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2020年4月25日

棚原桜塚古墳・・・兵庫県丹波市春日町棚原

丹波市春日町鹿場から、県道69号線へ出て、丹波の山城、黒井城址方面へ向かいます
下写真、前方の山は、三尾山、そう、三尾城が築かれた山です
大河ドラマ、「麒麟がくる」・・・明智光秀が攻め落とす城址です
ドラマでは丹波攻めは登場するでしょうが、三尾城が登場するかどうかは、わかりません

良い天気に恵まれました
二度目ですが、良きところです・・・お気に入りの場所になってしまいました


県道69号線を走っていると、左手に満開の桜が・・・・
ふと、みれば、案内板が・・・こういうのを見逃さないのです・・・私!

「α君」を停めて、説明板を読んでみました

昭和45年に県道バイパス工事新設予定地に径約十メートルの横穴石室をもつ古墳時代後期(600年代後半)の円墳があり発掘調査した。
この古墳は平坦な耕地の中に昔よりあり、往古の豪族の墓といわれていた。
発掘により、須恵器・土師器と共に、六世紀後半から七世紀前半のものと思われる「金銅総張りの太刀」が出土した。
この太刀の長さは62cm、刀身は腐食、柄部は修復され丹波市指定文化財として春日町歴史民俗資料館に保管されている。
調査後残念ながら古墳は消滅し、新設した道路脇に石材が移されて積まれ銘碑が建てられている・・・



       そういう場所だったのですね


しかし、見事な桜です

古墳は、興味もないこともないのですが・・・こういうふうに、案内が出ていれば訪ねますが!
ここは、六ッ塚古墳群の東南にあたる場所らしい

ちなみに、棚原、六ッ塚古墳群・・・
兵庫県立氷上養護学校の南山麓にある、6基からなる古墳群。古くより六ッ塚と呼ばれていたが、土地改良整備事業の過程で農道三差路脇の5-6号墳は、消滅している。1号墳は山麓の一番高所にあり。2号墳は1号墳の東北農道わきにある。3号墳は2号墳の南南東、1号墳の東南東に位置している。また4号墳は3号墳の西南西にあり、それぞれの古墳は距離をほぼ同じくしている。1-3-4号墳は盗掘状態であるが、1号墳は未盗掘墳と判断される。墳径12m、高さ3m。天井石の一部が露出している。さらに1号墳の上部にも2基の古墳の痕跡が確認されている。この古墳群の東南、県道脇にはこの古墳群とつながりが深いと考えられる、桜塚古墳が所在する・・・丹波市の古墳から引用

追記:この記事中の写真撮影日は緊急事態宣言発令以前の撮影分です


今回の地図は、国土地理院から引用しました(地図、上赤マークが棚原桜塚古墳)




2018年4月3日

新宮神社、新宮古墳・・篠山市の神社巡り・・兵庫県篠山市郡家177

篠山市の神社を巡ります

篠山市郡家177、新宮神社と新宮古墳です

県道301号線沿い、毎度のことなれど、何度この前を通ったことか・・・「P」がね!
でも、今回は手前の、空きスペースに「α君」を停めて、歩きます
じっくり見れば、小山が見えます・・・そう、市指定史跡、新宮古墳です

市指定史跡 新宮古墳案内と、丹波篠山五十三次の石標

新宮古墳は、篠山市郡家に所在し、古墳時代中期(5世紀)後半に築かれた円墳である 新宮神社の背後に位置し、墳丘の規模は直径約52.5m、高さ約7mであり、篠山盆地に築かれた円墳としては 最大の規模を有する。古墳の周囲は周壕が巡っており、その規模は径約87.5m、幅18.5mある
貞享四年(1687)に編纂された「篠山領地志」にあり、墳丘を堀削したところ石室内には甲冑や太刀があったお という。新宮神社には2枚の板石が保存されており、石室に関するものと考えられている
新宮古墳はその規模から、当時の篠山盆地における有力者の墓である可能性が高く、時代が下がり郡家 周辺に設置されたと推定されている多紀郡衙との歴史的なつながりを考える上で重要な史跡である


新宮神社、拝殿
覆い屋と社殿・・・姿を見せないよ!
手水鉢・・・文政七(1824)年と読める
うん? これは、これは・・・27個の「盃状穴」が・・・
・・・一つの手水鉢にこれだけの「盃状穴」は見かけないですね・・・

