尼崎市寺町を巡っています
尼崎市寺町3・・・善通寺です
マップをみていると、寺院は、11ヶ所ありますね
尼崎城築城と共に進められたのが城下町、寺町の整備でした。
城を中心に東西に町場が整備され、東は今の大物から、西は貴布禰神社のあたりまでが城下町です
この通りは赤レンガで囲まれています
レンガ塀・・・私の撮影は失敗しました・・・で、Googleさんより引用です・・・(^^;)
山門
平陽山 安谷院 善通寺 時宗
永禄年間(1558~70)、覚阿上人の開基と伝えられています。
総本山遊行寺の末寺ですが、宗祖一遍上人の遊行の地として尼崎は深く関わりがあります。
当寺は、時宗四条派大本山金蓮寺末三大寺の一寺としてたびたび法主を出した由緒ある寺院です。
本堂は宝永三年(1706)の大修理を受けていますが、移築当時の様式をそのまま伝えているようです。
寺内には秦歩文の碑が建てられています。後醍醐天皇の皇子、尊良親王が土佐へ流されるとき、
秦歩文がお供をしました。妃を土佐に迎える途中、尼崎で海賊のために奪われ、ついに自決した・・・南朝方の忠臣秘話が伝えられています。・・・尼崎市教育委員会
本堂・・・
南朝忠臣 秦歩文公遺碑
後醍醐天皇の皇子、尊良親王が土佐へ流されるとき、秦歩文がお供をしました。妃を土佐に迎える途中、尼崎で海賊のために奪われ、ついに自決した・・・妃を連れた海賊が鳴門海峡へ向かっていると、突如嵐が起こり、うず潮とともに秦歩文が表れた。その姿に恐れをなした海賊は妃を小舟に乗せて開放し、妃は尊良親王との再開を果たすことが叶ったと伝わる
太閣秀吉ゆかりの寺、「広徳寺」
永禄年間(1558~70)再興・・・当寺は豊臣秀吉から寺領をもらったといわれています。徳川二代将軍秀忠の朱印状には寺領30石と記されている由緒ある寺院です。昭和20年6月の空襲により全焼しましたが本堂を再建し、紫衣を許された寺院としての格式を保っています。
天正十年(1582)秀吉が、明智光秀を追討するため、京都山崎へ向う途中、尼崎に着き、付近に禅寺を求めて休憩した話と、伏兵を避けるため逃げこんだ話とが伝わっています。
秀吉と尼崎の関係は絵本大功記十段目の「尼崎の役」として知られています。本尊は桧材の坐像で、かまくら時代の作とも、当寺創建ごろの明徳年間(1390~1394)の作ともいわれています。他に秀吉画像、朱印状、寺領目録などが残されています・・・尼崎市教育委員会
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