京都府綾部市の文化財を巡ってます
京都府綾部市高津町宮の段一番地、高津八幡宮・・・京都府指定有形文化財を訪ねます
・平成28年、京都府指定有形文化財に指定されたと・・・
社頭です
真正面から、陽がさし、逆光で、鳥居上、トリミングです
案内図です
2系統がありますね
車道と石段・・まずは、車道で、帰途、石段を下から眺めたいと思います
おおぉ、広い境内です
「α君」が小さく見えますが、右手が広大な芝生の広場があります
奥の社殿、見れば・・・ゾクゾクしてきました
高津八幡宮
・・・当八幡宮は石清水八幡宮の別宮で如意別宮といい、高津荘の総社である。
当社の縁起によれば、もとは法道仙人の開いた密教練行の道場であったが、元慶五年(881)山城の国男山から金鳩が飛来したのを瑞祥として八幡宮が勧請されたと伝える。
明応九年(1500)災禍に遇い社殿を焼失したが、翌文亀元年に再建された。
別当寺に御所坊、極楽寺などと称え、後に究竟院と改め醍醐三宝院に属した。
近世初頭福知山藩主有馬豊氏、綾部藩主九鬼隆李など歴代領主の尊崇を得て社領の寄進を受けている。
現在の社殿は九鬼隆都の企てにより、天保十年(1839)起工、嘉永元年(1850)に完成した。宮大工は地元延村の桑原兵右衛門で向背の竜彫物は大阪の彫物師の手になる。
府下でも有数の代表的社寺建築である。
尚、参道の長い石段は天明四年(1784)から文化十三年まで三十余年にわたり村民の寄進により築造されたものである
・・・案内板より引用
12年かかって、完成した社殿と・・・宮大工は地元延村の桑原兵右衛門
向背の竜彫物は大阪の彫物師の手になると・・・
備忘録作成時、現像していると・・・
おおぉ、刻銘があるではないですか! 気がつかず
ググってみました・・・
先人が、記していました
その大坂の彫物師は、大坂住 相野徳兵衛 彫刻と!
向拝天井は、上げ格子天井・・・
本殿、右後方より
拝殿との間に朝陽が差し込んで・・・写真、難しいです
本殿、妻飾・・三重虹粱・・・
平成28年、社殿、棟札、4枚、天満宮本殿、高良神社本殿が、京都府指定文化財に指定されたと・・・(*^_^*)
右:天満宮 左:高良神社
天満宮
天満宮、向拝・・・先人曰く、これも、相野一統らしい・・・
高良神社
手水舎・・・自動で、水、出ます・・・
社務所・・・
絵馬殿?内の奉納額・・・文久二年(1862)と、読めます
安政四年(1857)
石段を上から・・・
天明四年(1784)から文化十三年まで三十余年にわたり村民の寄進により築造されたものであると!
本来なら、ここが、参道ですね・・・
境内の木々達・・・
ご神木
綾部の古木・名木・・・ツブラジイ 幹周り:3.7m 樹高:28m
綾部の古木・名木・・・イヌマキ
幹周り:1.91m 樹高:13.5m
中筋の名木・・・モミ 幹周り:3.9m 樹高:35m
参道石段の上がったところ、参道に・・・八幡山城案内図
八幡山城址 (高津城)
・・・八幡山城は、八幡宮南東の標高150mの山頂に位置し戦国時代、丹波何鹿郡の在地領主、大槻氏の居城と伝えられている。
城は南ヘ連なる支峰と、西の緩斜面への二方向へ広がり、東西300mの大規模な城郭である。
中間の自然地形を挟んで、東西の二区画に分かれ、それぞれ曲輪土塁・竪堀などの城の構造を今もよく残している。
東区画は、主郭から西ヘ階段状に各曲輪を配し、その先端を大きな堀切で遮断している。
西区域は、各曲輪の段差が東区画に比して緩く、堀切も浅いが、先端部では堀の屈曲に合わせ曲輪に土塁を設け、敵を側面から攻撃できる『横矢がかり』の構造がみられる。
これらは同時期に造られたものではなく、主郭のある東区画から順次拡張していったものと考へられ、戦国末期には西区画も造られていたであろう。 平成五年四月
・・・案内板より引用
綾部市の文化財を訪ねて走ってきました・・・最初の訪問地で、見事な社殿に度肝を抜かれてしまいました・・・
彫刻師、相野一門の名は知ってはいました・・
以前、大阪天満宮で、彫師は相野一門、相野藤七と・・・知りました!
いずれにせよ、中井権次一統と、相野一門と、いずれも見事な彫刻には、間違いないですね!
気になりますね・・・相野一門の作品、京都府綾部市、福知山市に多いかも・・・
しかし、これだけの社殿そ造営するには、相当な財力があったのでしょうね・・・
いや、綾部市・・・探索が楽しみになってきました
石段へと、向かいましたが、分かりませんでした
0 件のコメント:
コメントを投稿