山口県山口市を旅しています・・・
西の京と謳われた大内氏時代の跡、現在の山口市、大内氏館跡を訪れます・・・そこは、龍福寺です
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大内館跡
さぁ、歴史の中へ入っていきます・・・
・・・紅葉の時期は、さぞや、キレイなことでしょう・・・紅葉のトンネルです!
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大内義隆滅亡後、毛利隆元は義父、義隆の菩提寺としてこの龍福寺建立した |
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本堂は、桁行五間、梁間五間の入母屋造で、屋根は檜皮葺、正面は蔀戸があります
なかでも、内・外陣を隔てる板扉と格子戸の組み合わせによるしつらえは大変珍しいものです
・・・案内板より引用
残念ながら、本堂内へは、無理なようです・・・でも、美しい姿の本堂です!!
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マンホール、七夕ちょうちん・・と、ありますね
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大内氏滅亡後、広島の毛利元就は下剋上の将・陶晴
覧を討ち、大内氏に執って代る大大名となるが、元就
の嫡孫・毛利輝元の時、関ケ原の戦いで反徳川の旗を
掲げた為、家康によって旧領八カ国、百二十一万石を
没収され、周防・長門の防長二州三十六万石となり萩
へ封じ込められた。 以来討幕維新までの約二百七十年 間、長い試練の藩政時代のトンネルに入っていく 嘉永六年(1853)ペリ-来航により泰平の夢が破られ、新しい時代の創建に向け日本中が激動する 長州藩に於ては、吉田松陰をはじめその門下生たちが維新の志士たちとして活躍。文久三年(1863)藩主・毛利敬親は幕命を無視して山口に藩庁を移す 山口は俄然 一新し防長政治の中心地、否、新日本建設の策源地として明治維新(1868)を達成させる 華やかにして激動の時代の脚光を浴びることになる ・・・今なお歴史を色濃<残す美しい街である・・・ ・・・配布案内図、山口小史より引用・・・ |
訪問日:2017年5月25日
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