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2026年10月3日

国指定史跡「有岡城跡」 再び、訪れました

何度目かなぁ? 有岡城跡

今年、2026年大河ドラマ「豊臣兄弟」が放送され、前半に登場した有岡城、荒木村重
その有岡城が位置する伊丹市は、スカイパークでの飛行機撮影で、よく訪れる地でもあります
そして、伊丹免許更新場がありますので、数年に一度は来ますね
今回は、家内の更新手続きできました
そして、更新の間、私は有岡城跡、散策です

近々では2026年7月
伊丹スカイパークで、伊丹・有岡城 映画「黒牢城」パネル展を拝見しました

「横断幕」がありますね
以前、あったかなぁ?
横断幕は、伊丹市に本社を構えるTOYO TIRE株式会社からの寄贈により、有岡城跡史跡公園に設置したと‥伊丹市

陸橋を挟んで、東側が「有岡城主郭部」です



まずは、石垣、建物礎石が残る西側へ



国指定史跡 有岡城跡   
 昭和五十四年十二月二十八日 指定


伊丹氏がこの場所に城を築いたのは、鎌倉時代末期頃のことである。はじめは居館として建てられたが、戦国時代を経て次第に堅固な構えになっていった。
伊丹氏の城は、天正二年(一五七四)織田信長方の武将荒木村重の攻撃によって落城した。その後村重は信長の命により有岡城と改名し、壮大な城を築いた。
有岡城は伊丹段丘の高低差を利用し、南北一・六キロメートル・東西八〇〇メートルに及ぶ惣構えが築かれ、要所には岸の砦・上臈塚砦・鵯塚砦が配置された。
謀反を起した村重は、天正六年、信長勢の攻撃を受け、十ヵ月間の攻防の末、強固な城も遂に落城した。
天正八年、池田之助が城主となるが、同十一年美濃の国に転封を命ぜられ、廃城となった。
明治二十六年、鉄道の開通によって、城跡の東側が削り取られたが、土塁や堀など今もよくその姿をとどめている。
昭和五十年より発掘調査が実施され、土塁・石垣・堀・建物・池等の遺構を検出し、中世城郭から近世城郭への移行期の様相が明らかになった。
平成四年三月 伊丹市教育委員会



有岡城主 荒木村重
荒木村重は、幼名は十二郎、 後に弥介と改めます。 
父義村の代から池田城主 池田氏に仕えたとされています。
織田信長の上洛後、 池田勝正は、伊丹城主 伊丹親興・芥川城主 和田惟政とともに「摂津三守護」となり、村重は勝正の家臣として、池田家中において徐々に力をつけ、池田氏の内 紛に乗じてついに頭角を現します。 元亀元年(1570) 池田知正らとともに勝正を追放し、翌年には勝正と結ぶ惟政を郡山 (茨木市)の合戦で敗死させています。
元亀4年(1573) 逢坂(大津市) にて細川藤孝とともに信長に対面し、その後は信長を主君と仰いで、将軍足利義昭を槇島城 (宇治市) に攻撃する際にも従っています。
この時の忠節を賞賛されて、 信長より摂津国を一職支配する「摂津国「主」に任じられます。
天正2年(1574) 11月15日 伊丹氏を追い落とし、伊丹城に入城します。
以後ここを居城に定め、 有岡城と改名しました。信濃守村重は、天正3年、 摂津守になります。

有岡城主となった村重は、以後、信長の配下として天正3年10月 播磨へ出兵し、翌年4月は光佐 (顕如) が立て籠も る石山本願寺 (大阪市) 包囲に加わります。 
天正5年には、羽柴秀吉とともに紀伊の雑賀 (和歌山市) を攻めています。
天正6年、足利義昭や毛利輝元に通じて信長に反した別所長治を三木城に攻めます。
しかし、同年10月、 突如、村重も信長から離れ、 石山本 願寺とも盟約を結びます。 
その情報は安土城へ届き、 信長は、村重を思い留まらせるために明智光秀ほか近臣を有岡城へ遣 わしますが、村重の決意は変わりませんでした。
村重とともに毛利方についた御着城主小寺政職でしたが、やはり信長方へ戻るため、 村重を説得しようと、家臣の黒田官兵衛を有岡城へ遣わします。 
村重は、このままでは信長方となる官兵衛を城内に留め置きます。
11月、 信長は安土城を発ち、 古屋野 (昆陽野) の陣に入りま す。12月には主力部隊を塚口に置き、有岡城を総攻撃します が落ちません。そのため、 有岡城を取り囲むように付城を築 くよう指示します。
天正7年9月、 村重は数名の家臣とともに、 尼崎城主である嫡男 村次のもとに移り、 本願寺・雑賀・毛利方へ援軍派遣を要請しますが、 村重が望むように援軍は来ません。
有岡城の町が信長方に取られ、10月、上﨟塚砦より信長軍が侵入し、侍町に火が放たれ、すべてが焼かれ防備がなくな ると、 11月、 城は落ちてしまいました。 村重父子は尼崎城が
落ちると花熊城 (神戸市) へ移り、その後西走します。
村重は、尾道にて入道し、「道薫」と名のります。信長の死後尾道より堺に移り住みました。
天正14年(1586) 堺にて没したとされています。
平成26年2月 伊丹市教育委員会



