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2025年4月11日

兵庫県丹波市柏原町、織田家の城下町・・太鼓やぐら、新たなる中井一統の彫刻発見?等々

2025年桜見物で、丹波市に来ました
休息ということで、はたまた、柏原町に立ち寄りました
いや~、好きですね、お気に入りの地です


木の根橋 

樹齢1000年とも推定される大ケヤキの根
幅8mの奥村川をまたいでいます、眺めるだけで、パワーをもらってる感じです
県の天然記念物にも指定されています


史跡 太鼓やぐら

何度目かなぁ?
今回は、嫁が行っていないということで、ご案内しました

太鼓やぐら
江戸時代には、大手門に隣接して北向きに建てられていました
内部は三層となっており、最上部には「つつじ太鼓」とよばれる太鼓が吊されています
この太鼓の胴の内側には寛文八年(1668)に製作されその後皮を張り替えた時の銘が残っており、この太鼓が国替えになる前の大和松山藩の時から使用され、柏原移封の際に持ってきたことがわかります
この太鼓は、普段は時報として、また藩主が参勤交代で江戸から柏原に戻ってきた時や火事の際にもたたかれていました
太鼓やぐらはが現在地に移ったのは明治初期のことですが、江戸時代の柏原藩にまつわる建造物として当時の面影を伝えています

最上階には「つつじ太鼓」という大太鼓があり、時報や火事大水などの警報、登城の合図、藩主の登下城の合図として鳴らされたとあります
太鼓の胴はやぐら建築当時から使用されているもので、胴の内部には江戸時代中期以降の張替年代と修理者名が数度に渡り、墨書きされており、柏原藩主織田家の前任地である宇陀時代の墨書きもあるとのこと

今日拝見したら、入り口付近に貼られた案内文がありませんね
その内容は・・・
手書きで、「ご自由に見学下さい」
で、登櫓者にお願い・・
貴方の手の油を太鼓の皮にすりつけて下さい・・・乾き防止の為

その案内文もないので、今は入れないでしょうね


太鼓やぐらの右側の大歳神社
ここは、中井権次一統の彫刻です
中井権次一統作品集には、記載はありません
丹波新聞コラムにその詳細があります
なかなかの龍ですぞ!

今回は柏原八幡宮の「P」をお借りしました
その前にある西楽寺さん

楼門の木鼻見れば、阿吽の木鼻の配置じゃないですか

以前、柏原八幡宮の宮司さんに教えていただきました
通常?木鼻は阿なら阿、吽なら吽となっているらしい
「木鼻の獅子、漠は阿吽の組み合わせになっているのが中井の証拠」

今回は、境内には入ってはいません
次回、参拝し拝見するつもりです

で、調べてみました
丹波市柏原 浄土宗天箇山 西楽寺

法道仙人開基 
元々東奥にあり、兵火により八幡神社・神宮寺大安寺焼失
元和年間、貫誉上人が現在地にて再興

山門 築造不詳 彫師 柏原 西垣師(境内にある案内板より)
本堂 築造不詳 彫師 推定 中井一門4代・中井言次君音
境内 子安観音堂 築造 天明二年(1782)彫師 推定 中井一門五代・中井丈五郎正忠

