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2025年12月11日

秋の旅行 尾道市・足利氏所縁の重要文化財、天寧寺 塔婆 です

下調べの際、広島県尾道市には、尾道三山•三名塔なるものがあることをしりました
足利氏所縁の浄土寺の多宝塔(国宝)•西国寺の三重塔(重文)•天寧寺の塔婆(重文)の三塔です

GoogleMapで天寧寺の塔婆を見つけました
千光寺の下に位置するのですね
なかなか、歩くところは厳しいところに位置しています
Googlemapより


天寧寺坂という名の斜面の坂道から、パチリです

    重要文化財
     天寧寺 三重塔 室町時代(1388年建立)

日本遺産のまち 「尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市」

天寧寺は、 貞治6年 (1367)に将軍足利義詮によって創建され、 塔婆 (三重塔)は嘉慶2年(1388)に建立 されています。3代将軍足利義満も宮島参詣の帰路に宿泊するなど、足利氏ゆかりの寺として繁栄しました。 塔婆は唐様建築の現存最古のものであり、 建立当初は五重塔でした。 しかし、江戸時代に破損等により三重 塔に改修されています。 塔婆や坂道を含めた町並みの 景観は、尾道を代表するものであり、様々な要素が集 まる箱庭的都市を象徴するものであると言えます。




AI による概要

天寧寺(てんねいじ)の三重塔は、正式名称「天寧寺塔婆(とうば)」、別名「海雲塔(かいうんとう)」と呼ばれ、唐様という中国風の建築様式で、五重塔として最古の現存例であり、南北朝時代に建てられた仏塔です
 
天寧寺三重塔の構造と名称
正式名称: 天寧寺塔婆(てんねいじとうば)
別名: 海雲塔(かいうんとう)
様式: 唐様(からよう)

特徴:
南北朝時代建立。
五重塔としては現存最古の例。
露盤、伏鉢、受花、九輪、水煙、竜車、宝珠からなる相輪が最上部に配置されています。
屋根は檜皮葺で、各層の軒は広く張り出し、緩やかな勾配が特徴です。
塔身は上層に行くほど間が狭まり、細く見えるように工夫されています。

構造:
「積み上げ構造」と呼ばれる様式で、各階が独立して積み重ねられ、地震の際に振動を吸収するよう設計されています(法隆寺の五重塔などにも見られる)。
初重(一階部分)は特に丈が高く柱も太く、安定感があります。 
関連する建築様式
唐様: 中国・宋代の様式で、禅宗寺院で発展しました。天寧寺塔婆はその代表例です。
和様・天竺様(てんじくよう)との組み合わせ: 他の建物では「折衷様」として和様や天竺様(大仏様)が組み合わされることもありますが、天寧寺塔婆は唐様の特徴が色濃く出ています。 
これらの情報から、天寧寺三重塔は、単なる三重塔というだけでなく、貴重な歴史的建築物であり、特に中国様式の影響が色濃く出た、歴史的・建築的に非常に重要な建造物であることがわかります。


三手先



天寧寺の塔婆という名称である場所は墓地
周りは墓石で一杯です
ですから、「ごめんなさい」と、言って墓地をうろうろして撮影するが、画角入らない、難しいです
一番いい場所で若いカップルが動画撮影中か、動かない
だから、この墓地の中からの数枚の写真のみ!

日本遺産尾道市、尾道市は全国最多3つの日本遺産に認定されています
尾道三山と尾道水道の間の限られた生活空間に多くの寺社や庭園、住宅が造られ、それらを結ぶ入り組んだ路地・坂道とともに中世から近代の趣を今に残す箱庭的都市が生み出されました。
迷路に迷い込んだかのような路地や、坂道を抜けた先に突如として広がる風景は、限られた空間ながら実に様々な顔を見せ、今も昔も多くの人を惹きつけてやみません・・と、ある

時間さえ許せば、じっくり散策してみたい!

