妙見山、標高、1136mその八合目、800mにある、下の地図で、左上の名草神社、三重塔を参拝して参りました・・
その林道の途中に位置する、但馬妙見、日光院(左から、二つ目の赤丸)へ参拝いたします
・・・養父市観光ガイドマップより引用・・・
戦国時代には、特に武門将士の信仰を集め、山名宗全も、ここ日光院で戦勝祈願をしました。それらの古文書は「日光院文書」と呼ばれ、中世の歴史を伝える貴重な資料として、県指定重要文化財となっています。
天正年間、羽柴秀吉の山陰攻めの兵火にあい、寺門一時衰微しましたが、寛永九年には、ここから西方五十丁の妙見中腹に移転復興し、三代家光公より、三十石のご朱印地を賜りました 。 叉、寛文五年には出雲大社の御造営に際し、本殿の御用材に日光院の妙見杉をお譲りしたお礼に、出雲大社より日光院に三重塔を譲り受けました。 そして、妙見全山を伽藍とする壮大な妙見信仰の一大霊場として繁栄を極めました。
明治になり廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、妙見信仰の弾圧が始まりました。 明治九年七月八日、ついに「寺号を廃して、不動産のみ名草神社にせよ」という布達にて再びこの地の末寺成就院と合流し、今日に至っております。 つまり寛文九年から明治九年まで(245年間)の日光院の建物に、新たに名草神社が入り、お寺の建物がそのまま神社とされたのです。 そこが日光院であったが故に、仏教の象徴である三重塔が名草神社の境内に存在しているのです。
幾多の困難な時代を乗り越え、妙見大菩薩のご加護と、檀信徒の信心により妙見信仰の法灯を護持し、今なお宗教、宗派をこえて開運厄除のお寺として、多くの信仰を集めているのです。
高野山真言宗 妙見山 日光院 第五十二世 山主・・・全文、案内板より引用
・・・・なにか、意味深い案内板の説明ですね!!・・・・
拝殿・・・最初は本堂と思っていました(^^;)
・・・左の大イチョウは樹齢600年とか・・・秋には黄金の絨毯が・・・と!
「妙見宮」と題する巨額をは慈性法親王の寄進によるもの・・これは妙見大菩薩の霊場である日光院を「妙見宮」と称したためと、あります
どこにも見当たらないのですが、そこは、ウロウロ、キョロキョロと・・・
ありました・・・本堂と思っていたらそれは、拝殿で、その奥は勿論、本殿です、・・・裏へ回るとそれは立派な本殿が・・・・
寺紋の「七曜紋」があり、妙見大菩薩の扁額があります
龍の裏面を探すと・・・ おおぉ!・・ありました! 彫物師 丹波柏原町住人 中井権次橘正貞 |
このお地蔵さんは・・・・
ここから、元の日光院(現名草神社)までの参道にお祀りされていた丁石地蔵さまです。五十丁あったので五十体のお地蔵様が祀られています。これも明治の廃仏毀釈以降、妙見さんの信者さん、檀家さんによって、この地に全て集められました・・・日光院のHPより引用
五十丁・・1町は109.09091m、1kmは9.16667町ということは、5,454mか!
写真左下:大乗寺からの奉納みたいですね!
写真右下:拝殿前の石燈籠・・・弘化二年(1845年)とよめる
緑の絨毯ですね・・・奥は鐘楼・・・
寺務所、庫裡?・・・なかなか、立派な建物ですね!
屋根には鴟尾ですね、寺務所、庫裡には珍しいかな?・・私感!
山門の「七曜紋」
誰から、誰に・・・ 出雲大社から日光院が 出雲大社から妙見社へ・・三重塔!
この妙見社は、名草神社ではない・・史実のすり替えとのこと・・
但馬妙見日光院の歴史そのものがいつのまにか、名草神社の歴史にすり替えられていると・・
しかし、現在、国が重要文化財に指定し、養父市が観光ガイドに・・・
・・・明治以降のお役所の仕事、決定事項の継承で、今更、変えられないという考え方が、お役所仕事なのでしょうか・・・・
・・・・と、簡単には云えないのでしょうが!・・・歴史は史実ではなく、その時の権力でゆがめられた歴史になることも事実ですが・・・・あくまでも、私感ですけどね!
久しぶりに中井権次の足跡を巡りましたが、日光院の歴史が中心となったようで・・・m(_ _)m
現在の名草神社の彫り物、日光院の本殿の彫り物・・これは紛れもなく、見事なものでした!!
以下、・・・中井権次の世界です・・・
持送りの猿?も見事です・・木鼻の獅子の形相・・怒っているのかなぁ?
本殿 左右、脇障子
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