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2018年11月23日

山口県萩市への旅・・No20、萩反射炉・・山口県萩市大字椿東4897-7ほか

秋、行楽の時季、行先は山口県萩市、島根県津和野への2泊3日の旅しています・・・

世界遺産 明治日本の産業革命遺産・・・
・・・萩の産業化遺産群・・「萩反射炉」を訪ねます

小高い山を登ると・・・反射炉です

史蹟 萩反射炉

反射炉は西洋で開発された金属溶解炉です。欧米列強に対する危機感が高揚した江戸時代後期、蘭書によって日本に反射炉の知識がもたらされ、幕府や一部の藩がその導入に取り組みました。旧来の大砲に代わる鉄製の洋式大砲を必要としたためです。
1851年(嘉永四)、佐賀藩が日本で最初に反射炉を完成させ、薩摩藩、伊豆韮山代官所(幕府天領)、水戸藩、萩藩が続きました。また民間でも、安心院(大分県)、六尾(鳥取県)、大多羅などで反射炉が導入されました。
萩藩では、ペリー来航後の安政年間に反射炉の導入が試みられました。萩藩は1855年(安政二)、西洋学問所を開設し、翌年、造船所を設立して洋式軍艦の丙辰丸を建造するなど、軍備の拡充に務め、同様に軍事力強化の一環として、反射炉の導入にも取り組みました。従来、萩の反射炉は1858年(安政五)に築造されたと考えられてきましたが、現在、記録で確認できるのは、1856年(安政三)の一時期に「雛形」が操業されたということのみです。したがって近年では、萩藩には実用炉の存在は認められず、この反射炉は試作的に造られたという見方が有力視されています。
 現在残っている遺構は、反射炉の煙突にあたる部分です。高さ10.5メートルの安山岩積み(上方一部煉瓦積み)の煙突は、基底部が前面5.45m、側面3.8mあり、上に向かって幅を狭める長方形で、下方に2つのアーチ型の煙道孔が開いています。上方で二股に分かれているようにも見えますが、実際はそれぞれ独立した2本の煙突となっています。


萩藩は、最終的には技術面、費用面の限界から本式の反射炉の建設を断念しました。しかし、今に残る萩反射炉は、試行錯誤をくり返しながら、自力で西洋技術を取り入れようとした、産業化初期の投階の取組みの様子を物語っています。
反射炉の遺構は萩のほか韮山(静岡県)と旧集成館(鹿児島県)にあるだけで大変貴重な遺跡です。 


パンフより引用
炉を1200度以上の高温に保つ必要があるため、高い煙突を利用して空気を大量に取りこみました。こうして、鉄(Fe)に含まれた炭素と空気中の酸素を結合させ、酸化炭素を排出すると、必然的に鉄の炭素含有量が減っていきます。つまり、反射炉の利点は、衝撃にもろい鉄を柔軟でねばりのある鉄へと変えるところにあります。単に「金属の溶解炉」というより、「金属の脱炭装置」です




世界遺産 明治日本の産業革命遺産・・・萩の産業化遺産群「萩反射炉」を拝見しました
欧米列強に対する危機感が高揚した江戸時代後期・・・激動の時代でしたね

山口県萩市を巡る旅も終わりました・・・私にとって、お気に入りの町になりました
また、機会をみて、訪れたいと思います

さぁ、島根県津和野町へ向かいます










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