この情報、記事は大変参考にさせていただいている方のブログからです

いままで、前を何度もα君で通っているのですが、歩いて拝見するのは初めてなんです
いやいや、是非境内を拝見いたしたいものです
新たなる目的ができました

と、いうことで休息のため、立ち寄った柏原町
残念ながら、観光案内所はお休みでした

さぁ、次なる桜の名所へ走ります













2023年8月14日

真田丸跡界隈を歩きます、心眼寺坂です

大阪市顕彰史跡第204号、真田丸出城跡(天王寺区餌差町)にある心眼寺


真田幸村の墓のそばに、京都見廻組、桂早之助・渡辺吉太郎・高橋安次郎の墓があります


桂早之助利義は、天保十二年(一八四一)四月、代々京都所司代組の同心を務める家に生まれた、京都在住の幕臣である。剣術は西岡是心流を修め、京都文武場の剣術世話心得を務めている。慶応三年(一八六七) 二月、所司代組同心から京都見廻組に推挙され、七月には肝煎 (小隊長クラス)に昇進した。
見廻組の主な任務は、新選組と同じく京都の治安を守ることにあるが、見廻組の方は、全て幕臣による組織である。
渡辺(邊)吉太郎は、天保十四年(一八四三)に江戸で生まれた幕臣である。直心影流を学び、神奈川奉行支配組同心となった。その後、元治元年(一八六四)
には見廻組に推挙され、京都に来た。慶応年間の見廻組肝煎を列記した名簿に名が掲載されている。
高橋安次郎も、天保十三年(一八四三)に江戸で生まれた幕臣である。高橋の名は、元治元年の見廻組名簿に記され、伍長を務めていた。
慶応三年十一月十五日、京都河原町の近江屋で坂本龍馬や中岡慎太郎らが殺害された。箱館戦争終結後、新政府に捕らえられた元見廻組肝煎 今井信郎の供述によると、見廻組与頭 佐々木只三郎を指揮者とする数名が、坂本龍馬らを襲撃した。その人員の中に、桂早之助と渡辺吉太郎、高橋安次郎の名がある。
慶応四年一月三日に始まった鳥羽伏見の戦いに見廻組も参戦し、最前線で戦った。桂は下鳥羽で左股に銃創を受け、四日に戦死している。遺体は戸板に乗せられて同僚らの手で大坂まで運ばれ、本寺に葬られた。享年二十八歳。戒名は 「徳元院大誉忠愛義貫居士」である。
渡辺は鳥羽から橋本にいたる戦いの中で負傷し、五日に戦死、本寺に葬られた。享年二十六歳。墓碑には吉三郎とあるが、同時代資料から「吉太郎」が正しい。 高橋も五日に鳥羽淀橋において戦死し、本寺に葬られた。享年二十七歳。「宝樹院 恩誉巍山孝道居士」という戒名を刻んだ墓石が、桂の墓の隣に存在していたが、現在、墓石は残されていない。裏面には「慶応四年戊辰夭正月五日」と刻まれ ていたと伝わる。

参考文献>
「坂本龍馬を切った男 見廻組・桂早之助の履歴」
「戊辰之役東軍戦死者及殉難者人名」「桂早之助と京都見廻組」
「京都見廻組史録」 「実録 龍馬討殺」



大慶寺

木村蒹葭堂
肖像画は谷文晁筆とある(重要文化財)

木村蒹葭堂は元文元年(一七三六年)、現在の西区北堀江に誕生。 大坂の陣で勇名を馳せた後藤又兵衛の子孫と伝わる。 幼少より大岡春卜、柳沢淇園、片山北海池大雅、売茶翁、小野蘭山らに師事し、漢詩、 書画、本草学、物産学、儒学、 茶事などに精通。
優れた才能を発揮し、大坂を代表する博学者となった。
家業で酒造り(坪井屋)を営む傍ら、本草学者、文人、出版家でもあり、更に古今の珍しい書籍や地図、貝、石、茶道具などのコレクターとしても名をとどろかせた。
博物館のようであった居宅には、知識人が絶えず訪れ、その様子は約二四年間に渡り綴られた「蒹葭堂日記」に記されている。青木木米、伊藤若冲、上田秋成、太田南畝、司馬江漢 大典顕常、 頼山陽などもその一角である。 来訪者の記録は、彼が一大交流サロンの主であった証であるとともに、現代でも様々な研究に欠かせない資料となった。

享和二年(一八〇二年)正月二五日(太陽暦二月二七日)没。享年六七才。 当山に土葬。
戒名は、蒹葭堂巽磨孔恭世粛居士。墓碑は伊勢長島藩第五代藩主増山雪斎の撰。
生涯を通し、極めて広い分野で博識を有するだけでなく、いつも和顔愛語で温厚な 人柄も人を惹きつけたと思われる。当時には珍しい笑顔の肖像画がそれを物語り、多大なる業績より、現在「なにわの知の巨人」と称される。(山門左側)
【大阪市指定文化財 史跡】


振り返ってみれば、結構な勾配の坂ですね
この坂は「心眼時坂」

如意山甘露院 どんどろ大師 善福寺
あの有名な歌舞伎の一場面

お弓 おつる
歌舞伎(傾城阿波の鳴門)どんどろ大師前の場

とと様の名は 阿波十郎兵衛
エ、して かか様の名は アイ お弓と申します


        高低差がよくわかりますね

真田丸の古地図にはこの付近は「カラホリ」と記されているようです
おそらく、その「カラホリ」が「空堀町」の名となったのでしょうかね?


