昔、昔・・この奥まで、年に数回来ていました・・・そう、中国道、西宮北ICから、69.8km・・・
そう、遠くはないのですが・・・観光で山崎町を散策するのは初めてです・・(*^_^*)
まずは、左図、下部の赤丸、山崎藩、陣屋門(紙屋門)を尋ねます 県指定景観形成重要建造物の街並みを・・・ 次に大同八年(807年)に鎮座したと伝わる山崎八幡社へと・・ しかし、道、間違え、もみじ山、篠ノ丸城跡へと向かってしまったのです・・・(^_^;) |
史跡 宍澤城本丸跡の石碑・・
建物は、史料館・・図書館で閲覧希望を申し出て、鍵を開けてもらわなくてはならない・・・
山崎小学校・・・表御門跡・・・(写真中央に石碑あり)
・・・おおぉ、今日は入学式か・・ピカピカの一年生・・・ええなぁ!
次に大同八年(807年)に鎮座したと伝わる山崎八幡社へと・・
なにを血迷ったか・・・道、間違え、もみじ山、篠ノ丸城跡へと向かってしまったのです・・・(^_^;)
で、山登っていき、篠ノ丸城跡の「P」へ到着・・・
篠ノ丸城跡まで、700m、往復1.4km・・・う~ん? 時間的に無理・・断念!
そして・・・黒田官兵衛と山崎城・・
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で、官兵衛の居城として「播磨山崎城」が登場しました。筑前黒田家の歴史書『黒田家譜』の天正八年(1580年)の箇所には、羽柴秀吉により播磨・但馬が平定された後の官兵衛の動向に関して、次のように記述されています
「孝高ハ元来幡州ノ国士にて、秀吉の謀臣たるによって、但馬にハつかハされず、幡州宍栗郡山崎の城に居らしむ。」 (黒田孝高はもともと播磨の出身で、秀吉の参謀であったため、但馬には派遣されなかった。播磨宍粟郡の山崎の城に居城した。)
この「山崎の城」は、江戸時代に築城された平城の「山崎城」(鹿沢城・山崎町鹿沢)ではなく、室町・戦国時代に築城された山城である「篠ノ丸城」(山崎町横須)ではないかと推定されています・・・宍粟市宍粟歴史トピックスから引用いたしました
そうなんや!・・って、唯々、感心するだけ・・どれが、史実か?・・・いやいや、歴史って、分からないから、面白いのでしょうね・・・
山崎町訪問有難うございます。老松酒造はサンショウ(三笑)から分家した酒屋です。サンショウが本家門前屋です。その門前屋と私の先祖は兄弟です。どちらの姓も前野です。
返信削除ちなみに紙屋門を資金提供した紙屋も、私の遠い親戚です。
ご覧いただきありがとうございます。
削除貴重な情報、ありがとうございます。
また、伺いたいとおもいます。
私の家系は明治時代には山崎で紙屋と名乗ってました。そのご苗字が変更されており経緯は分からないのですが。現在も紙屋という名前の方はいらっしゃるのでしょうか?
返信削除ご覧いただきありがとうございます。8月のコメントいただいた方が紙屋が遠い親戚との記述がありましたよ。ご参考までに。
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