・・・盃状穴について・・・
盃の形に回転により擦りあけた穴のこと・・・
一説には子孫繁栄と五穀豊穣を願った説と陰陽の陰の説もあり、穴に鯨の油などを入れ灯明としたともいわれています。現在、盃状穴は謎が多く学会でも解明されていないそうです。

石に対する信仰は日本でも古くから存在した。盃状石は縄文時代から作られている。元々は磐座に彫られ、子孫繁栄や死者の蘇生を願ったものとされている。
古墳時代には古墳の棺に彫られた。
鎌倉時代には村の入り口に魔よけの目的で作ったり、神社の灯篭や手水石等に彫る事が多くなった。東大寺の転害門に彫られた盃状穴もこの頃に彫られた物である。
江戸時代には従来の目的に加えて、昔作られたものを元にして新たに数多く作られた。盃状穴信仰は維新後も残り、昭和初期までは作られていたという説もある。

日本では明治時代に坪井正五郎や鳥居龍蔵によって考古学的な研究が行われたが、その後の考古学者の興味を引く事はなく、あまり研究は行われてこなかったようである。
最近は民俗学の学者が研究している・・・Wikipediaより引用

東側から古墳をみるが、鬱蒼とした木々で形も分りませんね




2016年2月9日

八幡神社、お笑い神事・・・兵庫県西脇市内を散策します・後半+1!

西脇市には、八日山の麓に大声で笑って豊作を祈願する「お笑い神事」で有名な八幡神社があります・・

新しくなった、一の鳥居・・・この長~い、参道が初詣の折、ずらりと提灯が灯ると・・・・
・・・右横の建物は、市立西脇病院・・・
二の鳥居の付近に神社「P」がありますので・・そこへ向かいます!
二の鳥居の「P」に到着したら、MAPでの神社「P」がありません・・仕方なく、工事されている方にお聞きすると・・・
う~ん! あっちのフェンスの所だが・・今日は、境内へそのまま入っていいよ!・・って!
うん? もしかしたら、宮司さん・・・・
それではと、坂道上がると・・・おおおぉ、広い・・・さすが、この中に堂々と「P」できません・・
端っこに、「P」 させていただきました・・・m(_ _)m

この広場・・化粧屋台(四台)や子供神輿が宮入りするためらしい・・・!
この赤い色の舞台も、例大祭時、舞奉納の舞台と・・・
拝殿へ、横幅の広い石段をあがります・・・!

創建は、平安時代早期の元慶元年(877年)・・創建当時よりの建物はなく、現在の本殿は嘉永二年(1849年)
弊殿及び拝殿は明治四十年(1907年)の再建とある・・・
拝殿・・蟇股の龍・・・うん? 

神事が行われたのか、拝殿の戸、開いています・・参拝いたします!

・・・この彫り物もいいすね!

拝殿の右側に・・・境内に発見された古墳について・・・と、ある

この古墳は昭和三十一年、当社境内の拡張工事中に発見されたもので、今から約一千三百年ほど前のものですと・・中略・・
この古墳は地元の有力な貴族を葬ったもので、直径5mほどの円墳形式をとり、表土下55cmの所に主体の石室をつくっていました
石室の形状は箱式石棺で内のりの長さ186cm、幅45cm、高さ30cmをもち、この種の石棺では優秀な部類と・・案内板より引用

石棺・・・
石棺の位置からみる、本殿・・・・
肝心な向拝部分がみえませんね!・・
三間社流造 正面千鳥破風 檜皮葺 向拝正面に唐破風とみますが・・・
檜皮葺は新しいですね・・・・平成23年葺き替えられたとあります
垣間見える、左右脇障子、木鼻、蟇股の彫り物もいいすね!

・・・備忘録記するときに判明したのですが、なんと、中井権次橘正貞の作と神社説明にあります!
中井権次一統の作品集 一覧には、記載されていません・・・大発見か?・・(*^_^*)
そうと知っていたら、もう少し、工夫して写真撮ったのですが・・・本殿、ガードが堅いのです!
写真下・・・一番奥に「α君」、「P」しています・・広大な境内がおわかりでしょう・・・

大声で笑って豊作を祈願する「お笑い神事」で有名な八幡神社・・・
ご祭神である応神天皇が幼少のころ、大臣の竹内宿袮や付き人が相撲をとってあやしている様子が、このユニークな神事の由来だと伝わります・・・西脇まちなかMAPより引用
写真上、左端から応供寺跡へと続く小道・・肝試しコースと・・・ああぁ、恐!
現存するのは、阿弥陀仏堂と鐘楼堂の礎石のみ・・
応供寺にあったといわれる室町時代の十二天の掛け軸が郷土資料館に保管されていると・・・
境内へ戻り・・通らなかった、随身門を・・・
         社務所脇に立つ・・・ご神木?
          

