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2018年11月30日

島根県津和野町への旅・・・津和野城跡(馬場先櫓)・・ 島根県鹿足郡津和野町 後田

秋、行楽の時季、山口県萩市、島根県津和野町への2泊3日の旅しています・・・
山口県萩市から、島根県津和野町へやってきました・・・


上案内板の部分を拡大・・・赤枠の旧津和野藩主亀井家の藩邸があった場所へ向かいます


国指定史跡 津和野城跡(嘉楽園)

この地は旧津和野藩主亀井家の藩邸があった場所で、当時の藩邸は南北300m、東西140mにわたり、北側に建物、南側に庭園が築かれていました。
明治の廃藩とともに建物は解体され、北側は島根県立津和野高等学校の敷地(グランド)となり、この庭園跡がわずかに往時の面影を偲ばせています



津和野藩御殿・・・物見櫓 一重二階 多聞櫓

津和野藩御殿の正面側には東門を中心として御物見のほか四つの櫓と大小四つの土蔵があった。
この建物は櫓の一つで絵図では御物見と記され、防衛上最も重要な施設であった。
もとは道路向かいの津和野高校正門付近にあったが、大正時代の道路の新設による嘉楽園の敷地内に移されている。
建物は木造瓦葺一部二階建で、南北十三間(25.6m)東西二間半(4.95m)入母屋造で、当初は本瓦葺きであったが、昭和の修理で桟瓦葺となっている
現在では御物見のほか馬場先櫓が御幸橋のたもとに今も現存しており、藩邸の櫓が現存しているのは全国でも稀である






国指定史跡 津和野城跡(馬場先櫓)

この櫓は、旧津和野藩邸表門の左方の角地に配置された隅櫓で、南西に馬場があったのでこの名が付けられています
構造は、重層入母屋の本瓦葺きで、外部漆喰仕上げの櫓構建築です。
建築年代については記録はありませんが、藩邸が嘉永六年(1845)の大火で焼失し、安政三年(1856)に再建されていることから、この櫓も安政年間の建築と思われます。
旧津和野藩の建物で現在残っているのは、この櫓と嘉楽園内の「物見櫓」の二棟がありますが、もとの位置を変えずに旧状を留めている唯一の建物となっています



馬場先櫓から津和野城跡の石垣を眺めます・・



津和野川を渡り、津和野駅へ向かいます


津和野駅

JR山口線 津和野駅 

そのそばに、「D51」がいました



運転席に入ることができました


うん! イイすね!

秋、行楽の時季、行先は山口県萩市、島根県津和野への2泊3日の旅をしてまいりました
良き天気に恵まれ、よき旅になりました

住んでみたい土地になった、山口県萩市・・・
歴史のある津和野三本松城(津和野城跡)に興味津々、津和野町を歩きました・・・

山口県萩市、島根県津和野町への2泊3日の旅も終わります・・・


帰途、休憩のSAでの、パチリ・・・紅葉も進んでいますね・・・


往復走行距離、1008km 歩いた歩数、34,542歩・・・でした



2018年11月29日

島根県津和野町への旅・・・津和野城跡・・島根県鹿足郡津和野町後田

秋、行楽の時季、山口県萩市、島根県津和野町への2泊3日の旅しています・・・
山口県萩市から、島根県津和野町へやってきました・・・


上案内板の部分を拡大・・・赤枠の津和野城跡へ向かいます

津和野城跡へは、リフトで登ります



土・日は、午前7時?から動きます・・・なぜなら、雲海を見るためです
平日は、9時から運行です・・・今日は、雲海が発生していたのですが残念です


なかなか、迫力があります

到着です・・・


さぁ、城跡へ・・・お!、工事中です

中世(吉見氏時代)堀切と・・・

出丸・・・工事中で入れません

どうやら、車でも登ってこれそうですね! 工事現場事務所


中世の山城 津和野三本松城

文永十一年跡(1274)弘安四年(1281)の元(蒙古)軍の北九州北浦への来襲を受け、鎌倉幕府は西石見の海岸防備を吉見頼行に命じた。
頼行は弘安五年(1282)家来とともに能登から木曽野(津和野北西部)に地頭として入り、永仁三年(1295)、この城山山脈に築城を始めた
以後吉見氏は14代300年間、随時増築増強をを行い、城山山脈の諸所に曲輪・堀切、竪堀、横堀などを構築して堅固な中世山城(一本城、三本城と呼ばれた)を築いた。
この山城は天文二十三年(1554)の「三本松城の役」では大内氏、陶氏、増田氏その他の大軍に山麓を包囲されながらも、四月から八月までの100日余の籠城戦に耐えた。
吉見氏は関が原合戦(1600)で毛利氏とともに西軍として戦い、敗れて萩へ退転した。翌年、坂崎出羽守が初代津和野藩主として入部し、現在の本丸と織部丸の位置に高い石垣の近世山城を築いた。


