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2017年6月24日

龍福寺、本堂・・・国指定重要文化財・・・山口県山口市


山口県山口市を旅しています・・・
西の京と謳われた大内氏時代の跡、現在の山口市、大内氏館跡を訪れます・・・そこは、龍福寺です

土塁ですね・・・ぐるっと、囲んでいます・・・百間四方の土塁と堀に囲まれていたと・・・

大内館跡
山口は、中世に文化の粋を集め「西の京」と謳われ た街。南北朝時代中頃の1360年、中国地方の豪族 で守護職の大内氏の24代・弘世が居館を山口に移し、 京都に模した街道りをして大いに栄えた。
大内氏の歴 代当主は文武兼備の勇将名将が続き、約二百年間大陸 文化渡来の門戸として、貿易で莫大な富と権力を貯え て、中世戦国時代の雄として君臨。特に30代大内義興 の頃は、将軍足利義稙を補佐し十一年間幕政を左右す る西国一の大大名であった
応仁の乱で疲弊した京を逃 れて、多<の公卿文人たちが来山し、
大内文化はますま す栄え、その遺薫は街中の随所に今なお漂う。  31代義隆の頃には七州の守護大名として栄華はその極 に達するが、一五五一年武断派の重臣・陶隋覧の謀反に 依り、義隆は長門の大寧寺に敗走自刃。大内氏の正続は 断絶する・・・・配布案内図、山口小史より引用


さぁ、歴史の中へ入っていきます・・・
・・・紅葉の時期は、さぞや、キレイなことでしょう・・・紅葉のトンネルです!







大内義隆滅亡後、毛利隆元は義父、義隆の菩提寺としてこの龍福寺建立した



国指定重要文化財 龍福寺本堂
龍福寺は、もとは白石の地にありましたが、天文二十年(1551)に兵火にかかり、そのままになっていたものを 、弘治三年(1557)毛利隆元が大内義隆の菩提を弔うためこの地に再興しました
明治十四年(1881)龍福寺は火災に遭い、ほとんどの建物が焼失しました
そのため、吉敷郡大内村の大内氏の氏寺であった天台宗の興隆寺から釈迦堂を移築し、曹洞宗の龍福寺本堂へ改造しました
この本堂は、文明十一年(1479)に建立されたと言われおり、内部の大虹梁、板蛙股、組物などは室町時代の建築の特徴をよく表しています
移築後、約百年の月日が経ち、大規模な修繕が必要となったことから、平成17年から23年にかけて保存修理工事が行われ、建立当時の室町時代の姿へ戻されました
本堂は、桁行五間、梁間五間の入母屋造で、屋根は檜皮葺、正面は蔀戸があります
なかでも、内・外陣を隔てる板扉と格子戸の組み合わせによるしつらえは大変珍しいものです
・・・案内板より引用

残念ながら、本堂内へは、無理なようです・・・でも、美しい姿の本堂です!!


境内より・・・

マンホール、七夕ちょうちん・・と、ありますね

大内氏滅亡後、広島の毛利元就は下剋上の将・陶晴 覧を討ち、大内氏に執って代る大大名となるが、元就 の嫡孫・毛利輝元の時、関ケ原の戦いで反徳川の旗を 掲げた為、家康によって旧領八カ国、百二十一万石を 没収され、周防・長門の防長二州三十六万石となり萩 へ封じ込められた。
以来討幕維新までの約二百七十年 間、長い試練の藩政時代のトンネルに入っていく
 嘉永六年(1853)ペリ-来航により泰平の夢が破られ、新しい時代の創建に向け日本中が激動する
長州藩に於ては、吉田松陰をはじめその門下生たちが維新の志士たちとして活躍。文久三年(1863)藩主・毛利敬親は幕命を無視して山口に藩庁を移す
山口は俄然 一新し防長政治の中心地、否、新日本建設の策源地として明治維新(1868)を達成させる
華やかにして激動の時代の脚光を浴びることになる

・・・今なお歴史を色濃<残す美しい街である・・・

・・・配布案内図、山口小史より引用・・・





訪問日:2017年5月25日





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