全体

礎石建物跡
茂みの上は土塁と思われます

井戸跡

有岡城石垣

転用石か?

ここにも井戸跡

主郭に移動します


国指定史跡 「有岡城跡(主郭部)
伊丹は摂津国のほぼ中心にあり、 山陽道や有馬道が近く、 古代から交通の要衝です。 室町時代、 伊丹氏が居を構えていた地です。
天正2年(1574) 織田信長の配下荒木村重が伊丹城を攻撃。 
11月、 伊丹氏を追放し、入城後 「有岡城」と改名します。 村重は伊丹台地の地の利を活かし、台地東端に城 (主郭部)、 その西に城下町(侍町 町人町)をもつ惣構の城に整備します。 惣構の北・西・南端には外城 (砦) が配され、 惣構内には幾重にも堀が掘られていたことが近年の発掘調査からわかってきました。
有岡城主となった村重は摂津守として活躍しますが、天正6年秋、信長から離反します。 
信長軍との戦いで侍町は焼かれ、翌年11月落城。 天正8年、 信長の乳兄弟である池田恒興 長男元助が入城、 伊丹城と戻します。
しかし、本能寺の変を経て、 天正11年、 伊丹は豊臣領となり廃城となります。 大坂の陣後は、 徳川幕府領となり、江戸積酒造業を基幹産業として、 在郷町山陽道(西国街道池田·茨木
「伊丹郷町」として発展します。城跡は江戸時代の絵図に 「古城山」 等と記載されています。

明治時代、 鉄道 停車場 (駅) や道路建設に伴い、 城跡の大半が削平されます。 昭和50年(1975) 以降、 市が実施した発掘調査により、堀や土塁内の石組み、建物・庭など貴重な遺構が残されていることが判明。 史跡整備後、平成6年(1994) から有岡城跡公園として 活用されています。

村重は、池田家臣の頃より堺衆との茶会に参加しています。 元亀2年(1571) 2月、津田宗及に 招かれ、池田紀伊守正秀と参加した茶会が初見です。 村重は「荒木高麗」と呼ばれる茶碗をはじめとする名器を持つ茶人として有名ですが、小鼓を打ち、能や狂言も嗜むなど、多彩な文化人です。
元亀4年(1573) 3月、村重は細川藤孝と共に、京へ進軍する信長を逢坂 (現大津市) で迎えます。 そして、村重は信長から「摂津国一職」 を与えられます。 天正2年(1574)3月、村重は正倉院御物の香「蘭奢待」 を切り取る役目を信長の側近や重臣とともに務めています。 7月、 本願寺と戦い、 そして11月、伊丹城を落とし、 入城し、 「有岡城」と改名、 惣構の城に大改造を始めました。
翌年6月、薩摩 (現鹿児島県) から伊勢詣へ向かう道中、 有岡城近くを通った島津家久は、 侍まで 動員して城の改修工事をしている様子に驚いています。 惣構の城が完成したのはその2年後、天正 5年です。 同年11月に有岡城を訪れ、 「甚だ壮大にして見事なる城」 と書き残した、 宣教師ルイス・ フロイスはどのような城を見たのでしょう。 侍だけでなく、町人たちも住む町を持つ先進的な城、 それが有岡城でした。 村重は信長の安土城より早く城下町をもつ城を完成させていたのです。
天正6年10月、村重は本願寺顕如から、百姓は村重に服すべきとの確約を得たことから、百姓を味方に することができました。 百姓たちは六甲山地の各所に小屋を設けて立て籠もり、 有岡城や三木城へ補給線 を維持しました。 戦は侍だけのものではありませんでした。 村重は、 有岡城惣構内に居る町人、そして 一緒に戦っている百姓のことも気にかけながら、 尼崎城へ移り、 勝機を得ようとしたと考えられます。
天正7年(1579) 11月、 有岡城は落城し、信長によって多くの人が殺されました。 しかし、 信長軍に焼かれずに済んだ町人町を基盤とし、伊丹が復興を遂げ、大きく発展していくのは、村重によって守られた町人や百姓がいたからではないでしょうか。



