ページ

2019年1月20日

尼崎市、寺町界隈を巡っています・・・尼信博物館・・・兵庫県尼崎市東桜木町3

尼崎市、寺町界隈を巡っています
寺町の南側・・・下、黒枠に尼崎信用金庫の尼信博物館を訪ねます
204年7月2日、表まで来ましたが、その時は外観の写真のみ・・・
https://a-shi-a-to.blogspot.com/2014/07/blog-post_3.html

今日は、ゆっくり展示品、拝見します

尼信会館は、尼崎信用金庫が創業80周年の記念事業の一環として、地域の発展と地域文化向上のお役に立ちたいと願い、平成13年6月1日に開設いたしました。尼崎城の白壁をイメージし、寺町周辺の歴史的景観保存地域とも調和のとれた建築をいたしておりますと・・・


兵庫県 景観形成重要建造物・・・尼崎信用金庫記念館

    中央入口です

二階が展示室





尼崎は、古くより京と西国を中継する港湾都市として栄えました。大坂の陣後、徳川幕府は大坂城を西国支配の拠点として、大坂城を中心に幕府領、旗本領、譜代大名領を集中させる転封政策がとられました。なかでも尼崎は大坂城の西の守りを固める重要な位置にありました。 元和三年(1617年)一万石の大名として尼崎郡代の地位にあった建部政長(たけべまさなが)が林田藩へ転封され、かわりに近江膳所から戸田氏鉄が入部して、五万石の尼崎藩主となり、幕府から新尼崎城の築城を命ぜられ完成いたしました。 その後、寛永十二年(1635年)戸田氏鉄が美濃大垣に転封して、かわって遠江掛川より青山幸成が尼崎藩主(五万石)となりました。青山氏は宝永八年(1711年)幸秀のときに信濃飯山へ転封して、遠江掛川から松平忠喬が尼崎藩主(四万石)になり以後、松平氏は7代にわたって襲封して明治維新を迎えました。 尼崎藩領内では海産物、農産物の生産、流通が発達しており、酒造、綿、菜種などの生産が盛んでありました。しかし、明和6年(1769年)今津、西宮から兵庫津までの灘浜手の村を天領として収公されまして、替地を多可、宍粟、赤穂の3郡内に与えられましたが、西宮、灘、兵庫よりの収入がなくなり、尼崎藩は大きな経済的打撃を受けることとなりました。明治2年(1869年)版籍奉還が認められ、尼崎藩は廃藩置県により明治4年尼崎県となり、続いて兵庫県に編入されました。 飛び地領のあった多可、宍粟、赤穂の3郡も明治4年姫路県に移されました・・・尼信博物館案内より引用



摂津国尼崎城 歴代藩主系図

尼崎城分間絵図 二巻

尼崎市指定文化財・・・尼崎城平面図


朱地葵紋染抜大旗由来

尼崎市指定文化財・・・朱地葵紋染抜大旗

桜井松平家の再興の印として、桜井家に代々伝えられてきた大旗。
桜井信定の父であり、徳川家康四代前である松平長親(ながちか)の代に決めた家紋「葵」を染め抜いてあります。
家康が六十七歳のとき、三河安城(現愛知県安城市)を巡察していると、この大旗を立て、赤子を抱く一団が目にとまりました。不思議に思ってたずねた家康は、この赤子こそが松平忠頼の嫡子・忠重だと知ります。
忠頼は先の浜松城主でしたが、旗本同士の囲碁論争に巻き込まれて、若くして死去。城地は没収されていました。その事情を察した家康は、同族の情から桜井家のお家再興を許し、武州深谷八千石に取り立てました。その後、桜井家は遠州掛川四万石を拝領し、大名の地位を確立していきました。


国指定重要文化財・・・太刀守家・附蒔絵太刀拵・本阿弥光温 極書

太刀守家・附蒔絵太刀拵

本阿弥光温 極書


尼崎市指定文化財・・・金小札白糸威二枚胴具足(二十四間筋兜付)



太刀 銘:源 紹芳 (水心子正秀門) 江戸時代
水心子正秀門は、新々刀・最上作にランクされる名工である

拵 金梨子地紋入太刀拵 江戸時代

重要刀剣
脇指 銘:和泉守 藤原国貞 江戸時代
堀川国広の門であり、大坂新刀を代表する名匠である

脇指 銘 表:平安住雲仙子貞秀作 裏:元治元年甲子二月吉日(江戸時代)
江戸時代、尼崎藩(桜井松平)の高級武士が所持していた脇指
拵 黒変り塗鞘脇指拵


尼崎城下町図
・・・寺町の配置がよくわかります・・・

尼崎城 模型

尼崎城、尼崎藩の歴史が、よ~く、わかりました
尼崎復元天守がまもなく一般公開されますが、尼信博物館で、知識をえて、尼崎復元天守を眺めるのも、寺町を歩くのも、これ、よいかもです・・・



0 件のコメント:

コメントを投稿