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2018年11月12日

山口県萩市への旅・・・No3、東光寺・・山口県萩市椿東1647

秋、行楽の時季、行先は山口県萩市、島根県津和野への2泊3日の旅・・・
山口県萩市椿東1647、東光寺を訪ねます
世界遺産、松下村塾を拝見して、その側の小道を歩いて、東光寺へ向かいます
桜並木ですね・・・

松陰神社から歩いて、約15分? 1.2kmです

東光寺、到着です 時刻は、16時・・・影が長くなってきましたね!
さぁ、拝見します・・・受付で、午後5時閉門と云われました
・・・時間がくれば、総門は閉ざされますが、別の出口がありますよ・・と!



・・・国指定重要文化財 東光寺総門・・・

東光寺・・「沿革」
萩市大字椿棄字稚原にあり山号を護国山といい、元禄四年(1691)萩藩三代藩主毛利吉就が建立しました。吉就は若<して深く黄檗宗に帰依して、京都府宇治市、本山黄檗宗万福寺に範を求めて広壮な堂宇を建立し、萩出身の高僧慧極道明禅師を開山に迎えました。
吉就の没後ここに墓所を営み、毛利氏菩提寺となりました。
黄檗宗三叢林の随一と称えられ、文化年間の最盛時には全山塔40棟を数えたといいます


護国山東光寺は、元禄四年(1691)三代藩主毛利吉就が萩出身者の名僧慧極として創建した全国有数の黄檗宗の寺院である。
総門の創建は、元禄二年(1693)の慧極筆「護国山」の扁額が掲げているので、そのころ完工されたものと思われる。
建物は、三間二戸の八脚門、桁行8.7m、梁間3.12m、一重切妻造造、中央高屋根左右低屋根段違い本瓦葺である棟の両端に摩伽羅を飾り、黄檗宗特有の形式を示す遺構である



国指定重要文化財 東光寺三門


東光寺三門は、東光寺が創建されて121年後の文化九年(1812)十代藩主毛利斉熙が寄進したものである
規模は桁桁行11.4m、梁間6.5mの二階二重門で左右に上層部へ上がるための山廊がある。屋根は入母屋造本瓦葺、中央に露盤付き宝珠を置き、二階には毘盧遮那仏・十八羅漢などが安置されている。全体の構造の形式は禅宗様である。規模も大きく地方寺院の三門として見応えがある







・・・国指定重要文化財 東光寺鐘楼・・・


鐘楼の建築年代は元禄七年(1694)に四代藩主毛利吉広によって梵鐘が寄進されているので、その時に同時に建立されたと思われる。
建築面積は52.12㎡の黄檗宗特有の一重裳階付入母屋造り本瓦葺きで、身舎組物は大雄宝殿と同じ手法をとっている。
上層には梵鐘がつってあり、鐘名は初代住職慧極の撰で、萩藩の名工御細工人、鋳物師郡司喜兵衛・信安父子が鋳造したものである


・・・国指定重要文化財 東光寺大雄宝殿・・・


大雄宝殿は、元禄十一年(1698)に四代藩主毛利吉広によって建立されたものである。建物面積289.61㎡の一重裳階付きの仏殿形式で、正面一間通りは吹き放ちになっている。
屋根は入母屋造り本瓦葺きで、棟中央に宝珠と両端に鯱を置いている。
堂内の土間は漆喰叩仕上げで建物中央部に格天井を張るなど黄檗宗建築の姿をとっているが、細部をみると一般的な唐様手法がみられる



東光寺大雄宝殿の鬼瓦はNHK大河ドラマ「太閤記」放映時タイトルバックとして登場した。
鬼瓦は棟を整える目的と魔除けとしての意味をもつといわれていますが、この大雄宝殿の屋根には二十四個もの鬼瓦が各棟に据えられています。昭和41年の大修理の際に鬼瓦の大部分が修理修復されました。
大雄宝殿の南東隅棟、二の鬼の位置に据えられたこの鬼瓦は、現存する創建当時そのままの鬼瓦の中の一つで、元禄時代の文化・技術を知る上で貴重なものといえます

・・・写真下、右の鬼瓦ですね




・・・大方文書院・・・寛政四年(1792)建立



国指定史跡 萩藩主毛利家墓所「東光寺墓所」

東光寺墓所は、三代藩主毛利吉就から十一代までの奇数代の五藩主と夫人および一族、関係者の墓40基などがあり、総面積5179.55㎡である。墓の周囲には玉垣16ヶ所、神道碑6基、鳥居5基、石燈籠500数基、参道の石畳などの石造物が墓所、入口の小門内にある。また門外には放生池と、それに架かる石橋、維新殉難者の墓などがある。
小門内の藩主夫妻・一族その関係者の墓は、唐破風の笠石を付けた角柱形で、特に藩主夫妻のものには家紋が陽刻してある。
天樹院墓所(萩藩祖輝元の墓)、大照院墓所(初代藩主英就と二代から十二代藩主の墓)と合わせたこれら三箇所の墓所は、藩政時代の大名家の葬制や墓制を知るうえで貴重である


静寂、そして幾何学美をもつ毛利氏廟所
・・・声がでません、墓所なのですが、感動ものですね・・・

中央が三代吉就、同室亀姫

墓所配置図





四大夫十一烈士の墓

「元治元年(1864)に勃発した禁門の変と下関戦争の敗北により、萩藩は幕府へひたすら謝罪降伏する藩論へ転換し、尊皇攘夷派が一掃さて恭順派が藩の政権を握った。
第一次長州出兵が迫る中、益田右衛門介・国司信濃・福原越後の三家老が禁門の変の責任を問われ、自刃を命ぜられた。
さらに尊皇攘夷派の十一人が野山獄に投獄され、竹内正兵衛、中村九郎、佐久間左兵衛、宍戸左馬介、前田孫右衛門、毛利澄人、山田亦介、渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、大和国之助、松島剛蔵が斬首された。
明治維新後、旧藩士杉孫七郎や杉民治(吉田松陰の兄)らは、殉死した四大夫十一烈士の墓が各所に散在し、香花も絶えて十分な世話もできない状態であるころを見聞し、明治二十二年(1889)彼らの招魂墓を建立した。
のち明治三十一年(1898)には、禁門の変の責任を感じて自刃した周布政之助の招魂墓も、同所に建立された



時刻も17時チョイ前・・・

閉門を待ってくれました・・・
・・・ギギィ・・っと、門が閉ざされました

黄檗宗三叢林の随一の東光寺、静寂、そして幾何学美をもつ毛利氏墓所・・・
これほど、凄い寺院とは知らず、遠路、萩まで来た甲斐がありました・・・



今日の宿からの夕焼けです・・・正面の山は、指月山、そう、萩城跡です
・・・この夕焼けが見たかったのです・・・

少々時間が経過・・・漁り火です、イカ釣りか?(手ぶれしていますが・・・)

長い一日が終わります・・・今宵の酒は大変美味しゅうございました
明日は、萩城下町を散策します

・・・続きます・・・






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