秋、行楽の時季、行先は山口県萩市、島根県津和野への2泊3日の旅しています・・・
世界遺産 明治日本の産業革命遺産・・・
・・・萩の産業化遺産群・・「萩反射炉」を訪ねます
小高い山を登ると・・・反射炉です
史蹟 萩反射炉
反射炉は西洋で開発された金属溶解炉です。欧米列強に対する危機感が高揚した江戸時代後期、蘭書によって日本に反射炉の知識がもたらされ、幕府や一部の藩がその導入に取り組みました。旧来の大砲に代わる鉄製の洋式大砲を必要としたためです。
1851年(嘉永四)、佐賀藩が日本で最初に反射炉を完成させ、薩摩藩、伊豆韮山代官所(幕府天領)、水戸藩、萩藩が続きました。また民間でも、安心院(大分県)、六尾(鳥取県)、大多羅などで反射炉が導入されました。
萩藩では、ペリー来航後の安政年間に反射炉の導入が試みられました。萩藩は1855年(安政二)、西洋学問所を開設し、翌年、造船所を設立して洋式軍艦の丙辰丸を建造するなど、軍備の拡充に務め、同様に軍事力強化の一環として、反射炉の導入にも取り組みました。従来、萩の反射炉は1858年(安政五)に築造されたと考えられてきましたが、現在、記録で確認できるのは、1856年(安政三)の一時期に「雛形」が操業されたということのみです。したがって近年では、萩藩には実用炉の存在は認められず、この反射炉は試作的に造られたという見方が有力視されています。
現在残っている遺構は、反射炉の煙突にあたる部分です。高さ10.5メートルの安山岩積み(上方一部煉瓦積み)の煙突は、基底部が前面5.45m、側面3.8mあり、上に向かって幅を狭める長方形で、下方に2つのアーチ型の煙道孔が開いています。上方で二股に分かれているようにも見えますが、実際はそれぞれ独立した2本の煙突となっています。
萩藩は、最終的には技術面、費用面の限界から本式の反射炉の建設を断念しました。しかし、今に残る萩反射炉は、試行錯誤をくり返しながら、自力で西洋技術を取り入れようとした、産業化初期の投階の取組みの様子を物語っています。
反射炉の遺構は萩のほか韮山(静岡県)と旧集成館(鹿児島県)にあるだけで大変貴重な遺跡です。
パンフより引用 |
世界遺産 明治日本の産業革命遺産・・・萩の産業化遺産群「萩反射炉」を拝見しました
欧米列強に対する危機感が高揚した江戸時代後期・・・激動の時代でしたね
山口県萩市を巡る旅も終わりました・・・私にとって、お気に入りの町になりました
また、機会をみて、訪れたいと思います
さぁ、島根県津和野町へ向かいます
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