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2018年11月20日

山口県萩市への旅・・No16、明倫館・・山口県萩市江向602

秋、行楽の時季、行先は山口県萩市、島根県津和野への2泊3日の旅
堀内地区重要伝統的建造物群保存地区、萩城城下町を巡ってきました

萩市、旧萩藩校、明倫館を訪ねます

古地図・・・中央、明倫館 左(赤枠)旧明倫館跡

国道191号線を挟んでみる校舎・・・


正門・・・

南門【市指定有形文化財】

藩校明倫館の正門として建てられ、「明倫館」と善かれた扁額が掲げられています。
木造切妻造、本瓦葺、桁行3.94m、梁間3.15mの一間一戸の四脚門で、左右に袖があり、潜門がついている


国指定史跡・・・旧萩藩校明倫館(明倫館碑)

明倫館は、五代藩主毛利吉元の代の享保四年(1719)に、萩城三の丸追廻し筋(堀内)に開校した。敷地は940坪であった。
それから130年後、建物総坪数 11,328坪、練兵場 3,020坪の広大な規模の新明倫館が完成して移ったものである

明倫館碑
明倫館碑 嘉永二年(1849)十三代毛利敬親が新明倫館の開校を記念して、10代学頭山県太華に「重建明倫館記」を撰ばせて建てたものである


校舎へ・・・


どこか、懐かしい校舎のにおいがします
・・・我が小学校もこのような雰囲気でしたね・・・

新明倫館講堂に掲示された扁額「講堂」

新明倫館の講堂に掲げられたいたとされる扁額。額の裏側には「嘉永元戊辰十一月」「山縣慎書」と刻まれていることから、明倫館教師でありながら、能書家としても名の知られた山縣慎(墨遷)の手によって、新明倫館完成のおよそ2ヶ月前に書かれたことが分かる。
この扁額は、縦幅126cm、横幅280cmと大きく、新明倫館の規模を実感できる資料の好例といえるだろう


新明倫館模型
昭和10年、「萩史蹟産業大博覧会」に際し出展された新明倫館の模型



校舎を出て・・・有備館【国指定史跡内】へ・・・
・・・この門には説明はないが、おそらく、有備館への門かも?・・・


有備館

旧明倫館の剣道場と槍術場を拡張したものと云われ、木造一重入母屋造、桟瓦葺、平屋建て桁行37.8m、梁間10.8mの南北に長い建物である
槍・剣道場として、藩士の練武のほか、他国からの修業者との試合場でもありました。
坂本龍馬もここで試合をしたといわれています

右の説明板・・・坂本龍馬と萩
・・・文久二年(1862)1月14日、坂本龍馬は土佐勤王党首武市瑞山の手紙を久坂玄瑞に届けるため萩を訪れた。龍馬は萩に9日間滞在する。その年の3月24日、龍馬は突然土佐を脱藩。そして薩長同盟、大政奉還など歴史に残る偉業を成し遂げてゆく。
一体、萩で何があったというのか。
幕末欧米列強はアジア各地を植民地とし、日本の独立もあやぶまれていた。久坂玄瑞は長州藩を訪れた龍馬に、師・吉田松陰の草莽崛起論を説く。日本を変革するのは草の根に隠れている自分たちで、そのためなら藩は滅んでも構わぬという凄まじい決意であった。そして龍馬はこの直後、土佐を脱藩してしまった。萩には今も、人々の魂を奪い立たせる何かがある


・・・桁行37.8m、梁間10.8mの南北に長い建物である・・・

入口

右側の入口から入る土間・・・

剣道場と槍術場

明倫館から国道191号線を渡れば、「萩市役所」
・・・「ユネスコ世界遺産」「日本ジオパーク認定 萩ジオパーク」「萩・明治維新150年祭」「山口ゆめ花博」「萩・岩見空港 東京(羽田)1日2往復」・・の案内が並んでいます


宿にていただいた、名勝萩と長門峡之図・・・
・・・昭和七年(1932)に萩市の市制施行を記念して鳥瞰図の第一人者で、「大正の広重」といわれた、吉田初三郎に依頼して描かれた萩市とその周辺の鳥瞰図・・・

左右の遠景には、北海道、富士山、東京までも描きこみ、日本海上空から萩を中心に見渡した大パノラマ図である


萩・・・いいところです
春から秋までは、萩に、冬は南へ降りて、山口市に、住んでみたいですね・・・
そんな気にさせる、萩です


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