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2022年7月6日

9年ぶりに訪れた岸和田城・・・やはり素敵なお城でした

大阪府岸和田市岸城町9-1 岸和田城

2013年7月、訪れました
9年前です
https://a-shi-a-to.blogspot.com/2013/07/blog-post_16.html
懐かしいです

その時の記事見れば、冷や汗がでてきます
なんという作り方か、いまもさほど変わってないよ?と、云われそうですが・・
写真は少々写りがよくなり、見やすくなっていると思っていますが!

では、城内へ・・・

櫓門

岸和田城絵図
岸和田城の変遷

建武元年(1334年)楠正成の一族和田氏が、当時「岸」と呼ばれていたこの地に城を築き、根拠地としたことか ら「岸の和田氏」と呼ばれ、「岸和田」の地名の起こりになったといわれています。 その後、信濃氏、細川氏、三好氏、松浦氏、中村氏、小出氏、松平氏とかわり、寛永17年(1640年)岡部宣勝が 入城、以来13代続き明治を迎えました。岸和田城の別称は「猪伏山滕城」。「勝」とは、機のたて糸をまく器具 で、本丸と二の丸を連ねた形が「膝」に似ているところから由来するといわれています。また、城は「千亀利城」 「蟄亀利城」とも書かれます。文政10年(1827年)、雷火により五層の天守閣が焼失し、昭和29年(1954年)、 その後に三層の天守閣が復興されました。城跡は、昭和18年(1943年)に、大阪府の史跡として指定されました。・・・案内板より引用


天守閣です
・・前回、入場しましたので、今回は、パス!



国指定名勝 岸和田城庭園(八陣の庭)

櫓門・・・

二ノ丸広場

二ノ丸隅櫓跡・・・じつは公衆トイレ

多聞櫓・隅櫓

サギが獲物を狙っていますね・・・微動だしません

城下町の街並み目の前に広がる瓦屋根は、岸和田城の城下町の面影がのこる街並みである。遠くに見える阪神高速湾岸線付近が現在 の海であるが、かつての海岸線は、『古今重宝記』によると「・・・二ノ丸石垣迄汐差入り葦原の所段々と海退に付當 事の傳馬口より坂口御門迄新郭出来町屋等建候由・・・」といわれ、この二ノ丸石垣下まで汐が入り込んで葦原であっ たとされる。その後、徐々に海が後退し、松平康重の治世(1619~1640年)に、浜側に防潮石垣が築かれ、城下町と して整備されていったとされる。
本町周辺の発掘調査では、現状の地表面よりおよそ1m下の層から豊臣期(1580年代後半~1590年頃)の唐津焼な どが出土しており、かなり古い時代から人々の住居があったことが窺える。つまり、汐が差し入ったという状況は、大 阪湾岸に昔から見られた海岸砂堆に伴う後背湿地で、淡水系の葦が生えていたと解釈するのが正しいであろう。
岸和田 城下町はこういった海岸砂堆の上に発展した町である。
海を意識した岸和田城の特徴を表していると言えよう。・・・案内板より引用


市民道場心技館
なかなか、石垣も素晴らしい
「大」という文字が刻まれている石があるようです
築城時代のものらしいですが、発見できませんでした


岸和田城のYouTubeを作成しました
4本目になります
記事内の画像と被りますが、ご容赦・・・



9年ぶりの岸和田城・そして初めてのだんじり会館・・・堪能いたしました
岸和田市は、まだまだ、見所はたくさんあります
また、訪れましょう







2018年11月29日

島根県津和野町への旅・・・津和野城跡・・島根県鹿足郡津和野町後田

秋、行楽の時季、山口県萩市、島根県津和野町への2泊3日の旅しています・・・
山口県萩市から、島根県津和野町へやってきました・・・


上案内板の部分を拡大・・・赤枠の津和野城跡へ向かいます

津和野城跡へは、リフトで登ります



土・日は、午前7時?から動きます・・・なぜなら、雲海を見るためです
平日は、9時から運行です・・・今日は、雲海が発生していたのですが残念です


なかなか、迫力があります

到着です・・・


さぁ、城跡へ・・・お!、工事中です

中世(吉見氏時代)堀切と・・・

出丸・・・工事中で入れません

どうやら、車でも登ってこれそうですね! 工事現場事務所


中世の山城 津和野三本松城

文永十一年跡(1274)弘安四年(1281)の元(蒙古)軍の北九州北浦への来襲を受け、鎌倉幕府は西石見の海岸防備を吉見頼行に命じた。
頼行は弘安五年(1282)家来とともに能登から木曽野(津和野北西部)に地頭として入り、永仁三年(1295)、この城山山脈に築城を始めた
以後吉見氏は14代300年間、随時増築増強をを行い、城山山脈の諸所に曲輪・堀切、竪堀、横堀などを構築して堅固な中世山城(一本城、三本城と呼ばれた)を築いた。
この山城は天文二十三年(1554)の「三本松城の役」では大内氏、陶氏、増田氏その他の大軍に山麓を包囲されながらも、四月から八月までの100日余の籠城戦に耐えた。
吉見氏は関が原合戦(1600)で毛利氏とともに西軍として戦い、敗れて萩へ退転した。翌年、坂崎出羽守が初代津和野藩主として入部し、現在の本丸と織部丸の位置に高い石垣の近世山城を築いた。