官兵衛ゆかりの藤
天正6年(1578年)、 織田信長に反旗を翻 した荒木村重を説得に黒田官兵衛が有岡城 に赴きますが、 村重は諸事情を考慮し、やむ なく官兵衛を幽閉します。その間、 官兵衛が力 強く咲く 「藤の花」を見て、生きる勇気を得たという逸話は有名です。
この物語を後世に伝えるため、官兵衛ゆかりの姫路城の藤から育てた子孫樹を植樹しています


その藤棚から石垣を眺める

ここは、JR西日本 伊丹駅

堀

堀をぐるっと歩きます


ちょくちょく訪れる伊丹市
飛行場もある地に遺跡あり、城あり、酒蔵あり 盛り沢山な地です

よきところです




追記:記事中説明文言は案内板より引用いたしました










2025年5月8日

国史跡 (飛鳥時代) 高麗寺跡 です

12年ぶりに京都府木津川 恭仁宮跡を散策しました
そんなとき、地図を見ていたら、僅かな距離で、国史跡 (飛鳥時代)高麗寺跡があるではないですか、これは行かなければと‥ね

高麗寺跡 [国史跡 (飛鳥時代) 昭和15年指定]
高麗寺は、7世紀初頭 (飛鳥時代)に創建されたわが国最古の仏教寺院のひとつです。
この地がかつての相楽郡大狛郷に属することから、朝鮮三国のうちのひとつ高句麗からの渡来系氏族、狛氏とのかかわりが指摘されており、文献資料からは、天平年中 ( 奈良時代) に存在したことが 「日本霊異記」に記されています。
伽藍は木津川を見下ろす台地上に南面して立地し、西に金堂、東に塔をもつ法起寺式の伽藍配置となります。 塔、金堂、講堂は整美な瓦積基壇を外装としており、講堂の両翼から伸びた回廊は塔、金堂を囲んで中門に接続します。寺城は東西に約200m、南北に約190mの規模をもち、その周辺には、諸堂塔に葺かれた瓦を生産した高麗寺瓦窯や高井手瓦窯が存在し、北方には高麗寺造営氏族のものと考えられる大規模な居館跡上狛東遺跡 が発見されています。


史跡高麗寺跡

史跡高麗寺跡
名称:高麗寺跡(木津川市山城町上狛高麗)
指定年月日:昭和15年8月30日 平成22年2月22日 追加指定
指定面積:20,100.5㎡

高麗寺跡は、飛鳥時代(7世紀初頭)に創建された寺院跡です。 寺域は、東西約190m、 南北約180m (回廊で囲まれた伽藍中心部大きさは東西約 61.9m、南北約 65.6m)を有し、史跡指定面積は、寺域の約60% にあたります。
高麗寺の呼称は9世紀に書かれた仏教説話集 『日本霊異記』に見ることができ、周辺には「上狛」や「下狛」のように「狛」を伴う地名を遺しています。
4~7世紀に朝鮮半島北東部を支配した高句麗から渡来した氏族狛 (高麗) 氏と関係する
寺院とも考えられています。
伽藍配置は東に塔、西に金堂を配する法起寺式で、背後の講堂から両翼に延びた回廊は塔・金堂を囲み中門に至りますが、南門・中門・金堂が南北一直線に並ぶのが特徴です
高麗寺の伽藍の大規模な修理は奈良時代か ら平安時代前期におこなわれましたが、 鎌倉時代 には完全に姿を消したと考えられます。
史跡整備は、平成22年(2010) から開始され令 和3年(2021) 史跡公園として開園しました。

