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2017年6月28日

周防國分寺・・・国指定重要文化財・・山口県防府市国分寺町!

山口県防府市を旅しています・・・
・・・山口県の旅も、いよいよ、最後の訪問地、国指定重要文化財、周防國分寺です・・・


周防國分寺とは・・・・
周防国分寺は、多数の文化財を保存した極めて歴史的価値の高い古刹である。北に多々良山を負い、南には防府市街をとおして三田尻湾を望む景勝の地にそびえ立つ大伽藍は、創建当初の地にあり、国分寺の堂塔 の偉容をあらわしている。
 当時は、金光明四天王護国之寺又は金光明寺など、いろいろな寺号があったが、後に浄瑠璃山国分寺と称せられるようになった。
奈良時代の天平十三年(741)聖武天皇の勅願によって、国家の鎮護と国民の景福を祈願するために国ごとに建立された由緒ある官寺の一つである。
本寺が創建された奈良時代は、わが国律令政治の栄えた時で、国分寺は宗教によって国家を統治する勅願所で、皇室との因縁が特別に深く、住昔の規模が壮大であったことは、その寺域の面積が六十一町歩余りにまたがり、七堂伽藍と二十五ケ寺の塔頭と末寺を擁していたことでもうかがえる。
後世、寺領の減少や維新後の寺院制度の変革等により、その規模は縮小され、現在では往時の遺構遺跡と建造物の一部を残すのみになったが、今なお仁王門をくぐると荘重な大金堂がある。
ここには多数の国宝的仏像が安置されており、他の歴史的文化財と共に宗教上、学術上の一大宝庫をなしており、旧態を現存することにおいては、全国国分寺中極めて稀である。
本尊は創建当初丈六の釈迦如来であったが、奈良時代の終わり頃から平安初期には薬師如来に替わっている。
寺格は現在高野山真言宗に属する別格本山である。
本寺がこうして旧格を維持し、歴史の各時代にまたがる豊富な霊仏至宝を保存してきたことは、実に聖武天皇の聖徳と歴代天皇の信仰の賜であり、また周防国府の力や大内氏、毛利氏の歴代国主の崇仏保護が非常に厚かったからである。
多数ある寺宝の中で後奈良天皇宸筆般若心経及び金堂、並びに堂内の薬師如来、日光・月光菩薩立像、四天王立像及び持仏堂内の阿弥陀如来坐像など、八躯が国の重要文化財に指定され、国分寺旧境内は史跡に指定されている。・・・案内書より引用


仁王門(楼門)である・・・

仁王門(楼門)一棟・・・県指定有形文化財
この門は、三間一戸、潜り戸付きで屋根は、入母屋造、本瓦葺、高欄、組物、二軒扇垂木、花頭窓など、禅宗様式を取り入れて、全体に美しい構成である 門の左右には、室町時代の製作とされる、一対の阿吽形の金剛力士(仁王)像(像高350cm)を安置する仁王門である かっての門は応永二四(1417)に焼失したが、文禄五(1596)に毛利輝元が再建し明和四(1767)毛利重孝公が大改修をし、近くは昭和32年(1956)に解体修理を行なっている このように建立年代は古いとは云えないが創建当時の境内地にあり、大寺院の山門にふさわしい規模と構成を備えた建造物である また、楼上には十六羅漢を安置している (山口県文化財)




残念ながら、写真はこれぐらいしか、撮影できませんでした・・・仁王さん、・・・m(_ _)m
楼門をくぐると・・・・広い! が、第一印象・・
金堂・・・国指定重要文化財

二層入母屋造り、桁行七間、梁間四間、棟高18m、本瓦葺き、建坪116坪

荘重な二層入母屋造の仏殿で建坪百十六坪余、堂内の須弥壇は桃山時代のものと伝えられている。
往古のものは応永二十四年焼失したので応永二十人年大内盛見が再建した。
現存の仏殿は安永八年(1779)毛利重就の建立したものである。
 内陣には大小五十余躯の仏像が安置されて丁度古美術飴の観がある。
須弥壇上中央には丈六の薬師如来が本尊として安置され、そして日光菩薩、月光菩薩の立像が両脇侍として控え、その前に十二神将が護持し、壇の四方には四天王四躯が守護の座についている。
この外堂内の左右並びに後堂には阿弥陀如来立像をはじめ多数の仏像が処せましと安置され荘厳この上もない
・・・配布パンフより引用

いや~! 見事な建造物、金堂ですね・・・大きさに、圧倒されます・・・


楼門脇の巨木・・・
この付近に奈良時代國分寺創建当時、七重塔が建ち、火災で焼失、鎌倉時代に五重塔に、その後、伽藍全体の際、焼失、現在にいたります
五本線の筋塀・・・御所、門跡寺院、勅願寺院で用いられ、五本を最高とする・・・

金堂を裏側から・・・

向拝の、梁の蛙股には、虎? 猫? わからないが、彫物があります・・・

破風・・・懸魚、妻飾りも、いいすね・・・

聖天堂・・・秘仏聖天像を祀る・・開運、商売繁盛などあらゆる願望、悩みを救ってくれると・・・

ググってみました・・・金堂内、拝観できたようですが・・・

               

山口県山口市、防府市を旅してきました・・・
・・山口市・・ある御仁の影響で、長州藩、吉田松陰関連をよく見聞きする機会が増えていました・・

幕末から明治維新の出来事が、人物が、この地に居たこと・・うん!うん!と、一人頷きながら、案内板やパンフを読んでいました・・・

萩・津和野は、いまだ、未踏の地ですが、今回の山口市、大内家、毛利家の遺構がほとんどですが・・・
いやいや、すてきな地です・・・もう一度訪ねてみたい気持になりました・・そう、機会あれば、嫁、連れてこなければ・・・とね!

と、いうことで、山口県山口市、防府市のを旅を終わります・・・m(_ _)m



帰途、下松パーキングエリア・・・遅めの昼食を・・・
そう、このバリっ太そば・・を、食べたかったのです・・・
なんで、鳥の唐揚げが付くのかなぁ?
・・・見た目、皿うどん・・・でも、なかなか、おいしかったです・・・(*^_^*)



参拝日:2017年5月25日







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