尾道市足利氏所縁、嘉慶二年(1388)に建立された塔婆 (三重塔)を拝見できただけ良かったとおもう、尾道三山・三名塔を残り二塔も拝見してみたいものです













2025年6月4日

新緑の山道を走ろうぜ! 旧北吸浄水場第1配水池です

2018年訪れてお気に入りの場所になった旧北吸浄水場第1配水池
木の下のベンチに座ってしばらく休憩です
今日は天気もよく爽やかな日で最高です
午後ですので、逆光です、反対からもパチリしましょう


ここから、北吸波止場がよく見えますので、艦艇を激写です
2隻係留されています

手前の艦艇は、護衛艦「こんごう」型 175「みょうこう」

基準排水量 7250t
長さ161m、幅21m
速力:30kt
主要兵装: イージス装置一式、VLS装置一式、高性能20ミリ機関砲×2、SSM装置一式、54口径127ミリ連射砲、3連装短魚雷発射管×2、電波探知妨害装置一式、対潜情報処理装置一式
乗員 約300人

洋上防空能力向上のため建造された「イージス艦」4隻を建造した。 イージスシステムは、目標の捜索・探知から情報処理、攻撃までを高性能レーダー(艦橋側面)、コンピュータ等に より自動処理する対空ミサイル・システムに比べて、飛躍的に能力が向上する。
対空ミサイルとアスロックは前、後部甲板下に設置された垂直発射システム(VLS)から 発射される。

奥に係留しているのは、護衛艦「ふゆづき」 118
 
主要要目
基準排水量:5,100 t
長さ×幅 151m×18m
最大速力 30kt
定   員 約220名
主要兵装 62口径5インチ砲 VLS SSM 
3連装短魚雷発射管 高性能20㎜機関砲 哨戒ヘリコプター
「はつゆき」型の代替用として建造された汎用護衛艦。全体としてステルス性に配慮されて いる。艦橋上側面と後部上構にFCS-3A多機能レーダーを装備し、発展型の短SAM シースパローミサイルの組み合わせにより、僚艦防空能力を持つ。備砲は前部に127ミリ単 装速射砲を1門、対艦ミサイル(SSM)は国産の90式4連装2基を中部甲板に装備している。


重要文化財、舞鶴旧鎮守府水道施設 旧北吸浄水場
第一配水池 構 造:石張コンクリート造、煉瓦造
第二配水池

容量2,400m2
容量2,460m2
竣 工:明治34年10月(第二配水池は大正10年改修か) 量水井、排水井、袖壁付門柱、石垣

海軍は、明治34年(1901)の舞鶴鎮守府開庁にむけて、軍港内の諸施設用と艦艇用に大量の飲料水を確保するため、与保呂地区の桂貯水池と北吸浄水場を完成させ、約6km離れた貯水池から約100mの高低差を利用してここまで送水した。
配水池の深さはそれぞれ約5.6mあり、水が淀むのを防ぐため、池の東西壁から煉瓦造の導水壁が交互に5列設けられている。第一配水池の壁は石張コンクリート造で、、鋳造鉄管には海軍を示す波型マークと1889(明治32年)の鋳出銘がある。
また、煉瓦造の上屋は大正15年に建てられたもので、切妻造で妻入りとし、屋根は鉄骨トラス組、波トタン葺である。中央の入口は、上部にアーチを施したロマネスク風の洒落たデザインで、四周の壁に縦長窓を配している。



いいですね 木と付門柱と艦艇!


久しぶりにα君をいれてパチリです

今回、新緑の山道を走ろうぜ!と、走行距離268㎞に走ってきました
α君の車調?体調もよく、快適でした
よき天気に恵まれ、のんびり走りました

α君も12年間、124120kmとがんばっています
さぁ、一度お医者さん?に検診してもらおうかなぁ!

よき、一日でした・・!












