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2019年5月10日

新緑の山間を北へ走ります・・・最初の目的地は兵庫県豊岡市出石です

五月晴れって、こんな日を天気を云うのですね!
空、澄み渡り、青く、ポツッと綿雲が浮かぶ、そんな天気の日、新緑の山間を北へ走り、兵庫県豊岡市出石へやってきました

出石城址・・・2018年4月、桜見物できました
https://a-shi-a-to.blogspot.com/2018/04/blog-post_17.html
そして、その撮影中、PentaxK3Ⅱが突然壊れたのです・・・
いまとなれば、それがきっかけで、PentaxK1Ⅱを購入することになろうとは・・・
と、いうことで、今回の写真は、PentaxK1Ⅱでパチリです


空、青く、新緑と常緑樹の緑とのコントラストの対比は見事です
実に美しい・・・この時期だけのプレゼントですね

登城門へ・・・続日本100名城に選定の横断幕が誇らしげです

出石城は慶長九年(1604)、小出吉英により築かれた城で、当時の城域は東西約400m南北約350mあったとされています。
明治元年に建物は全て取り壊されましたが、現在では隅櫓や登城橋、登城門が建築されています。


そう、ここでPentaxK3Ⅱが壊れました

有子山稲荷神社へ
・・・新緑と、赤い鳥居の取り合わせもイイすね!



稲荷曲輪から望む本丸跡、辰鼓楼、城下町です
・・・桜祭りの片付けが行われていました・・・

本丸跡から石垣を・・・

本丸跡、東隅櫓


時は、お昼・・・出石そばを食べましょう!
しかし、10連休の後、お目当てのお店は臨時休業・・・
仕方ない、別のお店を探しましょうかね






2018年11月22日

山口県萩市への旅・・No19、伊藤博文別邸・・ 山口県萩市椿東1511-1

秋、行楽の時季、行先は山口県萩市、島根県津和野への2泊3日の旅しています・・・

山口県萩市の文化施設を巡っています・・・伊藤博文別邸を訪ねます
実は、正面玄関の写真を取り忘れたいたようです・・・SD 内に、無いのです

と、いうことで、パンフでご容赦を・・・

「P」から見上げる、伊藤博文別邸、離れ座敷の二階部分

長州ファイブ・・・
・・・文久三年(1863)、英国に密航留学した長州出身の五人の若者たち
伊藤博文(春輔)・井上馨(聞多)・山尾庸三・井上勝(野村弥吉)・遠藤謹助一

伊藤博文別邸・・・
別邸は、伊藤博文公が明治40年(1970)に東京都下荏原郡大井村に建てたもので、車寄せをもつ玄関の奥に中庭をはさんで向かって右に西洋館、左に書院を配し、さらにその奥に離れ座敷、台所、風呂及び藏を備えた広大なものであった。当地へは往時に面影をよく残す玄関、大広間、離れ座敷の3棟を移築した。明治時代の宮大工伊藤万作の手によるもので、大広間の鏡天井、離れ座敷の節天井など意匠に優れている


離れ座敷、一階の奥座敷の床の間・・
・・・掛け軸は、伊藤博文書でしょうね?・・・菊屋家住宅で拝見した書体と同じです


離れ座敷、二階

玄関の間付近より 石灯籠
・・・笠部分にある「紋」・・・説明員さん曰く、天皇家ゆかりの紋と・・


萩市指定史蹟 伊藤博文旧宅

この建物は、最初、水井武兵衛(伊藤尚右衛門)の居宅せあったが、安政元年(1854)に博文の父十歳が一家をあげて伊藤家に入家してからは、博文の居宅となった。ここで、吉田松陰の門下に入って教育を受け、志士として活躍した。
明治元年(1868)に兵庫県知事に赴任するまでここを本拠とした。
その後、明治憲法制定の任にあたってその功を遂げ、初代内閣総理大臣に就任するなど政府の要職を歴任した


またまた、写真が無い! 萩市観光協会サイトより引用いたしました


萩市文化財施設を巡ってきました
一軒、100円が必要ですが、全部を周るのであれば、一日券がお得! 
・・・なんと・・・300円です


対象施設の内、旧厚狭毛利家萩屋敷長屋は、萩城跡の入場料に含まれますが・・・
私・・・全部、拝見いたしましたので、大変リーズナブルでした・・・よ!

