そして、府指定文化財として、本堂 附棟札、鐘楼、表門があります
さらに、そう、本堂、内陣の彫物は、中井権次一統の足跡、六代目中井権次正貞作なのですが・・・残念ながら、拝見できません!
拝見できたとしても、撮影禁止です・・・中井権次一統の資料より
しかし、この付近も何度も通っているのですが、行こう!・・と、決めないと、忘れるものです!
関西花の寺二十五霊場、第一番札所 丹波あじさい寺で、知られています!
表門・・
何があるのだろうかと、登ってこられるようですが・・・ 「何もないやん!!と下のお寺まで大きな声(なげき声)が聞こえてきます 人生も同じです・・ここを登り切れば何かいいことがあるだろうと期待しますが、何もないのが人生です しかし「何もない人生」の中に、深い意味を感じとって生きる そこに人生を生きる本当の意味があるのです ・・・案内板?より引用 |
その展望台からの眺め・・・
・・なにも無いことはない・・人生もそう・・・人それぞれの考え方、見方、感じ方の違い・・・私感!
寺伝によれば、養老四年(720年)、法道仙人による開山とされ、法道が本尊十一面千手観音菩薩を刻み草堂に安置したのが始まりだという。その後応和元年(961年)、空也により中興され七堂伽藍が建立されたと伝える。法道は兵庫県播磨地方を中心に寺院開基伝承が残る伝説上の人物である。鎌倉時代、北条時頼・貞時らの厚い庇護を受け、25余坊の寺坊が軒を並べる中本山の寺院として栄えた。しかし、天正四年(1576年)、明智光秀による焼き討ちにより焼失した。江戸中期の天明四年(1784年)には大聖院・多聞院・本堂が再建された。明治二十九年(1896年)に補陀洛山觀音寺として統合された。現在では、丹波のあじさい寺として知られている。20世紀半ば頃、秘仏本尊開帳時に万灯万華を供養しようと発願され、その万華の花としてアジサイが選ばれ、多種栽植されたのが始まりである・・・Wikipediaより引用
この観音堂は安永七年(1778年)に建築を始め、天明四年(1748年)に屋根瓦を葺き寛政七年(1795年)の縁廻り完了をもって完成したものです 構造形式は、桁行五間、梁間五間となっています 一重入母屋造向拝一間桟瓦葺となっています 正面中央及び両脇間は桟唐戸、両端は、蔀戸、左右側面は桟唐戸、蔀戸及び板壁、背面は桟唐戸、板壁からなっています 正面に一間の向拝を付する五間堂の標準的なもので内部の随所に彫刻を用い、いずれも年代的特徴をよく表しており、規模も大きく立派な建物です・・・説明板より引用 |
背面・・・桟唐戸、板壁
「P」から見た、観音寺・・・そびえている大杉は、観音杉とある・・・
訪れた、3月20日は、桜の開花までは少し早かった・・紫陽花は勿論、時期ではない!
目的が、中井権次一統の足跡と、府指定文化財を訪ねてきたわけですから、・・・ね!
しかし、本堂の彫物は、見られないと分かっていても、残念です・・・
お寺の本堂、堂内の彫物は、拝見できないのが、当たり前ですが・・・(^^;)
参拝日:3月20日
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