福岡県北九州市小倉区・・やっと、来ましたね、小倉城!
・・・小倉城へ登城します・・・
いきなり登場ですが・・・小倉城、天主閣です・・・うつくしいですね!!
・・・天守閣は「唐造りの天守」と呼ばれ、四階と五階の間に屋根のひさしがなく五階 が四階よりも大きくなっているのが特徴的、そして、石垣は、野面積みです・・・
大手門跡・・・
小倉城の歴史は、関ケ原合戦の功労で入国した細川忠興によって、1602年に本格的に築城されました
し かし、1837年城内から発した火災によって全焼。2年後に再建されましたが、天守閣は再建されませんでした。幕末期になると、小倉 は長州藩を攻める第一線基地となり、その中で小倉と熊本藩は勇敢に戦いましたが、他の九州諸藩の兵には積極的な戦意がなく、つ いに1866年、自ら小倉城に火を放って戦線を後退せざるをえませんでした。
明治10年の西南戦争の際には、小倉城内に駐屯していた歩兵第14連隊が、乃木将軍に率いられて出征しました。その後は、 歩兵第12旅団や第12師団の司令部が城内に置かれました。太平洋戦争後は米国に接収されましたが、1957年に解除され、1959年市民の熱望によって天守閣が再建されました。この天守閣は「唐造りの天守」と呼ばれ、四階と五階の間に屋根のひさしがなく五階 が四階よりも大きくなっているのが特徴的です。また、城の石垣は切り石を使わない野面積みで、素朴ながらも豪快な風情にあふ れています・・・配布パンフより引用
・・・小倉城が焼失した慶応二年寅年(1866)に因んで描かれた雌雄一対の「迎え虎」(雄虎)と「送り虎」(雌虎)
その日本最大級(各・高さ4.7×幅2.9m)のある迫力ある麗筆である・・・撮影可
・・・・「千客万来」・・迎え虎・・・・
・・・・「麗虎招福」・・送り虎・・・・
大太鼓 この大太鼓は、藩政時代に小倉城天主閣の最上階に置かれており、事があるごとに 城下の人々に急を告げていたと伝えられている 慶応二年(1866)丙寅の変における小倉城炎上後、長い間行方不明であったが、昭和43年(1968) 小倉郷土会の調査により102年ぶりに発見され補修の後、復座されたものである |
直径四尺(1m20cm)、長さ五尺三寸(1m60cm) ケヤキ作りで、牛1頭分の革が使用されている
・・・ありがたいことですが・・・いや、無理ッス・・・!!
リバーウォーク北九州・・・
・・・ググってみました・・・Wikipediaより引用
北九州市ルネッサンス構想の事業の一つである、紫川マイタウンマイリバー整備事業と連動して行なわれた室町一丁目地区第一種市街地再開発事業による複合施設であると・・・
第一期事業としてジョン・ジャーディのデザインにより、サービス・商業ゾーン(ショッピングセンターデコシティ、シネマコンプレックス)、各種文化的イベントを実施できる文化施設(北九州芸術劇場、北九州市立美術館分館)、放送局や朝日新聞社を併設した情報発信ゾーンからなる地下2階地上15階の複合ビルとして完成した。
第二期事業としてマイケル・グレイヴス のデザインによる西日本工業大学デザイン学部等の入居する大学棟(地下1階地上11階)と、レクサス販売店・レクサス小倉(地上4階)がオープンした
各ゾーンが独立した建物群の集合体のような外観になっており、それぞれの建物に用いられている色は、日本の伝統的色彩美の融合を表し、「茶色」は大地、「黒」は日本瓦、「白」は漆喰壁、「赤」は漆、「黄色」は収穫前の稲穂を表現したものである・・・お見事!!
「とらっちゃ」
・・・小倉城天守閣再建50周年記念 小倉城オリジナルマスコットキャラクター
四年式十五珊榴弾砲・・・日本陸軍が大正4年(1915年)に制式制定した榴弾砲
旧第十二師団司令部の正門・・鉄門跡
槻門
鉄門跡・・・
藩主及び家老はなど、ごく限られたものは槻門をとうり鉄門はそれ以外の武士などの登城口でした現在、一部復元していますが、中央部目地の左側が幕末時の石垣と階段であり、落城時の様相を示すように石垣が火熱を受けて赤く変化しています当時の階段の幅は約2.1mでしたが、現在幅を2倍に広げています・・・案内板より引用
「P」であるリバーウォーク北九州に戻ってきました・・
その前から見える、天守閣・・・う~ん! ここからも、すてきな城です!!
室町一丁目地区第一種市街地再開発事業による複合施設と、小倉城・・・
どちらも、すばらしい景観でした・・・
時間さえあれば、複合施設をユックリ見学したいのですが・・・(>_<)
北九州市小倉区、小倉城・・・お見事でした
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