本丸へ




観光パンフにあった明治七年城を解体する前にかかれた絵図の写し



上図、赤丸部分・・・東門跡

ここは当城の東門、坂崎氏以後亀井氏の代には大手門となっていたところである。
ここをはいって右手に見る石垣が三段になっているが、これは三段櫓の跡、この三段櫓を見て上がったところが西門跡、その右手を上がって馬立跡、台所跡、海老櫓跡と続く。
また、ここをはいって左へ廻って行くところが腰曲輪で、これを行くと隠門に出る。
左手の上が天守台で、かって三層の天守閣があった。天守台を右に見て上がった所がが太鼓丸跡、その上を世間台といい、ここから城下が一望できる・・・案内板より引用


三段櫓の跡

腰郭

馬出跡、台所跡へ


国指定史跡 津和野城跡(馬立・台所・海老櫓)

ここは本丸の西、当城の三の丸にあたる。階段を上がって左は馬立と言われ、乗馬をつなぎとめておく所、右は三段櫓の最上部の建物につながる。
馬立の奥には台所があり、石列による配水の機能がみてとれる。
さらに奥には海老櫓といわれる建物があり、搦手(喜時雨側)に直面する望楼であった。
周囲は塀で囲まれ、その支柱を支えるための控え石がおおむね一見(1.8m)おきにおかれている。


台所・・石列による配水の機能

馬立

馬立から天守台、石垣をみる・・



史跡 津和野城跡

津和野城は関ヶ原合戦(1600)の戦功により津和野藩主として入部した坂崎出羽守(1601~1616)によって山頂に高い石垣を積んで築かれた近世山城である。
石垣の石材は玢岩と石英閃緑岩で、約3km北方の寺田地区や枡ヶ峠の青野山トンネル付近で採石し運び上げたものである。
特に天守台の石垣は壮麗な石英閃緑岩で築かれ、大きい石は2トンを超えるものもある。
坂崎氏は有名な千姫事件で1616年に断絶となり、亀井氏二代亀井政矩が藩主として入城した。
そのから約250年間、亀井氏が11代にわたって居城とした。
その後、1873年(明治六年)の「城郭存廃決定(廃城令)によって建物は解体されたが、急峻な山頂に気づかれた豪壮な石垣が当時を偲ばせる


西門櫓跡

三の丸跡へ

南門櫓跡

三の丸跡から・・手前は人質櫓、奥は三十間郭を眺める・・・


天守台

人質櫓、奥は三十間郭へ・・・
…注意! 転ばないで…と、あります う~ん! 木の根の階段ですね

三十間台郭から眺める景色・・・定番の撮影ポイントのようです




絶景です…段々畑(棚田)が美しい!


三十間台郭から太鼓丸へ…この石段を降りてきました


太鼓丸跡




津和野町が一望できます


東門跡へ降ります

出丸

降りましょう…

眺めもイイすね!


津和野城は、標高370mの霊亀山に築かれた中世時代の山城…
文永十一年跡(1274)弘安四年(1281)の元(蒙古)軍の北九州北浦への来襲を受け、鎌倉幕府は西石見の海岸防備を吉見頼行に命じた。
頼行は弘安五年(1282)家来とともに能登から木曽野(津和野北西部)に地頭として入り、永仁三年(1295)、この城山山脈に築城を始めた・・・案内板より引用

いやいや、説明文、読めば、この城の生い立ち、歴史が、よ~く、理解でします!

この歴史ある津和野三本松城、津和野城跡・・・
兵庫県朝来市の竹田城跡と並ぶ、石垣、城跡でしょう・・・いや、それ以上かも!・・(私感)

石垣が修復され、歩道の整備が進み、雲海に浮かぶ城の写真をみれば、小京都、津和野の観光、人気が益々増えることでしょう・・・
反面、このままがいいかもと、いう気持もあります
なぜか、竹田城跡の変わりゆく姿を知っているからこそです・・・残念ですが!

紅葉と津和野城跡、いや、素晴らしい景色、城跡でした