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2015年3月28日

波々伯部神社・・中井権次一統の足跡を巡って・・兵庫県篠山市宮ノ前!

中井権次の足跡を巡っています・・波々伯部神社(ほうかべ)を訪ねます!
・・・2015年3月26日の参詣です!・・・
到着すると、珍しく?参拝者の方がご夫婦でおられます・・・
珍しい?・・・・この地域の神社は、まず、参拝者の方と遭遇しませんからね・・・・(*^_^*)
波々伯部神社・・
御祭神は、もと祇園天神、牛頭天王で現在は素戔嗚尊ほか二神であります。承徳二年(1098年)、波々伯部村が京都の祇園社へ寄進され荘園・波々伯部保となりました。そこで祇園社のご分霊を勧請したもので、丹波の祇園さんと呼ばれています。
八月四日、五日がお祭りで、八台の山車の宮入りと神輿三基の渡御があり、七年毎に二台の胡瓜型の曳山を造り、十二体の木偶(県民俗)と呼ぶ操り人形の奉納があります。文楽の元型で大変貴重なものです
・・・波々伯部神社縁起録あらまし・・・
古代・・豪族波々伯部氏一族が統治する自治集落、波々伯部保(村)があった。
680年・・白鳳九年・・大和朝廷取次により本地仏薬師如来を勧請し御堂を建立、竜王山浦薬寺と号した
733年・・天平五年・・勅命にて播磨国広峯山より、祇園牛頭天王御神霊を奉載し帰途の途中、当地にて休息、当地に神殿を造営し御分霊を祀った。自今此紋を波々伯部氏の家紋とし、波々伯部保の旗印とした
--省略--
1579年・・天正七年・・明智光秀、丹波攻めの兵火を浴び社屋、記録文書など、悉く灰燼に記し、戦乱の煽りで、波々伯部氏一族は諸国へ離散した
--省略--
1881年・・明治14年・・社号を波々伯部神社と改称する

上記、歴史は、波々伯部神社、神職よりいただいた資料より抜粋です・・現在も兵庫県宝塚市に波々伯部氏直系の宋音である波々伯部氏がおられその所蔵の家蔵記録、並び、当社所蔵の明和七年(1770年)編纂された「明和改記録帳」などからまとめたものである・・・と!

見事な杉が立ち並ぶ参道です
境内・・拝殿です
この境内にも杉の巨木が・・・
一番奥の巨木・・・」幹周り6.7m 樹高、45m・・・でかいよ!
本殿・・・キッチリ本殿は見えません・・(^^;)
境内社・・
で、覗きこみながら、見えるかな?なんてウロウロしていました!
先に参拝していてご夫婦が神職さんと親しくお話されていました・・・で、お話が終わり・・・
私、近寄り、神職さんに「中井権次の彫り物でよね?・・って」尋ねてたら・・・
神職さん・・ここからは見えないので、本殿へご案内しましょうか?・・って!
おおおぉ・・これはこれは・・なんといううことでしょう・・ラッキーです!

で、先ほどのご夫婦にも私、要らぬことですが、彫り物に興味ありませんか?・・もし、あれば、今から神職さんがご案内いただけますが・・いかがですか?・・と、お声をかけました!
ご夫婦の方も、それでは、ご一緒させていただきますとのことで、・・・本殿の取り囲む塀の入口から本殿周りに入らせていただきました・・・・いや、すごいことです!
お陰で普段見えない部分の写真も撮影ができました・・・ただ、神職さん、お忙しいそうで、10分ぐらいでしたが・・・でも、でも、話ししてみるべきですね!・・(*^_^*)

では、急いで、写真撮りまくりです・・
どうです・・・龍の躍動感・・・すばらしい!・・では、ゆっくり、慌てて、撮影します!

本殿、向排・・・

脇障子・・・写真左下:左側、裏側です、左端に紙に「中井・・」が貼ってありますが?
写真右下:右側、脇障子

本殿、屋根の鬼面・・・ズームしてみました!・・睨み効かしていますね!

これから下の写真は、作品を中サイズで掲載していますが、クリックして頂くと大きな画像になります・・ご覧いただければと、思います・・


いや! 良き時間でした・・神職さん、実はこの日は100日祀で、刻限ギリギリまでご案内いただきました・・・本当にありがとうございました。

この波々伯部神社の客間にまた、すごい彫り物があるらしいです・・・
又、次回、お願いして拝見させていただきたいものです・・・

杉並木の参道を・・・神職さんのおもてなしのお気持ちと、感動に浸りながら・・帰ります!

では、次の中井権次の足跡を巡って・・・まいります!!






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