいます
追記: 訪問日 4月27日
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