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2017年11月13日

若宮神社・・・中井権次一統の足跡を巡って・・ 京都府綾部市上野町藤山

京都府綾部市、中井権次一統の足跡を巡っています・・・

京都府綾部市上野町藤山1-2、若宮神社を訪ねます・・
参道が、三段となが~く、続いていますね・・・しかし、この付近は、「P」ができませんでした・・・(^^;)



若宮神社由緒・・・


御祭神:仁徳天皇
・・由緒・・
当若宮神社の創建は、治承年間(1177~1180)小松内府三位中将平重盛卿が丹波の国主であった時、山城国石清水八満宮を此の地に勧 請せられたものと伝えられる
その後鎌倉、室町、戦国時代から徳川初期に至るまでの記録が現存しないので同期間の状況は知る由もないが、以後の 由緒については綾部九鬼藩の旧記録により稍々明らかである・・・以後省略
・・・案内板より引用

寛永10年(1633年)3月、徳川3代将軍家光の時、九鬼藩の初代藩主・九鬼隆季(くきたかすえ)が志摩の国(三重県)鳥羽から綾部に転封された時に、お屋敷内に祀られていた当若宮神社を厚く尊崇し、綾部藩の総氏神と定めました。また、2万石乏しい石高の中から見取田と金穀を献上し、それを祭典や社殿の修繕費にあてました。

以来、第2藩主の九鬼隆常を経て、第11代九鬼隆備の明治廃藩に至るまで、各代の藩主の家督相続襲封毎に「任先規永代無退転可令執行也」という御朱印書をもって、祭礼料や修復料を献納しました。

もともと、若宮神社は綾部の南北をつなぐ坂口(現在の田町)に祀られていました。
慶安4年(1651年)、初代藩主・九鬼隆季が御屋形を南部高台の上野本宮山西麓に移すことになった時、総氏神である若宮神社を下位の坂口に祀るのは誠におそれ多いことと考え、御屋形の正面である藤山の中腹に奉遷しました
・・・若宮神社HPより引用



若宮神社、拝殿です

中井権次正胤、37歳時の傑作と・・・
陽が逆光・・そして、夕暮れと相まって、唐破風、向拝の彫刻がうまく撮影できません
神額・・

ご祭神 仁徳天皇 若宮神社 政治・経済 日々平穏の神


        本殿・・・

ちょっと、トリミングしてみました・・・
・・・唐破風の上に巨大な獅子噛み・・若干、上に睨み効かしていますね・・・

兎の毛通しの大きな羽を広げた鳳凰・・大きいですね!
向拝上段の松と睨み合う鶴、上を睨む龍・・・眼が白い? 恐らく、塗られているのでしょうね!

綾部市のマンホール・・・汚水管マンホール蓋・・・

・・・時の流れを知る母なる川“由良川”をテーマに「綾部井堰と泳ぐ鮎」 「綾部大橋」「新綾部大橋」に市の花「梅」市の木「松」を配している。「あやべし」「おすい」の文字入り・・・京都府HPより引用


なにか、陽が落ちてくると、落ち着かず、ゆっくり参拝もできず・・・m(_ _)m
若宮神社には、厄除神社があります・・参拝をいたしましたが、次の参拝者さんが来られたので、後で写真と思っていました・・・しかし、失念いたし写真はありません・・・

この時期はやはり、午後三時が限度ですね・・・境内は薄暗く、闇になってきます
もう少し、早めにこなければ・・・・

ここで、九鬼家について・・・
九鬼家は三田藩の藩主と思っていましたが、丹波綾部藩も九鬼家が藩主?・・・ググってみました

・・・九鬼守隆は鳥羽城主として5万6000石を持っていたが、仏門に帰していた五男九鬼久隆を還俗させ、後継者にしようとしたところ、三男である九鬼隆季から猛反発をうけ、家督争いとなった。
守隆の死後も家督争いは続き、この騒動を見ていた江戸幕府により、九鬼家は代々領土を守ってきた志摩国の領地を失い、九鬼久隆は摂津国三田藩3万6000石に、九鬼隆季は丹波国綾部藩2万石に移された。ここに九鬼水軍はその水軍力を失い、陸に上がることとなったが、九鬼氏はこの後も廃藩置県までの期間を生き抜くこととなる・・・Wikipediaより引用

へぇ・・・よ~く、解りました・・・








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