萩市文化財施設拝見も少々、体力がいりますね・・・
伊藤博文別邸までは、「α君」での移動ですが、それまで本日、歩いた歩数は・・・
なんと、17652歩でした・・・頑張りました




2018年11月21日

山口県萩市への旅・・No18、桂太郎旧宅・・山口県萩市川島73-2

秋、行楽の時季、行先は山口県萩市、島根県津和野への2泊3日の旅しています・・・
・・・水と暮らした城下町・・「萩・藍場川」を訪ねます


萩市指定歴史的景観保存地区、藍場川


この川は、川島から市内を流れて平安古に通じている。
当初は田畑へ水を引く小溝であったが、延享元年(1744)に開削しえ阿武川と新堀川を結んだものである。農業用水路のほか、川舟を通して川上から薪炭などを運ぶのに用いられた。
今も川舟の向きを変えるための舟廻しや、舟が通りやすいように、より高く持ち上げられた石橋がいくつも見られ、昔日の面影を留めている。
川沿いには板囲いの洗い場を造ったり川水を庭の池に引き入れた古い家も多い。
昔は、大溝と言ったが、幕末江向の川端に藍場ができたため、いつのまにか、藍場川と呼ばれるようになった
・・・藍場(藍玉座)・・藍色の染料となる藍玉を製造した所・・・



桂太郎旧宅を訪ねます

市指定史跡 桂太郎旧宅

この旧宅は、桂太郎が少年時代を過ごした地に、明治42年(1909年)に建設されたものです。主屋は派手さを抑えており、規模も比較的小さなものになっていて、藍場川沿いの生活を穏やかに楽しむために造られています。また、藍場川の水を引き込んだ流水式池泉庭園は、建物にやや遅れて造作されたもので、懸石と呼ばれる萩地方独特の石組等に特徴があります。



上見取図からみると、下写真は「次の間」となっています


桂太郎略歴

桂太郎は弘化四年(1847)11月28日、萩藩士桂輿一右衛門の長男として萩城下平安古に生まれ、3歳のときに同じ城下の川島に移り住みました。
幕末期の四境戟争では石州口の戦いに参加し、凱旋後は明倫館に入学しています。
戊辰戟争では奥州潜鎮撫総督府府に従って転戦しました。
明治3年(1871)にドイツへ留学、普仏戦争(フランスとドイツの戦争)におけるドイツの圧倒的な勝利を見て、帰国後は日本の陸軍をそれまでのフランス式からドイツ式に改め、軍隊の近代化に貢献しました。陸軍大将、陸軍大臣を経て明治34年(1901)に第一次桂内閣を組織し、翌35年(1902)には日英同盟の締結に成功、その後明治41年(1908)、大正元年(1912)と計3度内閣を組織しました。
たえず惜しみなく笑顔を作りながら相手の肩を叩いて好感度を演出することから「ニコボン首相」のニックネームがつけられましたが、政治家として調整能力にも長けており、明治後期から大正初期にかけての国事多難な時期に手腕をふるい、日本が世界有数の近代国家となる上で大きく貢献しました。
大正2年(1913)10月10日数え年67歳で病死しました。
墓所は、遺言により東京都世田谷区の松陰神社の吉田松陰墓所近くにあります。
桂太郎は松下村塾の門下生ではなかったが、吉田松陰を尊敬しており、死去にあたっては、墓所を松陰墓所近くにおくことを遺言したのである。・・・案内パンフより引用


流水式池泉庭園

ちと、角度を変えて・・・懸石と呼ばれる萩地方独特の石組を!


