中井権次一統の足跡を巡ります
兵庫県豊岡市竹野町椒1738-2、㯮椒神社(はじかみ)です
兵庫県豊岡市竹野町といえば、私、思いつくのは、日本海、竹野海岸です
と、いうことで、距離もあり、なかなか、走りませんでした・・・
しかし、北近畿豊岡道が、日高神鍋高源まで、延長開通して、豊岡は近くなりました
そうなれば、走ります・・・
㯮椒神社へは、日高神鍋高源を出て、県道172号から1号線を北上して行くわけです・・
しかし、地図では、山中の鎮座地は分るのですが、参道、社頭が分りません、見つかりません
ググっていると、先人の一枚の写真が・・・おおぉ、ここか!・・ってね
写真下、1号線から、田越しにズームで・・・鳥居が見えます
これより僅か、北よりに、農道? 参道があります
落石もあり、「α君」は入れません・・・路肩へ「P」します
恐らく、神社の存在さえ、分らないかも・・・素通りですね
社頭です
鳥居の右脇には「式内大社 㯮椒神社」と刻まれた社号標
鳥居の扁額には「八幡宮」と刻まれている
さぁ、登りましょう・・・上、見れば、建物が見えます もう少しです
神門・・
右折・・・
うん? 楽勝と思いきや、この参道は・・・凄いぞ! 普通の山道 足下には、注意!
岩肌、そして、木の根の階段? 足場を考えて登らないと!
左折・・・
未だ未だ続く、岩肌、木の根・・・ジグザグに通れる場所を選びながら登ります
右側は、絶壁・・・雨、雪、足下悪い時は、この参道は歩行困難、いや、不可ですね
割拝殿です やっと、到着です
・・息、ハァハァ・・・汗、滴り落ちています 参道では、最強の厳しさです
割拝殿の壁上の由緒書
㯮椒神社
祭神:不詳
由緒 :創立年月不詳なるも仁明天皇承和九年(西紀八四二年) 官社に預り清和天皇貞観十年(西紀八六八年)従五位上に 叙せられ延喜式(延喜五年、西紀九〇五年)の制名神大に列せらる 中古以降所傳の明確を欠き明治六年村社に列し 同二十二年本殿を再興し幣殿を新築せり。
(續日本後記) 仁明天皇承和九年冬十月 辛酉朔乙亥但馬國気多郡蜀椒神預官社
(三代実録) 清和天皇貞観十年十二月廿七日丙午授但馬國従五位下椒神従五位上
(延喜式巻十神名式下) 但馬國一百丗一座 大十八座、小一百十三座
気多郡廿一座 大四一座 大四座、小十七座
㯮椒神社 名神大
(特選神名牒) 㯮椒神社 名神大
祭神今按蜀椒は今本ホソキとよめれど誤なり和名抄に蜀椒 和名奈留波之加美一名不佐波之加美とみえたればハジカミとよむ べし古事記にもくめのこらがきもとにうゑしはじかみくちひびくとあり
さて典薬式に但馬國蜀椒柏子仁各一斗とみえ今も朝倉 山椒とて名物なり此乃椒村はことに其物のよく生ずる所 なりけむ故に其土地に鎮ります
神を蜀椒神と号けて祭れるものなるべし
竹野町指定 彫刻 名称 狛犬一対
境内
立派な社殿です 両側は雪除けでしょうね
扁額
向拝・・・見事な彫刻です
兎の毛通し、口を開いた鳳凰、その口中に朱が見える
奥、ふところには、力神が屋根を支えている
上を睨む、龍の眼が鋭いです 目じり付近には朱色が・・・
蟇股の獅子、木鼻、持送り
右の獅子の背面に刻銘が・・「彫物師丹波柏原住人 中井権次正貞」
左脇障子・・ピントが甘いです
右脇障子・・ピントが甘いです
天明四年(1748)と読める
厳しい参道の様子の写真が多かったですね・・・ほんと、厳しかったです
下山も、落ち葉と、岩肌で、ズルッといきそうで・・・
猛暑の夏ということもあり、全身、汗ダクでした
しかし、境内に到着し、社殿の彫刻が眼に飛び込んでくると、そんなことは吹っ飛んでしまいます・・・
しばし、息、落ち着くまで、眺めていました・・いくら、防滴防塵のカメラとはいえ、滴り落ちる汗は大敵です
㯮椒神社、彫刻の素晴らしさと共に、参道の厳しさは、思い出と記憶に残る一社ですね
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