道路右側が南門跡・南辺築地塀跡

金堂跡
金堂は、寺院において、本尊を安置する最も重要な建物です。
基壇は、東西約16.0m (54尺) 南北約13.4m (45尺) の長方形で、周囲に幅約1.7m (5.5尺) の石敷 (犬走り) がめぐっています。 基壇の高さは、推定約1.2m (4尺)。 半分に割った平瓦を平積みする瓦積基壇で、地面から直接瓦を積み上げています。
基壇上の礎石は、完全に失われていましたが、礎石の抜き取り痕跡により、 建物規模は間口5 間、奥行4間と考えられます。 また、基壇上からは、昭和9~10年 (1934~1935) の道路改修工事で、屋根を装飾する金銅製金具などが出土しました。 この工事を契機に高麗寺跡の研究が進展し、 昭和15年(1940) の史跡指定につながりました。
この瓦積基壇は、発掘成果をもとに本来の位置で推定復元したものです。


瓦積基壇と石敷 (犬走り)

基壇上の礎石

講堂跡
講堂とは、僧侶が経典を講義したり勉強をしていたところです。
基壇は、東西 23.8m (80尺)、南北 19.6m (66尺)、高さは約 0.6mで、塔や金堂の基壇より約1m低くなっています。 石は位置で2ヶ所(AとB) 残りますが、他の礎石は失われていました。また、発掘調査では回廊が取り付くで瓦積基壇を確認しています
瓦積基壇は塔や金堂とは異なり、長さ0.3mの石を敷いた上に半分に割った平瓦を積み上げています。基壇の周囲には幅 0.8mの犬走りがめぐります。
建物規模は、失われた石の抜き取りから間口5間奥行き4間です。?間寸法は、間口が約3.9m(13尺) 間、 奥行は 中央2間が約3.7m(12.5尺) 南北間が約3.9m(13尺)と推定できます。
講堂基壇の整備では、2ヶ所の石を原位置で残しながらコンクリートブロック により、失われた位を明示しています。また、瓦積基壇の位置を明示するため模擬平瓦を基壇上??に設置しています。

回廊跡
回廊とは寺院の中心となる愛を取り囲み内外を隔てる建物です。
回廊の遺稿は講堂の南寄りに取り付く北回廊の一部を確認し基壇は幅約5.4m (18尺) 高さは約0.3m(1尺) で、 講堂に向けて徐々に上っていくことがわかりました。また、回廊の推定しています。一方、東回廊の内側では基壇?を縁取った石列が確認されました。
これとを縁南北中線を基準に、回廊で囲まれる東西の規模は約61.9m(208尺) と確定できました。 ただし、 南道路に あたるため未確認です。 さらに、金堂と南門が一直線に並ぶ ことから、その間に中門が位置すると考え、その両側面に接続する南回廊を推定しました。
回廊廊で囲まれた南北の規模は約55.8m (189尺)と考えられます。
回廊の整備では、北回廊と東西の回廊の基壇を?土で明示しました。
東・西の回廊は南に向かって傾斜します。


配置図
配布パンフより

南門跡 南辺築地塀跡

南門は、寺院の正面に位置するいわば正門であり、東西両翼には土を突き固めた築地塀を築いて内外を隔てていました。
発掘調査の結果、 南門は、東西回廊の中央を通る中軸線上に位置するのではなく、金堂の南にあることがわかりました。 また、南門から北へ延びる幅約1.8m (6尺)の石敷参道を検出したことにより、金堂との間に中門の存在が推定でき、南門・中門・金堂が南北一直線上に並ぶ特異な配置となることが判明しました。 礎石が3ヶ所で検出されていることから、 南門の規模は間口3間、奥行2間と推定していますが、 基壇の大きさは不明です。
寺域の南限を画する南辺築地塀は、発掘調査では未確認です。瓦の堆積が南門を挟んだ東西計約70mにわたり確認され、これが南辺築地塀から落下したも のと考えられます。 築地塀の規模は、南門との取り付き部の調査で、基底部の幅 は約1.5m (5尺)と推定できました。
現状では遺構は表示していません。


国史跡 (飛鳥時代)高麗寺跡 は初めて訪れました
この京都府木津川近辺にはまだまだ訪れていない場所が数多くあります
しかし、我が家から簡単に行こうかという地域ではないのです
特別公開とかの時期に決めて行くように考えましょうかね!

来てよかったです!