2025年6月1日

新緑の山道を走ろうぜ! 舞鶴赤れんがパークです

新緑の山道を走って、美山かやぶきの里へ、日本の原風景を楽しみました
次なる目的地‥舞鶴れんがパークへ向かいます
下調べで、Google mapのルートでは、64.9km 1時間19分のルートで北上です
α君のカーナビもこのコースを選択します

目的地、赤レンガパークに到着です
しかし、当初予定していた時間より30分遅れました

お! 「P」は7月から有料ですね

さぁ、国指定重要文化財の赤レンガ倉庫群を拝見します


「P」を出ると、最初は「8号棟」‥舞鶴海軍軍需部 建築年代は明治35年(1902)


赤レンガロード
「8号棟」「7号棟」「6号棟」と並んで建っている
舞鶴海軍軍需部 建築年代は明治35年(1902)
右奥は舞鶴海軍第一需品庫

「8号棟」

「8号棟」「7号棟」

「5号棟」舞鶴海軍軍需部第三水雷庫 建築年代 大正7年(1918)


赤れんが5号棟は赤れんがイベントホールとして利用されている
建物は大正7年1918)に旧海軍軍需部の倉庫として建設された倉庫です
終戦までは水雷庫として、戦後は民間倉庫会社の倉庫として使われました
赤れんが倉庫群の中で最も規模が大きく、明治期の倉庫と比べても堅牢な造りとなっています。
展示や音楽イベント、マルシェ等の会場として利用されています

案内板

手前から「4号棟」「3号棟」「2号棟」

  「4号棟」舞鶴海軍兵器廠雑器庫並預兵器庫 建築年代 明治35年(1902)
「3号棟」舞鶴海軍兵器廠彈丸庫並小統庫 建築年代 明治35年(1902)
「2号棟」舞鶴海軍兵器廠予備艦兵器庫 建築年代 明治35年(1902)

2・3・4号棟は、舞鶴海軍兵器廠の倉庫として明治35年(1902年)に建設されたれんが造2階建の倉庫で、 終戦時までは2号棟は砲銃庫、3号棟は弾丸庫並小銃庫、4号棟は雑記庫並小銃庫として使われました。
特に3・4号棟は当時の設計図をもとに鉄道レール、木製の扉口、階段、瓦屋根及び木枠のガラス窓などを忠実に復元し、当時の姿そのままに整備されました。

手前に鉄道レール、奥に自衛艦が見える


手前は「3号棟」


周り込んで、エエ雰囲気で、パチリ

芝生広場

そうなんです
30分遅れたので、14時発の船に乗り遅れました

今日の仕事を終え帰る遊覧船

乗り場から湾をパチリ
右に停泊している自衛艦は掃海艇「あいしま」


左の建物は舞鶴市役所
右の小山に展望台?のような場所が見えます

そこへ登ってみよう!!
自衛艦が見えるかも‥

追記:記事中文言の一部は舞鶴赤れんがパーク案内より引用しています












2024年6月17日

特別史跡 旧閑谷学校・・・岡山県備前市閑谷784

四度目の特別史跡 旧閑谷学校です
前回は、2017年6月
7年も経過しましたが、緑の空間にある姿は変わっていません

今日は快晴・・・それも開門前に到着、いわゆる一番乗りです
だから、だれもいないのです!