今回歩いた場所です(小橋寺町筋、下から上に、掲載順不動)

追記:文中文言は、案内板記述を引用しました






2023年8月13日

大阪市顕彰史跡第204号、真田丸出城跡です

真田丸界隈を歩きましょう

三光神社からです
ここが社頭みたいです


真田山歩道橋

明星高校のフェンスです

真田丸顕彰碑
慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原合戦で西軍に与し敗軍 の将となった信州上田城主真田昌幸・幸村(信繁)親子は、 戦後高野山に流され、しばらくして麓の九度山(和歌山県 九度山町)に移った。父昌幸は慶長十六年六月四日に 九度山で亡くなるが、幸村は、大坂冬の陣が勃発するや 否や、慶長十九年十月、豊臣秀頼の招きに応じて大坂城 に入城した。
幸村はすぐに大坂城の弱点が南側にあるのを見抜き、 出丸を構築した。これが「真田丸」で、幸村は慶長十九年 十二月四日、ここ「真田丸」を舞台に前田利常・松平 忠直・井伊直孝・藤堂高虎ら徳川方の大軍を手玉に とった。
「真田丸」の場所については、元禄年間(一六八八年 ~一七〇四年)に作製された大坂三郷町絵図に「真田出丸 跡」として明示されており、それによると現在の大阪 明星学園の敷地が「真田丸」の跡地であることが明ら かである。今はグラウンドになっているため、かつての 面影は全く失われているが、真田幸村はこの場所で徳 川方相手に大勝利を得たのである。

平成二十八年一月 天王寺区役所
協力 大阪明星学園


心眼寺

大阪市顕彰史跡第204号
     真田丸出城跡(天王寺区餌差町)

慶長19 (1614) 年、大坂冬の陣に際し、豊臣方の真田信繁(幸村)が惣構の空堀南側に築いた曲輪で、三日月形をした形から偃月城とも呼ばれた。 冬の陣後の講和条件によって破却された。大阪市教育委員会

真田丸出城跡 (天王寺区餌差町)
豊臣秀吉が上町台地の北端部に築城した大坂城は難攻不落 の天下の名城として知られるが、 南方の天王寺方面からの防 備が不十分であった。 慶長19 (1614) 年の大坂冬の陣にあた り、豊臣方から招かれて九度山から大坂城に入城した真田信 繁(幸村)は、この弱点に気付き、 現在の空堀商店街からJR 玉造駅方向に造られていた惣構の空堀の外側にあった 「笹山」 という小丘陵に出城を構え、 徳川勢の攻撃に備えた。
出城は東西200mほどの規模で、 三日月形をした外形の内部 が東西2つの曲輪からなり、 惣構の堀を土橋でまたいで大坂 城内と結ばれていたという。 真田信繁は、わずか3千人余り
の将兵でこの出城を守り、 徳川方の前田利常 井伊直孝・松平忠直らの攻撃を見事に撃退し、 豊臣方にとって冬の陣最大の戦果をあげた。



從五位下
真田左衛門佐豊臣信繁之墓

慶長二十年 五月七日於
摂州大坂討死 四十九歲

真田信繁は、武田信玄配下の武将であった、父真田昌幸の次男、通称は源次郎、号は好白。
原の戦いでは父と共に西軍側に付くも、戦いに敗れ、紀州九度山に幽閉される。十四年間、蟄居生活を送り、慶長十九年(一六一四) 豊臣方に参加した。
大坂冬の陣では、難攻不落の大坂城唯一の弱点とも豊臣秀吉が危惧した、南惣構の外側に真田出丸を構築、そこで徳川方と壮絶な死闘を繰り広げた。
翌年の夏の陣で、信繁は茶臼山に本陣を置く。徳川本隊と戦い、徳川家康にも力尽き、越前共に安居神社付近で討ち取られたと伝えられる。
真田信繁は、一般に「幸村」として知られる。しかし、現存最後とされる慶長二十年三月十九日付の書翰にも「左衛門佐信繁」と署名があり、生前「幸村」と名乗ったことはなかったと考えられる。
徳川時代中期にあたる十八世紀のなかばごろには、「幸村」の呼称が 流布していた。本墓碑は、生前の確実な諱である「信繁」を採用した。
豊臣姓は秀吉が創始したもので、弟秀長や甥(のち養子)秀次ら親族のほか、毛利輝元や徳川秀忠(おそらく家康も)など有力大名も称した。
当寺は徳川時代より信繁の菩提を弔っている。信繁の四百回忌に際して、墓碑を建立する。
平成二十六年(二〇一四)十月吉日
真田山 心眼寺



