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2020年3月31日

法楽寺(播州犬寺)・・・兵庫県神崎郡神河町中村1048

兵庫県神崎郡神河町中村1048、法楽寺(播州犬寺)を訪ねます

ある日、新聞の記事に掲載、紹介されていました
その場所を見ると・・・おいおい! 神河町じゃないですか!
この地域は、銀の馬車道、生野銀山、そして、我が家の飲用、水汲み場所の馴染みの地域
法楽寺(播州犬寺)は知りませんでした

早速、参拝に参りました



本来は、山門からですが、お寺の案内で、「P」があるとのことで、山、登ります

法楽寺(播州犬寺)

紀州高野山金剛峯寺を総本山とすり高野山真言宗のお寺で、ご本尊は十一面観音菩薩です
開山は大化年間、開基は法堂仙人といわれています
法楽寺は、県指定文化財の本堂、春日社、町指定文化財の梵鐘、山門、庫裡、鐘楼、開山堂、神馬図絵馬など多くの文化財があるお寺です
また、古来より創建時の逸話「播州犬寺物語」の舞台として著名で、このことから別名「播州犬寺」と呼ばれています



金楽山 法楽寺(播州犬寺)

・・・全文を入力いたしました・・・

創建:七世紀
開基:法道仙人
本尊:千手観世音菩薩 播磨西国三十三カ所第十五番札所
宗派:高野山真言宗

当山の由来「播州犬寺縁起」
鎌倉時代、京都・南禅寺の学僧であった虎関師練が表した仏教史書「元亨釈書」(元享二年・1322)の第二十八巻「寺像誌」に、播州犬寺の縁起が記されている。
昔、蘇我入鹿大軍を召して上宮太子一族を亡ぼす(643)。播州の枚夫という者あり。召されてその軍に加わる。枚夫に妻あり。その間、下僕(家来)と密かに通ず。やがて、戦い終わり、枚夫は都より帰る。さて、事が露見し討たれるのを恐れた下僕は「近くの山中に一カ所鹿、猪の集まる所あり。願わくば殿と共に猟に行かん」と、言葉巧みに枚夫を狩りに誘う。狩りを好む枚夫、日頃養育せし二頭の犬を連れ、喜び勇み、下僕の案内で山の奥深く分け入る。突如、下僕弓に矢をつがえ曰く「この山には獣などはいない。あなたを欺いて誘った。お命を頂戴する。格御召されよ」と。
もはやこれまでと覚悟を決め、枚夫は二頭の愛犬を呼び寄せ、己の弁当を分かち与えつつ「よく聞け。今、下僕に欺かれ、空しく此の山中にて我が命を奪われる。国の人々来たり我が屍を見られるは、大いなる恥辱なり。故に二犬よ。我が屍を食い尽くせよ」と語り聞かせる。話が終わるやいなや、二犬は猛然と下僕に襲いかかり、一頭が下僕の弓弦をかみ切り、もう一頭が喉元に噛みつき、下僕を倒す。
かくて、枚夫は我が屋敷にもどるや、親族に告げて曰く「我、この二犬によって命を全うし得たり。今よりの二犬を立て我が子となす。我が財、皆、この二犬の有なり」と。
さりながら、二犬、枚夫より先に死す。枚夫、二犬の死を悼み悲しみ、伽藍を建立、千手大悲の尊像を奉安して冥福を祈る。この千手観世音菩薩像の霊感日に新なり。野火四面より伽藍に迫りしこと三度ありしが、一度も災い伽藍に及ぶこと無しという。

このことが、平安時代の初め、桓武天皇(782~805)の御聞に達し、勅して「官寺」となし、田数頃(頃は百畝の広さ)を喜捨したまう。(元亨釈書 寺像誌 概略)
峰相記(1348)播磨鑑(1762)犬寺縁起絵巻(1673 大阪市立美術館蔵)等にも、犬寺縁起が記されているが諸説あり
その二犬については、黒犬白犬として、当寺には伝えられている



       二犬・・・黒犬白犬として、当寺には伝えられている



黒犬には、石工の銘がありますが、詳細不明

本堂(観音堂)

兵庫県指定文化財 享保一四年(1729)建立 正面五間、奥行五間、宝形造

内陣
左、奉納額、嘉永元年(1848) 右から二枚目、安政三(1856)と読める

春日社

兵庫県指定文化財 17世紀中期建立 覆屋入 三間社隅木入春日造 柿葺

開山堂
神河町指定文化財 創建年不明 開山法堂仙人、枚夫長者像が祀られる

鐘楼 神河町指定文化財

梵鐘

梵鐘は、慶長九年鋳造、高さ124cm直径72cm 神崎郡内では最古とされる



山を下りて、超知川沿いの仁王門へ・・・



       仁王門から見上げます 250段あるようです



       阿形、吽形金剛力士




超知川を渡り、反対側から・・・



何度、この前を通過したことか!
知らなかったのは、事実で、調査が甘い証拠です
これから訪れる場所は、精査しなければ・・・
当山の由来「播州犬寺縁起」を入力することで、言い伝えがよ~く、わかりました








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