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2015年4月30日

地黄城址・・・(地黄御陣屋、丸山新城)・・大阪府豊能郡能勢町!

能勢町、地黄は中国原産の薬用植物の名前、奈良~平安時代、宮内省に皇室の医薬のことをつかさどる典薬寮があり、附属の薬園で地黄を栽培して煎じ薬(地黄煎)を作っていた。薬園はいくつもあったがそのうちの一つが、平安時代の初め、承和年中(834~848)当時の能勢郡におかれて「地黄御薗」と呼ばれていた。以後、中世にいたるまで「地黄御薗」はしばしば古文書に登場するが、これが現在の地名「地黄」の由来である。近世には旗本能勢家の陣屋がおかれ、街沿いに城下町が整備された・・・パンフ、地黄の道より引用

ここ東郷地域は縄文遺跡や古墳群がみられ、さらに律令下では朝廷の典薬寮園となり、古くから政治文化の栄えた土地柄である。
平安後期、多田満仲の一族が能勢に入部して土豪化してのち国基になって能勢郡を領有、はじめて能勢氏を名乗り、西方の丸山城を本拠地とした。
戦国騒乱は能勢氏にもおよび本能寺の変では明智方の加担、そのため秀吉配下の河原長右衛門宜勝らの乱入をうけて、丸山城をはじめ城下は焼け野原となった。城主頼次は能勢を離散、以後、領地は高山右近をはじめ数代を経て天正十六年(1588年)島津氏の管掌するところとなった。
能勢氏中興の祖といわれた能勢頼次は関ヶ原の合戦で東軍に組みし、軍功により旧領・預地をあわせ一万石余が宛がわれた。
頼次は領内の野間社(布留の宮)の再建をはじめ、ついで新しく「地黄城」と、城下町を構築に着手した(慶長七年(1602年)
普請奉行山田彦左衛門の縄張りにより東西75m・南北110m・面積8200平方メートル、さらに大手・搦手・裏には彫りをめぐらし、四方には石垣を高く築き高塀が設けられた。城内には御殿、官宅をはじめ十数屋舎が配され、北側には三層の楼閣がきわ立だった。普請完成は元和元年(1615年)とされている。近世初頭の陣屋敷として偉容を輝かせたが星はうつりて明治二年(1869年)藩籍奉還となるや旗本能勢氏(四千八石)も累代祖霊の見守る中終焉を告げたのである・・清和源氏 頼光派・・・以上、地黄城址、案内説明板より、全文引用

能勢氏は、摂津国(北摂地方)の封建領主。清和源氏頼光流を称する・・・能勢地方は源満仲以来の本拠地である多田に隣接することから古来より源氏と関係の深い土地であったと考えられる・・とある・・・先日の多田神社の清和源氏同族会へと繋がっていくのです・・・
http://a-shi-a-to.blogspot.jp/2015/04/blog-post_57.html
現在は能勢町立東中学校・・・この石垣の上がグランド!
運動場の南側・・草むらの中に立つ・・能勢氏故城址の碑・・

大手門・・(食違虎口)・・グランド側から・・
多分、観光用の整備された「P」と思うが、施錠されている・・イベントの折か、学校休みの時しか開かない・・かも!

なかなかの石垣のラインである・・

地黄公会堂・・・
地黄城大手門跡近くにある木造二階建て、昭和初期に建てられて、今も現役の公会堂

ここで、思わぬことが・・・・!
先客?・・所謂、カメラマンの方!がおられる・・その方が、私に「どこを狙っているのですか?」と・・
いや、私は、城址を拝見しにきたのです、そして、スナップ写真ですよ!・・って、ことから・・
同伴のおばさんが、よく、この城址をご存じで・・・と・・
・・一応、資料館で聞きましたから、そして幟が・・と・・

それからが大変・・そう30分ぐらいかなかぁ・・立ち話で、撮影談話を、いや、一方通行ですが・・(*^_^*)
その方、全日本写真連盟とかのコンテストによく入賞されるらしい・・
そりゃ、大きな一眼レフ下げて、脚立を持参してまで、城の石垣を狙っているらしい・・
しかし、この城址、今日で二日目とのこと・・なぜか? そう、撮影ポイントの前に工事用車両が止まっているので・・
その車が、移動するかどうかを待っているらしい・・・(^^;)

写真コンテストへの投稿に対する心構え、考え方、等々・・・そして、撮影ポイント、撮影方法、撮影テクニック、など、ご伝授いただきました・・m(_ _)m

最終的には、撮影教室での勉強も薦められました・・!

因みに、地黄公会堂を撮影を例に・・建物のコントラストはいいのですが・・2階の窓、その中に段ボール箱が見える・・
そういったところもよく観察しなければ・・ね!・・って!・・・おおぉ!と、感心しかり・・

むずかしいね・・・写真は!・・と、感じながら、お礼を申し上げ、丸山城へ向かいます


追記: 訪問日 4月27日

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