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2018年11月18日

山口県萩市への旅・・No13、旧久保田家住宅・・ 山口県萩市呉服町1-31

秋、行楽の時季、行先は山口県萩市、島根県津和野への2泊3日の旅しています・・・
・・・国指定史跡・・萩城城下町を巡ります・・


萩城城下町・・・
萩城三ノ丸中総門の東外を、東西に通ずる中心路である呉服町の通り(通称御成道)と、その南を東西に走る慶安橋筋の2本の東西路に直交する菊屋横丁・伊勢屋横丁・江戸屋横丁に囲まれた区域。萩藩御用達の旧家、幕末に活躍した侍屋敷等の面影が残る。1967年に国の史跡に指定された・・・

・・・御成道・・・
左が久保田家住宅、右が菊屋家住宅

絵図・・・中央を行列が進んでいる・・・御成道、メインストリート・・

宿にていただいた、鸞興巡幸図・・・説明文が記されている
・・・江戸時代終わり頃の安政五年(1858)萩藩の絵師、大庭学遷筆・・・


まずは、旧久保田家住宅から、拝見します




萩市指定有形文化財 旧久保田家住宅

呉服商・酒造業を営んでいた久保田家は、江戸時代の後期に建てられ、主屋、門、塀、離れが旧御成道に面し、菊屋家住宅と対峙するかのように建ち並んでいます。主屋は、屋根裏に物置や使用人の寝間を設けた「つし二階」を持ち、建ちが高く、時代的特色をよく表しています。幕末から明治前期にかけての建物として、意匠・構造・技術に優れ、
酒造業で繁栄した往時の状況も良く伝えており、史跡萩城城下町を構成する極めて重要な建物です


大黒柱を中心に、太い差鴨居を縦横に組んで軸部を固めた堅固な造りとなっています。特に、復原された「通り庭」の、桁行三間(約5.5m)の梁組は豪壮なもので、吹き抜けの力強い架構美が再現されています。


内部より通り側を見る・・・この場所は「店先」である

主屋、座敷・・・
床柱、床框の材木は、銘木(名前聞いたのですが、忘れました)
そして、欄間の透し彫り・・・お見事です

離れ座敷・・・明治時代に増築されたようです
ここも、床柱、床框の材木は、銘木です  欄間は組格子細工・・・

この床の間・・・床柱は北山杉絞り丸太と・・・

この部屋の床柱も・・・名前忘れました

これは、桜の敷居・・・非常に珍しいと

縁側・・・ケヤキの一枚板

ふと、見上げれば、表側から見えない二階・・・
・・・説明によれば、禁門の変以後、京都の公家が落ち延び、ここに匿ったと・・・
ここに上がる階段も、忍者屋敷さながらの隠し戸の奥にありました・・・

土蔵・・・
写真中央床・・床下に石造の物入れが作られ、算盤を敷いて石造の蓋を滑らす納まりに工夫が施されています

その展示品・・・燭台
・・・イイスね!・・・

玄関脇の石灯籠・・・
柱の部分は、石ではなく、珪化木、所謂、木の化石木ですって・・


旧久保田家住宅は、旧御成道(参勤交代の際、大名行列が往来したメインストリート)沿いに位置し、幕末から明治時代前期にかけて建築された町家です。
久保田家は、初代庄七が江戸時代後期に近江から萩に移って呉服商を開き、2代目の庄次郎から酒造業に転じたと伝えられています。以来明治30年代まで造り酒屋「あらたま酒店」を営業していました。
明治時代には、来萩した名士の宿所としてもしばしば利用されています。
意匠・構造・技術に優れるともに、酒造業で繁栄した往時の状況も良く伝え、「国指定史跡萩城城下町」を構成する極めて重要な建物です。

主屋:平面積338.58㎡ 桁行20.7m、梁間19.8m
   一部2階 切妻造 桟瓦茸
離れ:平面積144.24㎡ 桁行12.8m、梁間9.8m
     入母屋造 桟瓦葦 北面便所付属
土蔵:平面積34.57㎡ 桁行8.7m、梁間4.0m

小一時間説明を聞かせていただきました・・・非常に熱のこもった説明でした
豪商の住宅は、ふと、したところに、銘木、銘材を使用していますね
そして、ほんの最近まで、実際に住宅として使われていたようです

いや~、よき、お住まいを拝見しました・・・

しかし、最近のアジア系の観光客のマナーの悪さには困ったご様子でした
・・・床の間に座って写真を撮る、大きな鞄に展示していた花瓶など入れ持ち帰る
釘隠しまで取り外してしまうなどの被害の合われておられるようで・・・
・・・いやいや、困ったもんですね・・・



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