八幡神社の珍しいお笑い神事とは・・・
氏子四区、二名ずつ、計八人が御神前で輪になって「お笑い、お笑い、アッハッハー!!」と声高らかに発生しながら時計回りに三度回るもの・・と・・・


今回の西脇市散策で、使わせていただいた、西脇まちんなか歩こうMAP・・西脇TMO制作です・・・

西脇TMOとは・・・西脇商工会議所が母体となる認定構想推進事業者です。
タウン・マネージメント機関で、関係する機関や団体との連携を図りながら、西脇市商業タウン・マネージメント構想の具体化に向けて中心的な役割を担う役目をしています。
西脇市、活性化のための、ここを起点にまちづくりを展開しています・・・と、あります!

・・・がんばれ・・西脇市!!・・・








2015年5月4日

雲部車塚古墳・・・兵庫県篠山市東本庄!

番外・・・通りすがりに県道702号線沿いの道標に・・・雲部車塚古墳があったので、ちょっと、寄り道!
勿論?・・丹波篠山五十三次・・雲部車塚古墳とある・・・

陵墓参考地・・雲部車塚古墳
五世紀初頭頃(古墳時代中期)に築造された前方後円墳である
墳丘の長さは140m、後円部は径80m、前方部は幅83m、高さ12m、盾型の周豪を備えいる。
外側に周庭帯をめぐらしており、独立丘陵からの尾根を切断して墳形を整えている。 陪塚と呼ばれる従属古墳を墳丘の両側に配置するなど非常に整った前方後円墳として知られている。
明治29年(1896年)後円部より竪穴式石室が発見され内部に長持型石棺が納められ、朱が塗られた様子が明らかになった。
出土遺物には甲冑や刀剣、槍などの鉄製品が確認されている。
している。 被葬者は、崇神天皇のころ四道将軍の1人として派遣された、丹波道主命との説話もあり、宮内庁より墳墓参考地に指定されている。  しかし、現在5世紀の築造で、国造級の墳墓との推定が一般的である。  いずれにしても、大和と山陰方面を結ぶ重要地域の篠山盆地に大勢力を誇った集団が存在していたことを物語るものである。・・・案内板及び丹波篠山五十三次資料より「引用


この地域が縄文時代からいろんなことに出くわすのは、大変、魅力的なところなのでしょうね!
自然に包まれて、天気の良い日に車の往来も少なく、「ブラリ、のんびり」・・と走るのも楽しいものです!!

中井権次の足跡を巡る・・を続けましょうか!!



追記:訪問日 4月23日

先日、NHKで明治の森??計画・・ちょっと不明m(_ _)mを視ました
150年計画で、人間が計画的に植樹してその後は一切、手を加えないで自然に任せ、森を造る・・
いや、見事でしたね・・古墳も、今は立ち入り禁止ですから、自然の宝庫ですよね!
先日、訪れた、仁徳天皇陵も、そりゃ、すごい森でしたから・・・・うん?・私感です!



2015年5月3日

稲荷山古墳、清五郎稲荷・・・兵庫県篠山市小田中!

番外・・・櫛岩窓神社をでて、わずか数分・・・国道173号線を走っていると・・
篠山市指定文化財、稲荷山古墳・・・小田中公民館前

稲荷神社の境内から古墳へいくようですが、その登山道を見て、う~ん?これは・・諦めます!

稲荷神社の後背丘陵上に築造された全長28mの前後円墳である。東方向へ開口する横穴式石室は、横長の玄室に細長い羨道が付くT文字型プランで、天井石が1個になるように、壁石をアーチ型に積んである。
横穴式石室の古墳は、大陸の形式と言われる。・・・一部省略・・・左案内板より引用
・・・この古墳は渡来人の墳墓だろうと推測され、奈良県明日香村出土の木簡に「旦波國多貴評草上里漢人部□□□(たんばのくに たきのこおり くさかみのさと あやひとのべ)」とあり、注目されてると、あります!・・篠山市観光案内「丹波篠山五十三次ガイド」より 引用

勿論、稲荷神社、参拝します!