大阪市顕彰史跡第204号・真田丸出城跡、真田丸顕彰碑をみてきました

この地で大坂冬の陣の激戦があったのですね






2023年8月11日

「真田丸」三光神社です

やっとやってきました
「真田丸」三光神社です

真田丸とは慶長十九年(1614)の大坂の陣(冬の陣)において、豊臣方の真田信繁(幸村)が豊臣期大坂城平野口の南に構築した曲輪(出丸)である。

有名な場所!
TV放送など、よくでてきます

社頭



三光神社由緒略記

創建は第十八代反正天皇の御宇にして以後神職として、武内宿弥の苗喬たる武川氏が八十六代に渉って奉仕された当社は古来より日本全国で唯一の中風病除の神として知られ崇敬者は全国に存在し六月一日から七日まで祈願大祭あり

又七福神」の一つ寿老神を祀り毎月七日は大阪七福神巡りが盛んなり此地はもと大坂城の出城の在りし処にして慶長・元和の大坂合戦の頃、真田幸村茲に陣し本城より此処に至るまで地下に暗道を設け、今尚其のこん跡本殿階下に止むるより世俗に真田山の三光と称するに至れり
境内をはじめ宰相山公園一帯は桜の名所にて春は宰相山公園愛護会による三光さくら祭りあり



拝殿

真田幸村公

真田の抜け穴
大坂冬の陣、真田幸村は、手薄な城南へ徳川方が一斉に進攻する事を察知して、わずか一ヶ月余りで偃月城(真田丸)と呼ばれる砦を設け、大坂城から砦まで通じる地下の暗道(抜け穴)を作ったと言い伝えられている。この抜け穴跡が三光宮鎮座の階下に今も残されている。


手水鉢

        文政七(1824)

この鳥居、右柱には、元文元年(1736)とある
長い間、大坂市で仕事していましたが、やっと、訪れたということです
仕事で走り回っていたころは、興味あれどそんな余裕なんかありませんでした


この一角をあるきましょう
この界隈を熟知、そして歴史に大変詳しい知人から、見所を教えてもらいました
そう、真田山陸軍墓地です
行ってみましょう
 
真田丸付近は、上町台地に位置する丘?小山?なんで、歩くのは暑いけど頑張ろうね!


追記:参拝日は7月15日です












2023年7月1日

兵庫県小野市大島町422 住吉神社石灯籠

中川利兵衛の彫刻がある、小野市垂井町 住吉神社(右下赤枠)をGoogleMapで探していると、住吉神社の石灯籠と、史跡マークがありました
これは遙拝所か?
行ってみよう・・・

GoogleMap

住吉神社から直線で860mほど先にある住吉神社、石灯籠
なぜ、ここに立つのかは、資料は無い
社務所で聞けば、よかったかなぁ?



        住吉大明神とあります

       嘉永二(1849)

        撮影方向を変えて・・・

社寺を訪ねれば、石灯籠、石造物の年号、刻銘を探すのは、楽しみの一つですね
江戸時代がほとんどだが、経年劣化もせず、きれいな石灯籠をみると、何枚もパチリしてしまう自分がいます













2023年3月9日

兵庫県指定文化財・・・柏原藩主織田家旧邸長屋門

兵庫県指定文化財、柏原藩主織田家旧邸長屋門です
指定年月日:昭和37年7月16日
所有者・管理者:柏原町

柏原藩初代藩主織田信休が、 公邸の表御門として正徳4年(1714) に築いたもので、 内
部は向かって左側が畳敷きの番所、門扉を挾んで右側が板張りの馬見所と砲庫の三室に仕
切られている。
桁行13間半、 梁間2間を測り、 棧瓦葺きの入母屋造と総体的に簡素な構造ではあるが、
数少ない大名邸宅遺構の一つとして貴重である。

平成4年11月
兵庫県教育委員会



南側から

やや正面から

北側から
・左側が畳敷きの番所、門扉を挾んで右側が板張りの馬見所と砲庫の三室

        門扉

門から、表玄関を見上げる

表玄関よりみる


桁行十三間半、梁間二間、南に八畳三間、その北に脇戸付門、さらに北に八畳一間と土間を有する

江戸時代にタイムスリップにしたような雰囲気です