2025年5月7日

よみがえる古代の都 恭仁宮跡及び山城国分寺跡は国史跡です

2013年ごろ、遷都の地を巡っていました
その時、海住山寺・国宝五重塔の拝観と同じ日に、ここ恭仁宮にやってきました

配布パンフより引用


2013年11月 「遷都の地を尋ねて・恭仁京です」
https://a-shi-a-to.blogspot.com/2013/11/blog-post_30.html

地図をみれば、広大な地が分かります
配布パンフより引用

さらにGoogleMapでみれば、これから記事中に載せる写真の位置もよく分かるのです
Google Map
京都府と奈良県の境に近い木津川市加茂町の瓶原地域には、現在美しい田園風景が広がっています。 ここに、天平十二年(740) 聖武天皇によって恭仁宮が造営され、平城京から都が遷されました。 恭仁宮では「墾田永年私財法」が定められるなど、 歴史上の重要な舞台となりました。 
宮の規模は、東西約560m、南北約750mであることが調査にて判明した。四周に大垣が廻り、宮城門としては現在のところ東面南門を確認している。宮中央やや北側に大極殿院地区があり、大極殿基壇の規模は東西約60m、南北約30mを測る。基壇上には建物の北西隅と南西隅に原位置をとどめる花崗岩製礎石2基と、移動及び転用された凝灰岩製礎石6基が残存する。基壇化粧は現状では瓦積みであるが、恭仁宮大極殿段階での姿は不明である。基壇上には東西9間×南北4間の大極殿建物が復元可能であり、その規模から見て、『続日本紀』の記載どおり、平城宮第一次大極殿を移築したものと考えるのが妥当である。大極殿回廊についても大極殿同様平城宮から移築したと見られる。・・令和6年度発掘調査資料より



まずはここからです

恭仁宮大極殿と山城国分寺跡

この場所は、天平十二年(740)十二月十五日に、聖武天皇が「恭仁宮に幸す」 と宣言して、平城京(奈良市)から遷都して来たところで、恭仁京と呼ばれました。
聖武天皇が恭仁京に遷都された理由は明らかではありませんが、北に急峻な山地をい ただき、南に平野がひらけてその中央を泉川(木津川)がゆったりと流れる瓶原の環 境も無視できない重要な要素でした。「万葉集」には、新しき都を讃める歌が収録され ています。
三香の原 布当の野辺を 清みこそ 大宮ところ 定めけらしも(1051)
咲く花の色は変らず ももしきの 大宮人ぞ たち変りける(1061) このように新京を詠んだ歌には、季節によって移ろう景観の美しさや「泉川」と呼ば れた木津川の清流に心ひかれたものが多いようです。
恭仁京の中心には、天皇の住まいや国の行政官庁が入っていた恭仁宮が設けられ、 宮の中央に国政をつかさどる建物が配されました。そこには平城宮から移築された大 極殿がそびえ、天平の甍が輝いていたのです。 現在、 恭仁小学校の裏にある土壇が恭 仁宮大極殿の跡で、昭和五十一年(1976) 京都府教育委員会によって発掘調査が実施されました。
宮はわずか五年余りの短命な都でしたが、この大極殿をはじめ、恭仁宮の中心部はのちに山城国分寺として再利用されました。大極殿(国分寺金堂)跡の東側は 国分寺の鎮守社として祀られていた御霊神社の境内地だったところで、永年地域の氏 神として信仰を集めていた柱にはや椿が繁茂して、大極殿跡とともに歴史的な景観 を保っています。 仁宮跡の発掘調査は、昭和四十九年(一九七四)より京都府教育 委員会によって行われ、平成八年(一九九六)には宮域が確定しました。・・木津川市教育委員会

「朝堂院・東大門」

 「大極殿院地区」

史跡 恭仁宮跡(山城国分寺跡)
史跡 恭仁宮跡(山城国分寺跡)

恭仁京は、奈良時代に聖武天皇によって造られた都です。当時、たびたび疫病や戦乱に見舞われ、世情不安の中、こうした事態を打開するためか、聖武天皇は、奈良の平城京を離れ、各地を転々とした後、天平十二年(七四〇)に現在の加茂町瓶原の地を中心に新都を定めました。しかし、恭仁京は天平十六年(七四四) にわずか四年あまりで廃都されてしまいます。
その後、宮域は大極殿を中心に、山城国分寺として再利用されることになり
ます。 山城国分寺跡は、恭仁宮の大極殿をそのまま用いた金堂跡を中心に南北 三町(約三三〇m)、東西二町半(約二七五m)の広大な寺域をもつ寺でした。 山城国分寺跡(恭仁宮跡)には、現在も金堂跡(大極殿跡)基壇と塔跡基壇が地 表に残されています。皆さんの立っている場所は、塔跡の正面になります。周 囲を塀に囲まれた塔は、残されている基壇跡や礎石跡から考えて七重塔であっ たと推定されます‥木津川市教育委員会