拝殿の奉納絵馬

今から約175年前の文政年間のある年のこと、江戸両国の回向院広場の将軍上覧大相撲の最中、篠山から参りましたと、小田中清五郎ら8名の力士が現れ、全員が勝ち続けた。
これにより、時の老中・篠山藩青山忠裕公は大いに面目をほどこすことができた。後に、それぞれ領内のお稲荷さんとわかり大変感謝したという・・・「丹波篠山五十三次ガイド」より 引用


本殿

石碑・・・丹波篠山五十三次 清五郎稲荷 稲荷山古墳とある


では、走ります・・・


追記:訪問日 4月23日





2015年2月8日

仁徳天皇陵古墳・・・大阪府堺市!

仁徳天皇陵古墳・・・誰もが知っている?・・日本最大の前方後円墳・・・

大阪府を商いの場所として、堺市も商圏として・・仁徳天皇陵付近を走って、はや、数十年・・
国道310号線沿い・・堺市から東へ向かう右手に見える小さな山・・仁徳天皇陵とは知ってはいるものの、正面から参拝することもなく・・・・

今日、初めて、仁徳天皇陵古墳を・・・百舌鳥野の古代文化遺産をたずねて・・・です!
堺市観光協会にていただいた、パンフ・・2種の表紙です・・・「世界文化遺産を大阪に」・・!!

さぁ、まいりましょうか・・・・! 大仙公園の「P」に「α君」を停め・・・仁徳天皇陵のみで終わるのであれば、古墳の前に「P」はありますが、駐車できる台数も数台!・・・大仙公園もウロウロしたく・・・・

その古墳の前「P」に立つ、案内説明板・・・・正式名称、仁徳天皇百舌鳥耳原中陵・・・案内板より・・・
我が国の前方後円墳として最も大きいのが、仁徳天皇陵です
墳丘は全長480m、前方部の幅305m、後円部の直径245m、周濠を含めた東西の長さ656m、南北の長さ793m、周囲2718m、面積464,124㎡となっていて、その大きなことから大仙陵と呼ばれています・・正式には「仁徳天皇百舌鳥耳原中陵」と、言います
日本書紀によると、仁徳天皇67年の冬10月5日に河内の石津原(堺市石津町~中百舌鳥町一帯)に行幸して陵地を定め、同月18日から工事を始めました
陵名の由来は、陵墓造営中に野から鹿が走り込んできて絶命。その鹿の耳の中からモズが現れたことから地名を「百舌鳥耳原」と名づけたと記されています
3段に築造した前方後円墳で両側に造り出しをもち、その墳丘をめぐって3重の周濠がつくられ、その外側に12の陪冡がつくられています 墳丘に周濠となっている所から土を運んだと考えると、毎日1000人が働いて4年かかると計算されます。そのうえに、墳丘に並べる葺石の運搬、20000個以上の埴輪の製作と運搬、中堤の築造、陪家の造営など加えると、莫大な労力がついやされたものと思われます
徳川時代の中頃までは、陵墓の管理が充分に行われていませんでしたが、寛永5年(1852年)ときの堺奉行川村修就はこれを憂いて後円部上にあった勤番所を裏門に移し、天皇を葬ったと思われる後円部200坪に高さ3尺の石の柵を設けて、陵内を整備したと伝えれています
明治5年9月、前方部正面の2段のやや上がくずれ、立派な石積みの石室が発見されました
長持型石棺というすばらしい石棺と、石室面の間から金銅製の甲冑・刀剣の断片20・ガラスの椀などがみつけられましたが、もとの通り埋めたといわれています。この石棺と甲冑を精密に写した図が残っていますので、相当、具体的に知ることができます・・・・

因みに天皇、皇后、皇太后の墓は「陵」、その他の皇族の墓は「墓」、皇族の墓の可能性のある墓所を「陵墓参考地」・・日本全国に188の陵、552の墓、46の参考地・・・宮内庁管轄である

では、拝所へ・・・・
正面です・・m(_ _)m
周濠・・・写真左下:正面に向かって右側   写真右下:正面に向かって左側
周濠の周りの遊歩道・・・道標が現在地から正面までの距離を示しています・・合計2850m・・・
ウオーキング、ランニングをされている方が多く・・・素敵な遊歩道ですね!
仁徳陵・陪冡の復元模型・・・
模型を撮影するにも斜め上からでもデジカメ、入いりませんね・・・m(_ _)m


古墳は・・全体像が、航空写真しか見られませんね・・ここは出番・・GoogleMap・・・

さぁ、仁徳天皇陵の前の大仙公園へまいりましょう・・・・