拓殖大学と桂太郎銅像・・・
・・桂太郎は、軍隊の育成だけでなく人材の養成にも力を注いでおり、明治33年(1900)に現在の拓殖大学にあたる台湾協会学校を創設しました。
銅像は、拓殖大学が創立100周年を記念して平成12年(2000)に桂太郎ゆかりの地である萩市に寄贈されたものです


まるまる太った「鯉さん達」です

桂太郎・・・3度内閣を起こした総理大臣、そして拓殖大学創設・・恥ずかしながら、全く知りませんでした



2018年4月17日

出石城跡・・兵庫県豊岡市出石町内町

兵庫県豊岡市出石町、出石城跡を歩きます

何年ぶりか? 
いや、2017年8月24日、中井権次一統の足跡を巡って、城跡から北東の、「経王寺」を訪ねました
https://a-shi-a-to.blogspot.jp/2017/08/blog-post_24.html
その時は、夏、暑いとか、時間がとか、色々、言い訳しながら、城跡前を通過していきました

有子山城跡・・・下写真、奥、中央の山頂に展望台?がみえますね・・・
この有子山城跡・・・国指定史跡、続日本百名城選定です

しかし、この時期の山は、実にキレイです・・・紅葉より、新緑のほうが好きですね!
緑色の各色?が、楽しめます


出石城跡・・現在、築城410年を超える、豊岡市指定史跡

出石城は1604年(慶長九)、小出吉英により有子山の麓に築城された梯郭式平山城で、最上 段の稲荷曲輪から平地部分の三の丸まで階段状に曲輪を配置している。
城域は東西約400m、 南北約350mあったとされる。
東西の斜面に竪堀、西側に蓮池、城の周囲には水堀と土塁を巡 らせ、重要な三御門(大手門・東門・西門)は析形虎口で防御を固めていた。
本城は吉其の代でそのほとんどが完成しているが、小出氏に代わり入部した稔平忠周(忠徳)が 1702年(元禄十五)に三の丸に対面所を建設し、それまで本丸・二の丸にあった藩主御殿・政治 機関を移した。
以後、1706年(宝永三)に信州上田より入部した仙石氏ももこれを踏襲し代々居所とした なお、仙石氏のときには城内でこうのとりが飼育されていたという逸話が残っており、 まさに「こうのとり舞う城」であったことが想像できる 1868年(明治元)に出石城の建物は全て取り壊されたが、1968年(昭和43年)に本丸東西に隅櫓が、1994年(平成6)には登城門が 建築され登城橋も架けられた
現在、築城410年を超える名城として多くの人々が訪れている


城内からみた、登城門、登城橋・・・桜と門、よく似合います!
西の曲輪から、手前、二の丸石垣、奥、本丸跡西隅櫓をみる・・
二の丸跡・・・
・・・実は、ここで、トラブル発生です・・・
それは、PentaxK3Ⅱが、突如、壊れました・・それは、シャッターが切れません
原因は、分かりません・・・ここで、Pentaxへ電話して対応を!! その待ち時間30分
ホント、また、トラブルか! 困ったもんです、このPentaxK3Ⅱ・・
サブ機のSONY-RX100で撮影は続行します
本丸です

              感応殿


藩主仙石家の祖、秀久・・・仙石権兵衛秀久(1552~1614)は古くから豊臣秀吉に仕え、いち早く出世した。九州攻めでの失敗で秀吉の怒りに触れ改易となるも、小田原攻めで 奮戦し(地名・仙石原の由来)信州小諸城主として返り咲いた。天下の大泥棒・石川五右衛門を捕らえた豪勇としても知られている。本丸に建つ 感応殿は、明治期に仙台家旧臣が造営したもので、中には小諸時代から伝わるとされる秀久の木造が安置されている

