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2018年11月21日

山口県萩市への旅・・No18、桂太郎旧宅・・山口県萩市川島73-2

秋、行楽の時季、行先は山口県萩市、島根県津和野への2泊3日の旅しています・・・
・・・水と暮らした城下町・・「萩・藍場川」を訪ねます


萩市指定歴史的景観保存地区、藍場川


この川は、川島から市内を流れて平安古に通じている。
当初は田畑へ水を引く小溝であったが、延享元年(1744)に開削しえ阿武川と新堀川を結んだものである。農業用水路のほか、川舟を通して川上から薪炭などを運ぶのに用いられた。
今も川舟の向きを変えるための舟廻しや、舟が通りやすいように、より高く持ち上げられた石橋がいくつも見られ、昔日の面影を留めている。
川沿いには板囲いの洗い場を造ったり川水を庭の池に引き入れた古い家も多い。
昔は、大溝と言ったが、幕末江向の川端に藍場ができたため、いつのまにか、藍場川と呼ばれるようになった
・・・藍場(藍玉座)・・藍色の染料となる藍玉を製造した所・・・



桂太郎旧宅を訪ねます

市指定史跡 桂太郎旧宅

この旧宅は、桂太郎が少年時代を過ごした地に、明治42年(1909年)に建設されたものです。主屋は派手さを抑えており、規模も比較的小さなものになっていて、藍場川沿いの生活を穏やかに楽しむために造られています。また、藍場川の水を引き込んだ流水式池泉庭園は、建物にやや遅れて造作されたもので、懸石と呼ばれる萩地方独特の石組等に特徴があります。



上見取図からみると、下写真は「次の間」となっています


桂太郎略歴

桂太郎は弘化四年(1847)11月28日、萩藩士桂輿一右衛門の長男として萩城下平安古に生まれ、3歳のときに同じ城下の川島に移り住みました。
幕末期の四境戟争では石州口の戦いに参加し、凱旋後は明倫館に入学しています。
戊辰戟争では奥州潜鎮撫総督府府に従って転戦しました。
明治3年(1871)にドイツへ留学、普仏戦争(フランスとドイツの戦争)におけるドイツの圧倒的な勝利を見て、帰国後は日本の陸軍をそれまでのフランス式からドイツ式に改め、軍隊の近代化に貢献しました。陸軍大将、陸軍大臣を経て明治34年(1901)に第一次桂内閣を組織し、翌35年(1902)には日英同盟の締結に成功、その後明治41年(1908)、大正元年(1912)と計3度内閣を組織しました。
たえず惜しみなく笑顔を作りながら相手の肩を叩いて好感度を演出することから「ニコボン首相」のニックネームがつけられましたが、政治家として調整能力にも長けており、明治後期から大正初期にかけての国事多難な時期に手腕をふるい、日本が世界有数の近代国家となる上で大きく貢献しました。
大正2年(1913)10月10日数え年67歳で病死しました。
墓所は、遺言により東京都世田谷区の松陰神社の吉田松陰墓所近くにあります。
桂太郎は松下村塾の門下生ではなかったが、吉田松陰を尊敬しており、死去にあたっては、墓所を松陰墓所近くにおくことを遺言したのである。・・・案内パンフより引用


流水式池泉庭園

ちと、角度を変えて・・・懸石と呼ばれる萩地方独特の石組を!


拓殖大学と桂太郎銅像・・・
・・桂太郎は、軍隊の育成だけでなく人材の養成にも力を注いでおり、明治33年(1900)に現在の拓殖大学にあたる台湾協会学校を創設しました。
銅像は、拓殖大学が創立100周年を記念して平成12年(2000)に桂太郎ゆかりの地である萩市に寄贈されたものです


まるまる太った「鯉さん達」です

桂太郎・・・3度内閣を起こした総理大臣、そして拓殖大学創設・・恥ずかしながら、全く知りませんでした



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