恭仁宮跡(山城国分寺跡)

近寄って、礎石を・・・
下写真、左上隅の森は御霊神社跡

恭仁京大極殿址


  恭仁宮跡 内裏地区
下赤丸・・・「海住山寺」の看板がみえる

少しズームしてみた! はっきり「海住山寺」が読めるね

山城国分寺跡 (山背国分寺跡)



お堂の前にある外国人用の案内
かつての皇都 恭仁宮跡
小高い丘に囲まれた御香原盆地は、740年から744年にかけて、かつて皇居であった恭仁宮の所在地でした。4年間、ここに国の都が置かれていました。現在、御香原は木津川のすぐ北に位置する、野花が咲き誇る広大な野原となっています。しかし、よく見ると、あちこちに石板が散在しているのが分かります。これらは恭仁宮の跡です。現在、このエリアは地元の人々が訪れ、屋外で過ごすことができる公共スペースとなっています。恭仁宮跡は、今もなお地域の文化と遺産の重要な一部となっています。

歴史
740年、戦乱と疫病に見舞われた日本は、ますます不安定になっていきました。聖武天皇(701~756年)は、疫病の蔓延を防ぐため、遷都を布告しました。この遷都は、有力な公家である藤原氏と橘氏の間の権力闘争を強く示唆するものとも考えられています。藤原氏は既存の都である平城京で権力を握っていました。橘氏の勢力基盤は南山城であり、この遷都は立花氏にとって有利な勢力への転換を意味していた可能性があります。しかし、翌年、天皇が恭仁京で新年を迎える正式な儀式を行った際には、皇居はまだ完成していませんでした。翌年も、都はまだ建設中で居住に適さない状態だったため、新年の儀式は仮設の建物で執り行わざるを得ませんでした。744年、天皇は再び都を難波宮に遷都し、恭仁京の都としての在位期間はわずか3年で終わりを迎えました。都は未完成のまま残され、同年、恭仁京の残された建物は山城国分寺に編入されました。

現在、皇居に残るのは礎石のみです。近くには、かつて寺院の七重塔であった礎石があります。1973年の発掘調査では、さらに多くの建物の基礎が発掘されました。

右上のQRコードを読み込むと、Youtubeで紹介されていますね

海住山寺の特別公開の案内
ここに現光寺が一緒に載っているのは?
調べてみました
現光寺は、海住山寺からみて南東約3km、木津川市加茂町大字北にある小さな寺院で、海住山寺が管理しています。その詳しい由緒は明らかでありませんが、元禄十年(1697)に再興された時、海住山寺縁起絵巻の詞書撰者である真敬法親王(興福寺一乗院門跡)が落成を賀したこと、正徳二年(1712)に貞慶上人の五百年忌に際して海住山寺の本堂開帳が行われた時、現光寺の住僧が参詣したことなどは、海住山寺とのつながりのもとで歩んできた歴史を物語っています・・・解脱上人特集より


背後の建物は、木津川市立恭仁小学校

恭仁京大極殿址

       少し古そうな石標


この時代、全国的に天然痘が流行し、人々の不安は高まっていました。
また、政治面においても、大きな権力を持っていた藤原四兄弟が相次いでこの世を去り、皇族出身の橘諸兄が政治の主導権を握りました。
 しかし、これに不満を持った藤原広嗣が反乱を起こし、都の動揺は著しいものでした。
天平十二年(740)、 聖武天皇は、疫病や戦乱に見舞われ、社会不安が全国的に高まっていた事態を一新するため、平城京からの遷都を決意し、山背国相楽郡恭仁 郷を新しい都と定め遷都しました。その後、難波宮、再び平城京へと都が遷っていき ました。
恭仁宮は、 それまでの都に比べ規模も小さく、 短命な都でしたが、この間、諸国に国分寺・国分尼寺建立を命じたり、 墾田永年私財法など重要な政策を行い、日本の中心としてその役割を果たしました。 また、この時期に紫香楽宮で、都が平城京に戻って、後には、山城の国の国分寺として生まれ変わり、七重塔が造営されるなど大和に次ぐ国 としてふさわしい規模の国分寺が営まれました。


12年ぶりの恭仁宮跡散策でした
そして、久しぶりに恭仁宮跡に関するいろんな記事を拝読して、さらに興味が深まりました
すべての遷都の地は巡っていますが、また付近を通るとき、ゆっくり訪ねてみたいです


追記:同じような内容文言が多いですが、ご容赦を!