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2018年11月16日

山口県萩市への旅・・No9、旧武家屋敷群・・・山口県萩市堀内

秋、行楽の時季、行先は山口県萩市、島根県津和野への2泊3日の旅をしています・・
・ ・・山口県萩市、堀内地区重要伝統的建造物群保存地区を巡ります・・

「旧周布家長屋門」「旧二宮家長屋」「旧児玉家長屋」「旧椙杜家長屋」「旧繁沢家長屋」「旧益田家物見矢倉」「馬來杢旧宅地」・・・そして、「北の総門」を、散策しながら、順に拝見します


堀内地区重要伝統的建造物群保存地区・・・
近世城下町の武家屋敷の地割りを残す土塀の連なる町並みが続きます 堀内は旧萩城三の丸にあたり、毛利輝元が慶長十三年(1608)に指月山に城を築き、町割をおこなったことに始まる。保存地区は堀内のほぼ全域で、藩の諸役所(御蔵元・御木屋・諸郡御用屋敷・御膳夫所・御徒士所)と、毛利一門をはじめとする大身の武家屋敷が建ち並んでいた。近世城下町の武家屋敷としての地割が今もよく残り、土塀越しに見える夏みかんとともに歴史的風致を形成している。 現在も、地区内には永代家老の益田家の物見矢倉など10数棟の武家屋敷が残ります・・・萩市観光協会より引用





市指定有形文化財 旧周布家長屋門

周布家は、萩藩永代家家老益田家の庶流で、岩見国周布郷の地頭職として周布村に住し、周布を氏としたことから始まる。
藩政時代は大組士の筆頭として、1530石余の知行地を長門市渋木に領していた。
この長屋門は同家萩屋敷の表門で、平屋建本瓦葺、東西の桁行24.91m、東端から北に折れ曲がった部分の桁行11.2m、梁間3.96mの道路に沿った長い建物である。
中央から東寄りの所に、2.46mの門を構えて扉を設けている。建物の外観は腰部を下見板張りとし、基礎に見事な切石積みがあり、上部は白漆喰大壁造である。
江戸中期の代表的な武家屋敷長屋の様式を残している・・・案内板より引用





どこまでも続くような土塀です


夏みかんですね




伝統的建造物 旧二宮家長屋

二宮家は、萩藩大組891石余で、美称郡嘉万村(現在の美称市)に領地を持っていた
建物は、本瓦葺入母屋造、桁行14.5m、梁間3.6m、中央から左よりに4.5mの門を開けている
右手片潜門の西側には、4畳2間の門番所を置き、表と門に出格子の窓を設けている
同家藩政初期の当主、二宮太郎右衛門就辰は、萩築城時の普請奉行として活躍した
・・・案内板より引用





旧児玉家長屋


萩城三の丸の平安古総門に隣接していた児玉家は、萩藩寄組に属し2243石余の大身武士であった。幕末の萩城下町絵図によると同家の表門は平安古総門に面して南向きであったとみられ、この長屋の西側道路に沿って建てられたものである
建物は木造平屋建て、桁行32.67m、梁間4.59m、屋根は桟瓦葺で、入母屋造、道路沿いの外回り壁は白壁、腰はなまこ壁とし、出格子を一カ所設けている
国選定重要伝統的建造物保存地区内に含まれ、よく旧態を保っている・・・案内板より引用







伝統的建造物 旧椙杜家長屋


椙杜家は萩藩寄組1013石余の家柄で、大津郡深川村(現在の長門市)と吉敷郡鋳銭司村(現在山口県)に総領地を持っていた。建物は入母屋造、桟瓦葺平屋建、桁行10.86m、梁間3.94m、道路に向かって幅1.97mの出格子を設けている
同家藩政初期の当主椙杜兵庫就幸は萩藩二代目藩主毛利綱広のとき要職を務め功績を残した・・・案内板より引用




伝統的建造物 旧繁沢家長屋

繁沢家は阿川毛利家(7391石余)の分家で萩藩寄組(1094石余)に属し、給領地を大津郡三隅村(現在の長門市)と、阿武郡小川村(現在の萩市)などに持っていた。
建物は桟瓦葺切妻造、桁行35.5m、梁間4.9m、中央から左寄りに門をあけている。
同家藩政初期の当主繁沢就充は藩要職として活躍した・・・案内板より引用






旧益田家物見矢倉

高さ1.8mの石塁の上に立つ堅固な単層の建物。武器を収納する倉を矢倉といい、天井が高く見張り台も兼ねたものは物見矢倉と呼ばれていました。北の総門からの人の出入りを見張る“隠密対策”としての機能があります

益田氏は藤原北家の流れで、永久2年(1114)に藤原定通(国兼)が石見の国司として下向、石見国上府(浜田市)の御神本に土着し、御神本国兼と改めました。
建久年間(1190~1199)、兼高のときに西石見の益田荘に移り益田氏を称し、大内氏滅亡後は毛利氏に髄属し、引き続き益田を領しました。関ヶ原の役後は、石見境にあたる長門の国須佐に入部。周防・長門2ヵ国に減封された毛利家の藩政の樹立や家臣団の編成に功績が多く、江戸中期の当主・元道は本拠地の須佐に郷校「育英館」を構築し教育振興に功がありました。
関ヶ原に敗れた後、家康より徳川家の家臣になることを勧められるが、元祥はこれを固く断りました。これを聞いた毛利輝元は大いに感激し、永代家老として益田氏を優遇したといわれます。・・・萩市観光協会より引用


右の電柱のある道を進むと眼の前が、北の総門です


馬來 杢 旧宅地

馬來家は萩藩の大組士で361石である。出雲国仁多郡阿井郷の地頭職であった馬來満綱は
感目山に「夕景城」を築いていた。尼子十基の一つである。天正十七年(1589)に毛利氏に帰服し、馬來元貞が安芸国に移り毛利氏に出仕した。明治9年(1879)に前原一誠が起こした「萩の乱」では、23歳の馬來 杢は前原党の二番隊長として参戦した。
屋敷には、通りに沿って南側から、笠山石の基礎を持つ土塀、正面に簡素な出格子窓を
備えた寄棟造桟瓦葺の長屋、両脇に屋根付の塀(渡り塀)を付した腕木門を構える。
内部はかっての主屋や塀の礎石、井戸があり、藩政期の武家屋敷の全体構造をよく残している・・・案内板より引用


若干、荒れていますね・・・



北の総門

萩城三の丸(堀内)の東側に当る出入口。
総門としてはほかに中ノ総門・平安ノ総門があり、この門は他の門の北に位置し北の総門と称し萩城外堀を隔てて城下町に隣接した門番所があって、暮れの六ツ時(日の入り)から明け六ツ時(日の出)まで門を閉め、夜中は人も荷も手形を有する者に限り通行が許された


左右に土塁がありますね

北の総門(復元)
脇戸付高麗門 切妻造 本瓦葺き 高さ約7m、柱間約5.9m

堀内地区重要伝統的建造物群保存地区・・・
近世城下町の武家屋敷の地割りを残す土塀の連なる町並みを拝見いたしました
さすが、堀内地区重要伝統的建造物群保存地区・・・見応えがあります
到底、短時間で周り尽くせませんね!・・・そして、北の総門の東側は城下町・・・

では、城下町を散策します・・・続きます




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