本丸跡・・・東隅櫓
狭間から覗いて・・辰鼓楼が見えます

稲荷曲輪の高石垣
本丸より稲荷曲輪を見上げる。高さ13.5m、但馬地方で最大規模を誇り、築城時の土木技術の高さがうかがえると・・
稲荷曲輪・・・稲荷神社と同じ場所です
稲荷曲輪から望む本丸跡、東隅櫓、そして、辰鼓楼、城下町です

山里丸・・城内で最も年代の新しい石垣が残り、算木積や矢穴が見受けられる
今年最後の花見ですね・・・八重がキレイです
桜の時期としては、終わりですが、八重が楽しませてくれました
そして、ここも、外国人観光客で賑わっていますね・・・それはそれで、結構なことです

残念なことに、PentaxK3Ⅱが、突如、壊れました・・・修理の手配など、約1時間ほど足止め!
そして、この後の神社参拝予定は変更を余儀なくされます
そうなれば、出石城下町をブラブラと、そして、そう、出石皿ソバを・・とね!
それも、ありですね・・・(*^_^*)




2018年4月3日

新宮神社、新宮古墳・・篠山市の神社巡り・・兵庫県篠山市郡家177

篠山市の神社を巡ります

篠山市郡家177、新宮神社と新宮古墳です

県道301号線沿い、毎度のことなれど、何度この前を通ったことか・・・「P」がね!
でも、今回は手前の、空きスペースに「α君」を停めて、歩きます
じっくり見れば、小山が見えます・・・そう、市指定史跡、新宮古墳です

市指定史跡 新宮古墳案内と、丹波篠山五十三次の石標

新宮古墳は、篠山市郡家に所在し、古墳時代中期(5世紀)後半に築かれた円墳である 新宮神社の背後に位置し、墳丘の規模は直径約52.5m、高さ約7mであり、篠山盆地に築かれた円墳としては 最大の規模を有する。古墳の周囲は周壕が巡っており、その規模は径約87.5m、幅18.5mある
貞享四年(1687)に編纂された「篠山領地志」にあり、墳丘を堀削したところ石室内には甲冑や太刀があったお という。新宮神社には2枚の板石が保存されており、石室に関するものと考えられている
新宮古墳はその規模から、当時の篠山盆地における有力者の墓である可能性が高く、時代が下がり郡家 周辺に設置されたと推定されている多紀郡衙との歴史的なつながりを考える上で重要な史跡である


新宮神社、拝殿
覆い屋と社殿・・・姿を見せないよ!
手水鉢・・・文政七(1824)年と読める
うん? これは、これは・・・27個の「盃状穴」が・・・
・・・一つの手水鉢にこれだけの「盃状穴」は見かけないですね・・・

・・・盃状穴について・・・
盃の形に回転により擦りあけた穴のこと・・・
一説には子孫繁栄と五穀豊穣を願った説と陰陽の陰の説もあり、穴に鯨の油などを入れ灯明としたともいわれています。現在、盃状穴は謎が多く学会でも解明されていないそうです。

石に対する信仰は日本でも古くから存在した。盃状石は縄文時代から作られている。元々は磐座に彫られ、子孫繁栄や死者の蘇生を願ったものとされている。
古墳時代には古墳の棺に彫られた。
鎌倉時代には村の入り口に魔よけの目的で作ったり、神社の灯篭や手水石等に彫る事が多くなった。東大寺の転害門に彫られた盃状穴もこの頃に彫られた物である。
江戸時代には従来の目的に加えて、昔作られたものを元にして新たに数多く作られた。盃状穴信仰は維新後も残り、昭和初期までは作られていたという説もある。

日本では明治時代に坪井正五郎や鳥居龍蔵によって考古学的な研究が行われたが、その後の考古学者の興味を引く事はなく、あまり研究は行われてこなかったようである。
最近は民俗学の学者が研究している・・・Wikipediaより引用

東側から古墳をみるが、鬱蒼とした木々で形も分りませんね