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2018年11月14日

山口県萩市への旅・・・No6、天樹院墓所・・・山口県萩市堀内

秋、行楽の時季、行先は山口県萩市、島根県津和野への2泊3日の旅をしています・・・
・・山口県萩市、堀内地区重要伝統的建造物群保存地区を巡ります・・


・・・堀内地区重要伝統的建造物群保存地区・・・
近世城下町の武家屋敷の地割りを残す土塀の連なる町並みが続きます
堀内は旧萩城三の丸にあたり、毛利輝元が慶長十三年(1608)に指月山に城を築き、町割をおこなったことに始まる。保存地区は堀内のほぼ全域で、藩の諸役所(御蔵元・御木屋・諸郡御用屋敷・御膳夫所・御徒士所)と、毛利一門をはじめとする大身の武家屋敷が建ち並んでいた。近世城下町の武家屋敷としての地割が今もよく残り、土塀越しに見える夏みかんとともに歴史的風致を形成している。
現在も、地区内には永代家老の益田家の物見矢倉など10数棟の武家屋敷が残ります・・・萩市観光協会より引用

展示品の古地図・・・白枠が天樹院墓所位置


天樹院へ参ります


毛利輝元は、天文二十二年(1553)毛利隆元の長男として安芸郡吉田郡山城(現、広島県安芸高田市)に生まれた。戦国時代中国地方の覇者となった毛利元就の孫にあたる。
中国地方8ヶ国112万石を領有する大大名に成長し、天正十七年(1598)広島に居城を築いた。
慶長五年、毛利氏は関ケ原の戟に敗れ周防,長門(現在の山口県)2か国36万9干余石に削封された。輝元は居城を萩に選定し、同年11月11日、萩城へ入城した
萩開府にあたって、城下町の建設を推し進めるとともに、萩藩経営の安定に腐心した。
寛永二年(1625)73歳で没し、萩城三の丸(堀内)の天樹院に葬られた


唐門・・・
・・・唐門の右柱付近の壺に入場料を納めます・・・

国指定史跡・・・萩藩主毛利家墓所(天樹院墓所)

天樹院墓所は毛利輝元の墓所で、輝元と夫人および殉死者長井治郎左衛門の墓石三基がある
これらの墓は花こう岩製の五輪塔形である
なかでも輝元のものは高さ2.1m、夫人のものは1.8mといづれも大型である
また、墓の周囲は玄武岩製の玉垣、鳥居、石灯籠、長さ64mの参道の敷石、唐門などがあり、環境も良好である
ここは以前輝元の隠居所、四本松邸があったところで、彼の死後に天樹院(輝元の法号)
が菩提寺としてたてられたが、明治2年(1869)に廃寺となり墓所のみが残った



右:輝元 左:夫人

殉死者長井治郎左衛門の墓石

どこまで続くのか、長~い、道・・・

・・・GoogleMapで計測してみました・・・
旧厚狭毛利家萩屋長屋門から突き当たりまで直線で、865.71mもありますよ!!

さぁ、次なる史跡は・・・続きます



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