秋、行楽の時季、行先は山口県萩市、島根県津和野への2泊3日の旅しています・・・
・・・国指定史跡・・萩城城下町を巡ります・・
萩城城下町・・・
萩城三ノ丸中総門の東外を、東西に通ずる中心路である呉服町の通り(通称御成道)と、その南を東西に走る慶安橋筋の2本の東西路に直交する菊屋横丁・伊勢屋横丁・江戸屋横丁に囲まれた区域。萩藩御用達の旧家、幕末に活躍した侍屋敷等の面影が残る。1967年に国の史跡に指定された・・・
山口県萩市呉服町2-37、木戸孝允旧宅を訪ねます
ここは、江戸屋横丁
木戸孝允誕生地
文部省の説明板・・・(昭和十六年)
・・・文部省の説明板は、ここだけですね・・・
国指定史跡 木戸孝充旧宅
木戸孝充は、天保四年(1833)6月26日、萩藩医和田景(石高20石)の長男として、ここに生まれた。
八歳で石高150石の桂家(末期養子のため石高90石)の養子となったが、養母死亡のため実家で成長し、江戸に出るまでの約20年間をこの家で過ごした。
初名は桂小五郎、33歳の時、藩命により木戸貫治、翌年木戸準一郎と改めた。実名は孝充。
17歳の時には藩校明倫館で、吉田松陰に学んだ。30歳のころから藩の要職につく一方、京都におもむいて国事に奔走した。
慶応二年(1866)には坂本龍馬の仲介によって薩摩西郷隆盛らと討幕の一大勢力となる薩長同盟を結んだ。
明治新政府では特に五箇条の御誓文の草案作成に参画し、版籍奉還や廃藩置県の実現に力を尽くした。これらの功績により、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれた。
明治十年(1877)5月26日、西南戦争のさなか、45歳で京都で病死。
この旧宅は、大正15年(1926)に子孫の木戸幸一氏より当時の萩町に寄贈されたもので、桟瓦葺二階建て。
木戸孝充が誕生した部屋や庭園などは当時の姿をよく残しており、昭和7年(1932)に国の史跡に指定された
広いです・・・入ってびっくりしました 萩藩医、和田景だからでしょうね!
平屋一部二階建てにして玄関、座敷等九室(建坪四十二坪二合五勺)階上二階(五坪二合五勺)あり
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