「P」付近からやや左側をパチリです

案内説明板の長文を文字起こししてみました
おそらく、読んではいただけないでしょうが、これを読めば歴史がわかります

特別史跡 旧閑谷学校
旧閑谷学校は、岡山藩主池田光政が、庶民の教育を目的として寛文 十年(1670)に設立した郷学である。 徳川光圀・保科正之とならんで天下の三名君と称された池田光政は、藩政の目標を儒学の教える仁政におき、正保二年(1645)には、中江藤樹の高弟熊沢蕃山に命じ、岡山城下花畠で藩士に陽明学と武芸を修業させた。その後、本格的な家臣教育の機関として、寛文六年(1666)に城内の石山に「仮学館」を建設し、同九年には西中山下に 岡山藩学校を開設した。また、庶民の子弟に対しては、寛文八年(1668)に領内一二三カ所に手習所を設置したが、財政難により延宝三年(1675)にはその全てを廃止して、この閑谷の地に統合した。 寛文六年(1666)、光政は領内を巡視してこの地に至り山水閑静にして読書講学にふさわしい場所であるとし、寛文十年仮学校を開 し、この地の旧名木谷村「延原」を「閑谷」と改め、家臣津田永忠に後世にまで残る学校の建築を命じた。 現在目にすることのできる閑谷学校の姿が完成したのは、光政没後 元禄十四年(1701)、二代目藩主綱政の治政のもとで、創建時の姿をほぼ完全に残しているものとして特別史跡に指定されている。 さらに、建造物等二五件が重要文化財に指定されており、中でも、講堂は学校建築として国宝に指定されている。 閑谷学校の名声は、古くから天下に聞こえていたようで、高山彦九郎・菅茶山・頼山陽・大塩平八郎・横井小楠などの学者文人なども来遊しており、大鳥圭介などの藩外からの来学も多かった。 学校は周囲を765メートルに及ぶ石塀で囲み、南側に校門(鶴鳴 門)・公門(御成門)・飲室門・校厨門の四門を備え、中に聖廟・閑谷神社(芳烈祠) 講堂・小斎・習芸斎・飲室・文庫などが配置されている。備前焼きの赤瓦がまわりの緑にはえて美しく、石塀とともに 閑谷学校特有の景観を醸し出している。かつては火除山をへだてて西側に学房(寄宿舎)がおかれていたが、現在は明治三八年(1905) に建築された旧制の私立(後に県立) 中学校の校舎であった資料館があり、館内には創学以来三百年以上にわたって継続している閑谷学校の歴史を振り返ることのできる数々の資料を展示している。石塀の南には東西にのびる池があり、重要文化財に指定されている石橋( 藩橋)がかかっている。さらに、一・ニキロメール南方には当時の学校の一の門であった石門が四分の三ほど土に埋もれて現存している。 ところで、綱政は延宝八年(1680)、木谷村二七九石を永代学田とし、万一国替えなどの際にも学校経営にいささかも影響をうけないようにとの保証を与え、幕末まで閑谷の地に論語朗誦の声は絶えなかった。明治の廃藩置県・学制の改革等の大変革によって、全国の全ての藩校は廃校となったが、閑谷学校の歴史を閉じてはならないとする旧藩士や民間有志によって、明治六年、山田方谷を迎えて閑谷精舎として再興された。同一0年方谷の死去により閉鎖され、明治一七年 (1884)、西微山らによって閑谷黌として復活を見てからは、明治三七年私立閑谷中学閑谷黌と改称、大正10年には県営に移管され 岡山県閑谷中学校となり、多くの俊秀を世に送りだしてきた。 戦後、県立閑谷高等学校を経て県立和気高等学校閑谷校舎となり、昭和三九年まで中等教育の場として学校の歴継承して来た。翌40年、和気町尺所の地にある県立和気高等学本 荘校舎と合併し県立和気閑谷高等学校となった。同校は閑谷学校の歴史と伝統を今に伝えており、孔子をまつる釈菜の儀式など伝統行事の継承に和気閑谷高等学校の教職員や生徒が現在でも深く関わっている・・・案内板より引用


校門
・屋根は備前焼の本瓦葺き、棟に鯱を載せた正門・・家紋は「六葉文軒丸瓦」「鶴鳴門」と云われ、字の如く、門を開く時の音が、鶴の鳴き声に似ているからと云われている
校門から垣間見える聖廟も、また素敵な構図です