本丸へ




観光パンフにあった明治七年城を解体する前にかかれた絵図の写し



上図、赤丸部分・・・東門跡

ここは当城の東門、坂崎氏以後亀井氏の代には大手門となっていたところである。
ここをはいって右手に見る石垣が三段になっているが、これは三段櫓の跡、この三段櫓を見て上がったところが西門跡、その右手を上がって馬立跡、台所跡、海老櫓跡と続く。
また、ここをはいって左へ廻って行くところが腰曲輪で、これを行くと隠門に出る。
左手の上が天守台で、かって三層の天守閣があった。天守台を右に見て上がった所がが太鼓丸跡、その上を世間台といい、ここから城下が一望できる・・・案内板より引用


三段櫓の跡

腰郭

馬出跡、台所跡へ


国指定史跡 津和野城跡(馬立・台所・海老櫓)

ここは本丸の西、当城の三の丸にあたる。階段を上がって左は馬立と言われ、乗馬をつなぎとめておく所、右は三段櫓の最上部の建物につながる。
馬立の奥には台所があり、石列による配水の機能がみてとれる。
さらに奥には海老櫓といわれる建物があり、搦手(喜時雨側)に直面する望楼であった。
周囲は塀で囲まれ、その支柱を支えるための控え石がおおむね一見(1.8m)おきにおかれている。


台所・・石列による配水の機能

馬立

馬立から天守台、石垣をみる・・



史跡 津和野城跡

津和野城は関ヶ原合戦(1600)の戦功により津和野藩主として入部した坂崎出羽守(1601~1616)によって山頂に高い石垣を積んで築かれた近世山城である。
石垣の石材は玢岩と石英閃緑岩で、約3km北方の寺田地区や枡ヶ峠の青野山トンネル付近で採石し運び上げたものである。
特に天守台の石垣は壮麗な石英閃緑岩で築かれ、大きい石は2トンを超えるものもある。
坂崎氏は有名な千姫事件で1616年に断絶となり、亀井氏二代亀井政矩が藩主として入城した。
そのから約250年間、亀井氏が11代にわたって居城とした。
その後、1873年(明治六年)の「城郭存廃決定(廃城令)によって建物は解体されたが、急峻な山頂に気づかれた豪壮な石垣が当時を偲ばせる


西門櫓跡

三の丸跡へ

南門櫓跡

三の丸跡から・・手前は人質櫓、奥は三十間郭を眺める・・・


天守台

人質櫓、奥は三十間郭へ・・・
…注意! 転ばないで…と、あります う~ん! 木の根の階段ですね

三十間台郭から眺める景色・・・定番の撮影ポイントのようです




絶景です…段々畑(棚田)が美しい!


三十間台郭から太鼓丸へ…この石段を降りてきました


太鼓丸跡




津和野町が一望できます


東門跡へ降ります

出丸

降りましょう…

眺めもイイすね!


津和野城は、標高370mの霊亀山に築かれた中世時代の山城…
文永十一年跡(1274)弘安四年(1281)の元(蒙古)軍の北九州北浦への来襲を受け、鎌倉幕府は西石見の海岸防備を吉見頼行に命じた。
頼行は弘安五年(1282)家来とともに能登から木曽野(津和野北西部)に地頭として入り、永仁三年(1295)、この城山山脈に築城を始めた・・・案内板より引用

いやいや、説明文、読めば、この城の生い立ち、歴史が、よ~く、理解でします!

この歴史ある津和野三本松城、津和野城跡・・・
兵庫県朝来市の竹田城跡と並ぶ、石垣、城跡でしょう・・・いや、それ以上かも!・・(私感)

石垣が修復され、歩道の整備が進み、雲海に浮かぶ城の写真をみれば、小京都、津和野の観光、人気が益々増えることでしょう・・・
反面、このままがいいかもと、いう気持もあります
なぜか、竹田城跡の変わりゆく姿を知っているからこそです・・・残念ですが!

紅葉と津和野城跡、いや、素晴らしい景色、城跡でした