篠山市の神社を巡ります
篠山市郡家177、新宮神社と新宮古墳です
県道301号線沿い、毎度のことなれど、何度この前を通ったことか・・・「P」がね!
でも、今回は手前の、空きスペースに「α君」を停めて、歩きます
じっくり見れば、小山が見えます・・・そう、市指定史跡、新宮古墳です
新宮古墳は、篠山市郡家に所在し、古墳時代中期(5世紀)後半に築かれた円墳である 新宮神社の背後に位置し、墳丘の規模は直径約52.5m、高さ約7mであり、篠山盆地に築かれた円墳としては 最大の規模を有する。古墳の周囲は周壕が巡っており、その規模は径約87.5m、幅18.5mある
貞享四年(1687)に編纂された「篠山領地志」にあり、墳丘を堀削したところ石室内には甲冑や太刀があったお という。新宮神社には2枚の板石が保存されており、石室に関するものと考えられている
新宮古墳はその規模から、当時の篠山盆地における有力者の墓である可能性が高く、時代が下がり郡家 周辺に設置されたと推定されている多紀郡衙との歴史的なつながりを考える上で重要な史跡である
新宮神社、拝殿
・・・一つの手水鉢にこれだけの「盃状穴」は見かけないですね・・・
・・・盃状穴について・・・
盃の形に回転により擦りあけた穴のこと・・・
一説には子孫繁栄と五穀豊穣を願った説と陰陽の陰の説もあり、穴に鯨の油などを入れ灯明としたともいわれています。現在、盃状穴は謎が多く学会でも解明されていないそうです。
石に対する信仰は日本でも古くから存在した。盃状石は縄文時代から作られている。元々は磐座に彫られ、子孫繁栄や死者の蘇生を願ったものとされている。
古墳時代には古墳の棺に彫られた。
鎌倉時代には村の入り口に魔よけの目的で作ったり、神社の灯篭や手水石等に彫る事が多くなった。東大寺の転害門に彫られた盃状穴もこの頃に彫られた物である。
江戸時代には従来の目的に加えて、昔作られたものを元にして新たに数多く作られた。盃状穴信仰は維新後も残り、昭和初期までは作られていたという説もある。
日本では明治時代に坪井正五郎や鳥居龍蔵によって考古学的な研究が行われたが、その後の考古学者の興味を引く事はなく、あまり研究は行われてこなかったようである。
最近は民俗学の学者が研究している・・・Wikipediaより引用
東側から古墳をみるが、鬱蒼とした木々で形も分りませんね
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