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2025年10月17日

大津市 琵琶湖湖畔の坂本城跡公園です

いや~ 長い間、行きたいなぁと思っていました
TV番組で、琵琶湖の湖中に残る城の石垣・胴木が発見、確認されたと知りました
これは、絶対行かなければと、友を誘って行きました

坂本城址の無料「P」10台はあるようです
賑わっていますね

坂本城跡
坂本城の歴史
坂本城はた延湖に面した水城として、安土城に先行する日本で最初の石垣と瓦葺きの天主を時つ時であり大天守と小天守があったとされる。坂本城が下阪本の地に築城されたのは、下阪本が東国からの物責の上陸地点であったごと、および坂本と比叡山延暦寺とのつながりを断ちきるためとされる。

年表
1571(元电 2)年 明署光秀、維田信長の和によりこの地に築制
1580(天正 8)年 坂本城普請(改築)
1582(天正10)年 坂本城炎上
        同年  丹羽長秀,羽柴秀吉の命により坂本城再建
1583(天正11)年   杉原家次が城主となる
        同年   淺野長政(長古)が城主となる
1586(天正14)年   淺野長政が棄城し、大津城へ移転する



阪本城といえば、明智光秀ですね

明智光秀像

明智光秀
われならで誰かは植えむ 一つ松心して吹け 志賀の浦風 

明智光秀は、美濃国の名族、土岐氏一族の出身。永禄十年(1567)四十歳ごろ織田信長の家臣となる。元亀二年(1571)山門焼き討ちのあと光秀は、湖岸に豪壮な坂本城を築城し、その初代城主となった。
以後およそ十年間、光秀は坂本城を本拠地として活躍した。光秀はすぐれた武将であっただけでなく当代一流の文化人と親交をもち茶の湯、恋歌、詩歌などに造詣の深い文化人でもあった

業績
明智光秀は、北国道(西近江道)と湖上交通との要衝にあたるこの地に元亀三年坂本城を築いた。
この城は琵琶湖に臨む典型的な水城で、しかも築城に造詣の深い光秀だけに城は豪壮華麗で、安土城に次ぐ名城といわれていた。
ここで近江滋賀郡を支配し、民政は行き届いていたという。
その後、光秀は丹波を平定し、天正五年頃から亀山城を築き、その城下町が現在の亀山市の基礎となった。
さらに同七年ごろ横山城を攻めたあと、城の大改造を行い明智にちなんで福智山と名づけ後に福知山城となった。
いまも福知山踊りには光秀を偲ぶ歌がうたわれている

湖岸に降りてみます

美しいです

日吉大社 七本柳鳥居がみえます
後ほど、近くへ行ってみます


しかし、臭いです
湖面が緑色に覆われるアオコ?が見えるね
プランクトンの大量発生によって引き起こされ、特有の臭気を放つことがあると
この匂いかなぁ


公園を散策します

光秀公の遺徳を偲び桔梗の花を植えていますと・・

三津浜(みつのはま)
三津浜は、中津 志井、今津からなるとされるが、現在の比叡辻から唐崎以北ま 下阪本の湖岸で古くから港として栄えた

七本柳
毎年四月十四日の日吉大社の山王祭において、神輿を船に乗せる船渡御がここから行われる。唐崎神社の沖まで行った神輿は、そこで「粟津の御供」 を受ける。
この神事の起源は、日吉大社西本宮の神を大和国の三輪よりお迎えした時に、船の漁夫(田中恒世)が粟飯を献 じたところ、神は毎年四月十四日にこ の浜に出向いてくることを約束したと 今に伝えられている。七本の柳はその神の降臨する木とされてきたのである。
  恒世は粟津神社(中庄一丁目)祭神
      平成七年三月 下阪本学区まちづくり推進協議会


日吉大社 七本柳鳥居
相当離れたところにある日吉大社の鳥居は山王鳥居というらしい

AI による概要
山王鳥居は、日吉大社に由来する、上部に三角形の破風(屋根)が乗った独特な形の鳥居です。明神鳥居の上に破風が取り付けられた形が、仏教の胎蔵界と金剛界、そして神道の合一を表しているとされ、神仏習合の象徴とされています。その形が手と手を合わせた「合掌」に似ていることから、「合掌鳥居」とも呼ばれます。


スマホでパチリしました

志津浜、今津浜、戸津浜
三津浜の美しいまち 下坂本

このお城の特徴は、城内に琵琶湖の水を引き入れた、いわゆる「水城形式」の城郭でした
案内板より



さぁ、湖中の城石垣を見にいきましょう











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