ページ

2017年11月9日

安国寺・・・文化財を巡って・・京都府綾部市安国寺町寺ノ段1

京都府綾部市の文化財を巡っています・・・

京都府指定文化財・・・京都府綾部市安国寺町寺ノ段1の安国寺を訪ねます

・・・境内案内図・・・


まず、左手に大きな案内板が・・・足利尊氏公産湯之井・・・

産湯の井戸
この地域はもと上杉荘とよばれ建長四年(1252)から上杉氏の所領となり、荘内に居館を構えていました
上杉頼重の娘清子は足利貞氏に嫁ぎ、出産のため故郷の丹波に帰り安国寺の門前の別邸に住んで、当時の地蔵菩薩に安産を祈願し 、嘉元三年(1305)に尊氏を生んだと伝えています
この井戸は、その産湯として使用されたと言い伝えが残っています
この別邸は、のちに安国寺へ寄進され常光寺という門外塔頭とあんっていましたが、大正初年廃寺となり・・・
現在は地元の公会堂となっています・・・案内板より引用



足利尊氏生誕の地・・・
この別邸は、のちに安国寺へ寄進され常光寺という門外塔頭となっていましたが、大正初年廃寺となりました、
・・・現在は地元の公会堂となっています



安国寺です・・・


山門がみえます・・・周りは紅葉の木ですね・・・ちと、紅葉には、時期は少々早いですね

山門・・・

この山門は、天保九年に住寺の大柱妙甫が山門再興を志して国中を勧化し、天保十四年(1843)に再建されたものです
桁行3.94m・梁行3.64mの規模で、本柱・控柱ともに丸柱で、上は波紋彫刻付の欄間、また控柱を結ぶ長押と腰貫間は透し彫物の欄間がみられます
屋根は本瓦葺です
再建の大工は棟札によって天田郡観音寺の大槻由平時秀と亀岡の田中仙助忠茂であったことが知られます
昭和63年4月15日、京都府登録文化財として登録されました・・・案内板より引用

足利家の家紋・・「足利二つ引き」
家紋の周りの彫刻が違いますね・・
長押と腰貫間は透し彫物の欄間


仏殿・・・

安国寺の伽藍は、享保二十年(1735)六月の山津波で裏山が崩れ、仏殿のほか諸堂を倒壊し埋没したあと生地したのが現在の寺地です
仏殿は寛保三年(1743)に再建されたものです
桁行五間・梁間五間、単層で屋根は入母屋造、茅葺きです
内部は、禅宗仏殿の基本的構成要素を巧みに残しながら、全体として近世風の仏堂 に仕立てています
床は四半敷にし、中央の天井は鏡天井は避けて格天井とし、正面両脇は花頭窓を配しています
堂内には、国指定文化財の木造釈迦如来座像を本尊とし、右側に国指定の木造地蔵菩薩半跏像も安置しています
昭和63年4月15日、京都府指定文化財に指定されました・・・案内板より引用



仏堂内部は、外より拝観できました!

冒頭の案内板より抜粋しました・・・
・・・重要文化財:木造釈迦如来及び両脇侍坐像、木造地蔵菩薩半跏像・・・


蟇股・・天女ですかね・・・

庫裏と方丈・・・
茅葺きの葺替え中ですね・・・
庫裏・・・茅葺きは、大変ですね・・・
仏堂から山門、鐘楼を・・・

鐘楼・・・江戸時代 (天保十四年:1843)

桁行一間、梁行一間、一重、切妻造)、桟瓦葺

山門の右手にある四脚鐘楼形式の建物である。
出三斗の肘木上端を笹繰状に繰り取ったり、妻側に中備として鶴の彫刻を嵌めたり、化粧棟を受ける大瓶束両脇に唐草状の笈形を飾ったり、懸魚の鰭や桁隠しを波状の彫刻とするなど、大工の独創性が充分発揮されている。
大工は白道路村の四方儀平正規である。・・・綾部市資料館から引用

妻側に中備として鶴の彫刻が・・・



安国寺は、正歴四年(993)ごろ地蔵菩薩を本尊として開創されたと伝えられ、もとは光福寺と称した。
建武四年(1252)勧修寺重房が上杉荘を賜り、これより「上杉」を姓とすることとなった。その後、光福寺は上杉氏菩提寺となり、釈迦三尊を合わせ祀った。
嘉元三年(1305)足利尊氏の生誕によって当寺は、上杉氏・足利氏の尊崇を受けるようになった。暦応元年(1338)足利尊氏は夢想疎石の勧めによって、元弘の戦乱以降に亡くなった多くの戦没者の霊を慰めるため、国ごとに安国寺利生塔を建立するにあたり、光福寺を丹波の安国寺となし、諸国安国寺の筆頭において、安国光福寺としたものである。
康永元年(1345)尊氏は、南禅寺に住した天庵妙受禅師を招請して、安国寺の始祖とし、多くの寺領を寄進した。
それ以降、塔頭十六、支院二十八を有する大寺院であったが、江戸中期に至るまでの間に大半の寺領は押領されて、塔頭、支院は減少したが、今なお多くの重要文化財、府市指定文化財、重宝等も蔵する名刹である・・・綾部の文化財を守る会・安国寺

・・・案内板より引用・・・



仏殿、庫裏、方丈・・・

開山堂・・・


宝篋印塔 三基

この宝篋印塔は南北朝時代のもで、墓碑として建てられた供養の塔であります
向かって左が尊氏の母、上杉清子、中央が足利尊氏、右が尊氏の妻、赤橋登子の墓と伝えられています
母清子は康永元年(1341)に永眠していますが、享年は不明です
尊氏は延文三年(1358)四月三十日に五十四歳で、妻の登子 は、貞治四年(1365)に六十歳で没しています・・一部省略・・・

・・・案内板より引用

総高は、158.6cm 174.5cm 153.3cm

室町幕府の初代征夷大将軍・・・室町時代は約250年続く・・・・
その足利尊氏の生誕地は、栃木県の足利荘(足利市)出生とされる事が多かったが、近年は否定されている・・そして、この安国寺がね・・・歴史って、もっと勉強しとくべきでしたね

なかなか、落ち着きのある古刹でした・・・

鎌倉倒幕への挙兵した足利高氏旗あげの京都府亀岡市の篠村八幡宮・・・行ってみなければ・・(*^_^*)





0 件のコメント:

コメントを投稿