兵庫県宍粟市と云えば、山陽道播磨国、一宮、伊和神社・・・2016年4月に参拝いたしました・・・
http://a-shi-a-to.blogspot.jp/2016/04/blog-post_9.html
伊和神社から北へ11km20分の距離、この時に行きたかったのですが・・・訪ねることができず・・・
国道29号線、若桜街道を北上して、登城いたします・・・
宍粟市波賀市民局の前から、山登りです・・・「波賀城」という看板のとおり、走ります
勿論、林道・・・民家の間の狭い道を進み、杉林を、ドンドン登っていくと・・・到着です!
おおぉ・・・立派な「P」ですね・・・
先客がおられ、私と交代に帰っていきました・・・まさか、先客がいるとは! (^^;)
「P」から、冠木門、入り口まで、約200m・・なだらかに下ります・・・
到着しました・・・ここが、波賀城への入り口です・・・
・・・奥に櫓がみえてますね・・・
波賀城史蹟公園・・・波賀城入口にていただいたパンフ・・・(右の茅葺きが、管理棟です)
13世紀の中ころ、地頭としてこの地に移って来たのが中村氏や大河原氏です。
彼らは簿倉幕府の御家人で秩父(埼玉県秩父郡)を本拠地とした秩父丹党、丹治氏の一族です。
中村氏は初代光時から、戦国時代末期の吉宗まで、20代にわたって波賀城主であったといわれています。
波賀城 を修理、拡張し、これを拠点にして赤松氏などの支配下で勢力を維持したものと思われます。
波賀城蹟・・
現在の波賀城蹟は、このような歴史を持つ城を戦国時代末期にさらに拡張・整備した時のものと考えられます。
羽柴秀吉が播磨を制圧した時に、北の守りの拠点としたものである可能性も考えられます。
この城は山陽道と日本海側を結ぷ因幡街道や、 それと千種を結ぶ街道、三方に通じる街道を限下にする戦略的な位置にあります。
ほとんど独立した山に築かれたために麓から本丸までの 距離が短いので、途中に多くの「郭」を作って縦深をとっています
また、西朋の小山(古城)にも砦を築き、-体となって敵軍を防ぐ工夫をしています 復元された城の石垣は、中世と近世の中間的な特徴を持ち、全体の縄張りとともにこの城が過渡期のものであることを示す貴重な遺構となっています ・・・配布案内書より引用
・・・本来の順路は、通行禁止・・・危険とあります・・・
やってきました・・・波賀城・・・
眼下を望む・・宍粟市波賀町・・・いや、素晴らしい眺めです・・
波賀城のみどころ・・・石垣
波賀城の顔ともいえる当石垣は、全国でも最古式に属するし、おそらく天正年間(1573~1591)以前の成立が考えられる その特徴は、Ⅰ期、天正年間以前(~1572)波賀城の石垣には、反りがなくノリだけの稜線である 石材はレンガ状の節理にそって割れた横長石が多い コーナー部をつくる角石、角脇石といった用途別の意識はまだなく、算木積みは未発達である ・・・案内板より引用 |
復興木造二層櫓(檜皮葺)・・・
石垣の先端の丸太に座して・・・しばし、眼下の景色を鑑賞しています・・・
高所恐怖症気味なんですが、こういう風景は、最近、ちと、平気になってきましたね・・・!!
二層櫓は内部を歴史資料館「波賀城学習資料館」として公開しておりますので、扉を開けてみます・・・
年表とか、資料ありますが、デンキがない?
・・・・おおぉ、写りました・・・棟札です・・・
「P」にもどってきました・・・「P」の山側?みれば・・・
・・・「馬隠し」「城山」・・ と、ありますね
岩、石がゴロゴロしています・・・城壁か、曲輪があったのでしょうね・・・
と、いうことで、兵庫県宍粟市波賀町・・・波賀城跡、拝見しました・・・ ・・曇り空でしたが、波賀城の石垣の先端に座り、しばし、絶景を堪能いたしました・・・ 「P」までの道、「P」も、トイレもちゃんと整備されています 夜はライトアップされるようですが・・・・ よき、お城、石垣でした・・・(*^_^*) 訪問日:2017年6月20日 |
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