校内入り口付近からの風景

国宝・講堂と、左、小齋(重要文化財)
元禄14年(1701)の完成で入母屋造り、錣葺きの大屋根を乗せています
いったん、こけら葺きの屋根を造った上に垂木ごとに漆をかけた一枚板を張りその上に備前焼瓦を乗せるといった手の込んだ造り、雨水に帯する万全の対策が施されています
錣葺きとは大棟から軒まで一枚の面ではなく、一段の区切りをつけてすぐその下から軒までを葺く形式、その葺き方のことを錣葺き(しころぶき)といいます
内部は10本の欅の丸柱、丸柱に囲まれた内室とその外廻りを広縁でとりまいています
材料の吟味と施工が入念になされており、今日に至るまで一分の狂いもないとのこと



さぁ、講堂内へ入りましょう

習芸齋
農民たちも学んだ、教室としで使われた施設
毎月三と八の付く日は「五経」と「小学」、朔日には農民も聴講することができる「朱文公学規」の講釈が行われました


習芸齋の左隣の入り口、飲室から入ります

飲室門

飲室
東隣の習芸斎とともに1672年(寛文12年)の建築と伝えられ、 生徒の休憩に使用された部屋
です。 中央に炉が設けられ、 炉には炭火以外の使用を禁じた「爐中炭火之外不許薪火」 の文字が刻まれ、防火に気を配っていたことが分かります。 また飲室は、習芸斎や講堂に行き来する生徒の出入する場所でもありました


右縁に「斯墟中炭火之外不許薪火」と刻まれています

習芸齋の内部
閑谷学校の講義室の一つで、毎月3日、8日、13日、18日、23日、28日に五経 (『易経』 『書経』『詩経』 『礼記』 『春秋』) という儒教の最 も基本的な教えを記した書物の講義が行われまし た。 また、毎月1日には 「白鹿洞書院掲示」(朱子学 の創始者である中国の朱子の教えが分かりやすく記されたもの。 講堂に掲げられています。) の講義も行われ、生徒のほか近くに住む農民なども出席しました。


天井は張られていない・・・太い自然木が見える野天井

講堂への渡り廊下

渡り廊下に懸魚が・・・閑谷学校の七不思議の一つらしい


講堂
1701年 (元禄 14年)の建築と伝えられ、 学校内では最大の建物です。 モザイク模様に見える備前焼の屋根瓦、内部のケヤキの丸い柱、内部の見える部材に施された拭き漆など、洗練された意匠と入念な技術によって建築されています。
毎月1日、6日、11日、16日、21日、26日に、四書(『大学』 『中庸』 『論語』 『孟子』)という儒教の最も基本的な教えを記した書物の講義が行われました。 また、 閑谷学校の創始者・池田光政を祭る儀式 (「芳烈祠之儀」) の後でも講義が行われています。


講堂は、すべて障子戸です
開けると、ツバメが入りますので、開放禁止とあります

その戸を開けると・・・みごとな空間、黒光りの床

広縁を左へ歩き、正面のから、拝見


広縁の角、ここは辰巳の方位、パワースポットと以前お聞きしました 

写真下の板の隙間付近に板に触れないよう手のひらをかざすと・・・
あら、不思議! ほんわり、暖かくなってきました
所謂、「気」です・・・信じる者しか、分かりませんけど!

ここに座り、素敵な校庭を眺めます
寝転んで、空を、緑をしばらく眺めていたいぐらいです
そして、飲食禁止なので、お茶も飲めません


景色は景色はこんな素敵なのです

中央の角付近が辰巳の方位

       さらに左周りで・・・

反対側からの堂内


小斎・・・重要文化財






延宝5年(1677)に建造されたもの
藩主臨学の際の御成の間である
この建物だけが、こけら葺きで現存する建造物の中では最も古い姿を残している


この構図がデフォルトですね

今回はここまで・・・

次回は、校門・石塀・など、周辺を記事にいたします

ほんと、何度来ても、ますます気に入り度は増します
よきところです