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2017年6月17日

中津城趾、周辺探索・・寺社仏閣・・・大分県中津市


中津城のパンフは、非常に見やすく、よ~く、わかりますね・・・
行かれる方は、入手してくださいね・・・どこで? 黒田官兵衛資料館です!

赤丸の部分を参拝、拝見いたします・・・



まずは、寺町・・・
西山浄土宗 赤壁 合元寺
門前より本堂を望む・・・

合元寺・・・

黒田官兵衛が姫路から恵心僧都作と伝わる阿弥陀如来を移して、空誉上人という僧を開山に迎えて寺院を建立しました
黒田氏の入国に反対した宇都宮鎮房が中津城内に誘殺されたとき、鎮房の従臣たちが、待機していたこの合元寺にも黒田の手勢が 押しかけました
鎮房の従臣は奮戦しましたが、ことごとく斬り伏せられ、壁はその血で赤く染まったそうです
その後、壁は何度も白く塗っても血が染み出してくるので、ついに赤く塗ったといいます
寺は赤壁寺とも呼ばれています・・・案内板より引用

伝承とはいえ、恐ろしいことです・・・


中津大神宮・・・

中津大神宮は、明治十四年、伊勢の神宮の大神様の御分霊を奉斎し、中津城址に創建されました。 明治十四年、神宮豊前教会として発足し、神宮教、神宮奉斎会と改称の後、 昭和二十一年、『中津大神宮』と改称され、今日に至っております。 戦前まで豊前の国、企救郡・田川郡・京都郡・仲津郡・築城郡・上毛郡・下毛郡・宇佐郡の方々に 伊勢神宮の神札(神宮大麻)と神宮暦を頒布する役目を担っておりました。 『豊前の国のお伊勢様』と親しまれ、地域の方々はもとより、多くの人々の心のよりどころとして、普く崇敬を集めています



奥平神社・・・
武運と戦勝 奥平神社御由来
ご神体は、奥平家中興の祖、奥平貞能・信昌・家昌公三柱の御祭神をお祀り申し上げております。  
のちに宇都宮城(栃木)を経て宮津城(京都)から入城した7代目奥平昌成公は中津城入城の翌年享保3年正月(1718年)、城内二の丸にあった観音院を祈祷所と改称し、11代目昌高公が天明7年(1788年)、祈祷所を長福寺と改名いたしました。
現在の中津裁判所がその旧敷地であります。  御祭神の貞能・信昌・家昌公三公は永禄3年(1561年)より元亀・天正・文禄を経て慶長19年(1619年)に至る58年間、幾多の戦功をたてられて徳川氏に忠節を尽くしてきました。  
特に奥平家2代目の信昌公は関が原の合戦後、初代京都所司代として綱紀を振るい凶賊から庶民を護りました。後世武士(もののふ)の鑑として徳川300年の礎を築き、人々から義勇と武功を称えられました・・・現地案内板より引用


盗みは、地獄行き・・・未だ、賽銭泥棒はおるのか?



中津神社・・・
中津神社は、中津大神宮の南西に隣接し、中津城本丸下段の松の御殿跡にご鎮座しております。 明治16年、六所神社・丸山神社(義氏社)・稲荷神社・蛭子神社・八幡大江神社のご分霊を合祀し、中津神社と称し、鎮祭されました。

流造りの本殿・拝殿・神輿庫等があり、公園地の入り口には石造りの大鳥居があります。
7月に斎行される例祭は、中津祇園と称し、大分県指定無形民俗文化財となっております。御神輿と祇園車と呼ばれる漆塗りの華麗な山車7台が町々をまわり、辻々では祇園車の上で踊り等が披露され、夜は境内で勇壮な「練り込み」が行われます。中津市を代表する祭りのひとつとして氏子はもとより、市内外より多くの参拝者で賑わいます・・・中津大神宮より引用・・



城井神社・・

城井神社(きいじんじゃ)
城井谷城主、御祭神 宇都宮鎮房・・・天正十五年(1587)七月豊臣秀吉は九州平定にあたり宇都宮一族は黒田孝高、長政と豊前で死闘を繰り返す
・・・一部省略・・・天正十六年(1588)中津城に招かれ酒宴の席で謀殺された
宝永二年(1705)小笠原長円は小社を建て城井大権現として崇め、その後、城井神社と改められた
・・・案内板より引用
ピンぼけです・・・m(_ _)m



扇城神社・・・
宇都宮鎮房公従臣四十五柱
黒田氏の入国に反対した宇都宮鎮房が中津城内に誘殺されたとき、鎮房の従臣たちが、合元寺にて待機していたがこの合元寺にも黒田の手勢が 押しかけました
鎮房の従臣は奮戦しましたが、ことごとく斬り伏せられました



金比羅さん?


その脇に鉄御門跡の案内あり・・・


と、いうことで、寺社仏閣を巡りました・・・中津城は、黒田家、細川家、小笠原家、奥平家と続き、今も子孫がおられるとかと・・・!
いつまでも、大事に、保存して、守っていただきたいものです・・・




訪問日:2017年5月24日





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