秋、行楽の時季、行先は山口県萩市、島根県津和野への2泊3日の旅・・・
No2は、松下村塾、吉田松陰幽因旧宅、松陰神社を訪ねます
・・・松下村塾、吉田松陰幽因旧宅は、平成27年7月、世界遺産に登録されました・・・
萩・明治維新150年祭 150th ANNIVERSARY-HAGI-1868-2018・・・幟が!
2017年12月18日には明治改元(1868年)から150年の節目なのですね
松陰神社、社頭
国指定史跡 松下村塾
天保十三年(1842)に松陰の叔父、玉木文之進が八畳一間の私塾を開き「松下村塾」と名付け、少年だった松陰も入門したと・・・
吉田松陰は安政四年(1857)実家杉家宅地内にあった小屋を改造して八畳の塾舎とし更にその翌年十畳半を造築した。
これが現在の松下村塾で、松陰二十七歳の時のことである。
ここで松陰が教育した間は一年であり、実家幽因室時代を通算しても二年半に過ぎない。
この短い期間に、この粗末な教室から若い松下村塾グループが育ち、安政の大獄で刑死しtた師の志を継いで尊攘討幕運動に挺身し明治維新の原動力となった。
同志の主な者は激動期に死んで行ったが、生き残った者は維新政府の中枢に立って新しい日本を指導することになった・・・萩市教育委員会より引用
松下村塾の全景・・・
・・・多くの方が訪れています、意外や意外、立入り禁止の建物に大勢の方が入って見学をしていました
これは、観光バスで訪れた方々であり、なにか特別に申し込む必要があるようですね!
一般人は、柵の外からの見学です・・
残念ながら、この状態では、人が写らない写真は難しいですね・・・
講義室
見慣れた?有名な、吉田松陰画・・・
松下村塾グループ? 名を記する必要のない有名な方々です
国指定史跡・・・吉田松陰幽因旧宅
吉田松陰は、安政元年(1854) 3月27日に伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗して江戸伝馬町の牢に捕らえられ、ついで萩に送られ野山獄に入れられました。
翌年に釈放となりましたが、父、杉百合之助預けとなり、この実家である杉家に帰され謹慎生活を送り、読書と著述に専念しました。
松陰は家族からの薦めもあり幽囚室で孟子や武教全書などを講じました。次第に多くの若者が参加するようになり、やがて松陰は松下村塾を主宰するようになりました。
旧宅は、木造瓦葺き平屋建て214㎡の建物で、八畳三室、六畳三室、四畳、三畳七分、三畳半・三畳および二畳各一室ほか、板間・物置・土間を有するかなり大きい建物です。
幽囚室は東側にある三畳半の一室です。
幽囚室・・旧宅の東側にある三畳半の一室
松下村塾を語る前に、この吉田松陰幽因旧宅を先に記するべきだが、現在の松下村塾の建屋が有名なので、そちらに話がいくのも仕方ないですね!
大河ドラマの「花燃ゆ」に登場した、松陰の妹、文・・
安政四年(1857)十二月、文は久坂玄瑞と結婚後、玄瑞が江戸へ遊学するまでの二ヶ月という短い間でしたが、この住宅で家族とともに新婚生活を送ったと・・あります
松陰神社
由緒
明治二十三年(1890)松陰の実家・杉家の邸内に松陰の実兄杉民治が土蔵造りの小祠を建て、松陰の遺言により愛用していた赤間硯と松陰の書簡とを神体として祀ったのが当社の創建である
主祭神: 吉田寅次郎藤原矩方命(吉田松陰)
末社・松門神社・・・
創建当時の土蔵造りの旧社殿で、松下村塾での門人を祭る
松陰神社を出て、県道11号沿いの「P」その反対側に、高洲家旧宅地(吉田松陰謹慎居所跡)
現在は、当時の建物は残っていない・・・
高洲又左衛門は52石余の萩藩士で、妻は吉田松陰の伯母
杉家はここへ間借りし、その間、松陰は通行手形を持たずに東北へ、その罪問われ、この高洲家で謹慎させられたと・・・案内板より引用
山口県萩市への旅・・・目的の一つ、松下村塾・・・拝見できました
世界遺産ともなれば、人気があるのでしょう・・・修学旅行を含め、観光バス13台が止まっていました
いやいや、驚きましたね!・・・世界遺産恐るべし!
・・・続きます・・・
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