ページ

2017年6月17日

中津城・・・大分県中津市二ノ丁本丸

九州の旅、続きます・・・

NHK大河ドラマ、黒田官兵衛をきっかけに、各地(兵庫県)の黒田官兵衛ゆかりの地を訪ねてきました

そして、ついに九州、中津城まで、たどり着きました・・・
この中津城で、黒田官兵衛ゆかりの地を訪ねての完結となります・・・
・・・おおぉ、感慨無量の気持です・・・

さぁ、城内へ参りましょう・・・広いよ!



天守閣が見えてきました・・・

天正十六年(1588)築城 黒田孝高(如水)が豊臣秀吉の命令により九州を平定し、中津16万石を拝領して天正 十六年(1588)、中津川河口周防灘に臨むこの城を築きました。
城郭面積は23,287坪、地形が北より南方に扇状をなしているので、中津城の別名を扇 城と云います。
本丸石垣、内濠は当時のままで水門より海水が入って潮の満干で濠の水 が増減している水域です

日本三大水城・・・
中津城 築城者:黒田孝高 天正十六年(1588)中津川河口周防灘に臨む
高松城 築城者:生駒親正 天正十八年(1590)瀬戸内海に臨む 縄張 黒田孝高
今治城 築城者:藤堂高虎 慶長七年(1602)海平平城来島海峡に臨む


写真下は大鞁櫓・・・藩主の武具を納めていた櫓・・・奥は、中津市中心部です
写真左の堀は、薬研堀・・・

中津川・・・海が見える、豊前海  左手の町並みは城下町・・・
中津城本丸・・・

天守閣・・・
天守台石垣は黒田孝高の築城で「野面積」 慶長十五年、細川忠興が増築の石積みは「打込みはぎ積」 東西42m、南北40m、高さ8m

普請された現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものである

現天守閣は昭和39年、東京工業大学・藤岡道夫博士設計、地下1階5層5階 高さ23m、鯱1.4m、床面積延795㎡
奥平宗家第17代当主奥平昌 信らが中心となり新たに造営し管理、運営している・・・と!!

黒田二十四騎の名が並んでいる・・右側の像は、黒田如水と、光姫・・と、思う?・・・(^^;)
黒田本丸の石垣と細川時代の石垣
Y字状の石垣の境の、右側が黒田、左側が細川時代の石垣です
中津城ビューポイント
黒田の石垣(唐原山城)・・

薬研堀と祇園車の車輪…

本丸と二ノ丸を区切るこの堀は「薬研堀」と呼ばれています
薬研とは、漢方薬などを粉にひくために使用された道具で、底がV字になった舟形の器具に薬種を入れ 握り手が円盤状の車輪ですりつぶします
この薬研に似て底がV字形になった堀を、「薬研堀」といいます
中津城の薬研堀は川とつながっており、潮の満干で水位が上下します
堀の中にある木製の輪は、中津祇園祭で使われた祇園車の車輪です
祇園祭が終わった後、「車崩し」が行われ、車輪は泥の中に埋けられます
これは、車輪の風化と虫食いを防ぐもので、上祇園の車輪はここ中津城の「薬研堀」に一年間保管されます
祭の間近になると泥の中から掘り出す「輪堀り」という作業が行われます…案内板より引用



中津市と云えば、あの福沢諭吉、そして、双葉山・・・ですよね!
・・・記念館もありますが・・・m(_ _)m

徳川御連枝 奥平家居城 中津城の歴史・・・・
・・1717年(享保2年)、第八代将軍徳川吉宗公から西国の抑えを期待され、徳川御連枝奥平家第七代奥平昌成公が豊前中津に入府、丹後宮津から1万石加増の10万石での栄転であった
以後、1871年(明治4年)に奥平家十五代昌邁公が廃藩置県を迎えるまで、154年間に渡り中津奥平藩主の居城として城下町中津の繁栄を見守り続けた。
廃藩置県の際、藩士福揮諭吉の進言により城内のほとんどの建造物が破却され、御殿だけが小倉県中津支庁舎として存続 
しかし、1877年(明治10年)の西南戦争の際、その御殿も焼失してしまった。それから長い時を経て1964年(昭和39年)、旧藩主奥平家が中心となり、中津市民からの寄付も合わせ天守閣を建造。奥平家の歴史 資料館として、中津市民に愛され続けている・・とある・・・入場券より引用


訪問日:5月24日


2014年から、折りにふれ、「黒田官兵衛のゆかりの地」を巡ってきてました・・・
そして、この中津城が、最後の黒田官兵衛のゆかりの地として訪れました・・・

これにて、私の、知る範囲の黒田官兵衛のゆかりの地巡りの目標は達成しました・・・

神戸の地から、大分県中津市中津城を訪れるには、難しいものがありました
しかし、望郷の念にかられて来た今回の九州の旅、生誕地から黒田官兵衛まで・・色々、訪ねてきました・・・
英彦山の温泉につかり、英彦山神宮、高住神社も参拝できました・・・・ 満足する九州の地、旅でした・・

・・・故郷は、やはり、風景は変ってはいましたが、しかし、故郷は、よき、ところでした・・・





0 件のコメント:

コメントを投稿