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2013年11月28日

京都府木津川市 海住山寺、国宝 五重塔です


恭仁京跡、訪ねました・・その折り、下調べにて、恭仁京の北、山側に、古寺が・・
海住山寺、国宝、五重の塔があると、これはぜひ、お尋ねしようと!

「カーナビ君」にセットして、走り出しました
途中・・散策マップにある、大井出用水に・・
大井出用水・・恭仁京跡の北に位置し、和束川から水を引いたものです

鎌倉時代に海住山寺の慈心上人が、瓶原に住む人々が水不足で苦労しているのをみて、20年以上の歳月をかけて造ったものと伝えられています


 さて、「カーナビ君」案内どうり、道しるべの看板みながら走ります
おい、集落の中へ、入って行きます
それも、「α君」車幅一杯、ほんと、ギリギリです!
対向車なんぞ、来ようものなら、相手に下がってもらわないと・・ダメ!!
無事、対向車も無く、通過しました、急勾配の坂路をクネクネ登り山門が見えました


 所々で、工事中とあります、只今、お寺、駐車場付近、工事中なのです!
山門を過ぎ、ガードマンさんが・・
尋ねると「ここへ停めて下さい、そして、逆の順路をお進み下さい」と・・

そう、通常の拝観ルートではなく、別ルート、なにやら、山道を歩くと、いきなり・・・


 これより先の境内「入山料を申受けます」の立て札が・・


 当然、拝観ですから、先に進みます
又々、立て札があり余程、訳があるのか・・シビアです
立て札には、「ハイキング、境内散策、山歩き、写真撮影、建物見学の方・・入山志納金・・お一人100円」

 ホームページには、以下が表示されています
※ハイキング等の境内での食事休憩は拝観申し込み者に限る
※境内一帯での三脚の使用は拝観申込の方に限ります

余程、なにかあったのかも・・・わかりませんが?
すすみます
おお、紅葉や!

そして、現れました
国宝、五重塔・・美しいです!

では、先に入山料を納めましょう
本堂へ

 あっちこっちに防犯カメラがあり、監視されているよう?
これは、当たり前ですが、立て札をみて入ってくると・・
やはり、気になりますね!

 本堂の正面に入山志納金を納める箱が・・100円、入れました!!


海住山寺は天平7年(735年)に聖武天皇の命で東大寺の良弁上人が建てたと云われています
国宝、五重塔は、鎌倉時代(健保2年、1214年)に建てられたのこと


 五重塔があまりにも素晴らしく、時期は紅葉ですが五重塔ばかり、眺めていました
そして、五重塔からみた、恭仁京跡?方面・・木々にて、視界よくありません!


 本堂の裏手には「ぼけ止め地蔵」が・・・

人の話を良く聞くよう、努力し、・・
理解しようとも努力し、・・・
もちつもたれつ人の間がらで・・
生かして下さると祈る・・と!


 重要文化財・・文殊堂(鎌倉時代)・・あれ?写真なし・・なんで?

鐘楼が
そして、四足門の山門が・・
本来ここから入るのでしょう


国宝、五重塔、堪能しました

Wikipedea引用すると、裳階をもつ五重塔としては法隆寺五重塔の例があるが、現存する平安 - 鎌倉時代の五重塔では海住山寺塔のみである
日本の仏塔では、軒の出を支える組物は、肘木を3段に持ち出す三手先とするのが通例だが、本塔では各重とも二手先組物とするのも異例である


 すばらしものです、まして、紅葉に栄え、立ち姿、お見事です
では、山門から出て、帰路へ
・下山の折、茶畑が、そして、木津川市加茂あたりか、眺望が・・


さぁ、今日は、恭仁京跡、海住山寺と「α君」と一人でのんびりと、走りました
たまには、いいでしょう・・ね!

おっと、先ほどの車幅、ギリギリのところで工事のダンプが・・
えぇ、これ!・・入れるの?
 「α君」バックや!
冷や汗かきながら、バックしました
ホッ!!

ゆっくり、帰りましょう

帰宅すると、新聞に、京都府木津川市当尾地区浄瑠璃寺の紹介記事「文化財の宝庫」とありあります

 時期みて、行ってみなければと!
・・はい!


遷都の地を尋ねて‥恭仁京です

遷都の地を尋ねて旅をしています!
平城京、藤原宮跡、伝飛鳥板蓋宮跡、近江大津宮錦織遺跡、長岡京・・・
残すは、8番目の恭仁京、9番目の柴香楽宮、2番目の難波長柄豊崎宮、10番目の難波宮、13番目の平安京なんです

実は、11月15日に恭仁京跡を訪れました
そして、遅ればせながら、今回、この備忘録を記します!

では、遷都の地を尋ねて「恭仁京」です!
 
恭仁京、京都府木津川市に位置します
永きに渡る、遷都の歴史、すっかり、ハマッテしまい、残るは、恭仁京と難波宮、紫香楽宮なのです!
平安京は、別として、数年間めまぐるしく平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京の遷都の歴史

ふと、訪ねてみようかなぁと、一人、「α君」に乗り、それも、一般道を、のんびりと思いに更けググってきています
天平12(740)年10月末に奈良の都を離れ、年末には奈良の北(今の京都府相楽郡加茂町)とその周辺に新しい都を造り始めました。
この都が恭仁京です。
742年(天平14年)には近江国甲賀郡紫香楽村に離宮を造営してしばしば行幸した・・これが紫香楽宮である。

恭仁京の建設が進められている間、恭仁京から甲賀郡紫香楽村に通じる道(恭仁東北道)が開通し、天皇は紫香楽村に離宮を造り始めました。
(左図、散策パンフより引用)

離宮というのは都とは異なり、天皇が保養などのため一時的に滞在する宮殿的施設で、紫香楽宮は離宮として造られ始めたのです。
このように、一方では恭仁京を造りながら、同時にもう一つの離宮・紫香楽宮の建設を進めたものですから、国家財政は困窮に・・恭仁京の造営を中止し、都は未完成と・・・

さぁ、一番先に訪れる場所、勿論、資料館です!
国道163号線沿いの都府立山城郷土資料館


資料をいただき、館内を拝見、当然写真は不可
山城地域には多くの遺跡があるとのこと、南山城地方の考古、歴史、民族の各分野で展示されており、出土品から、宇治茶の製造まで幅広く展示されていました

入口付近には、大阪城の残石が・・


 徳川幕府が元和六年(1620)から行った大阪城の改築のとき、津藩の藤堂高虎が、現在の加茂町から切り出したものとのこと
案内板の地図から、木津川を下って大阪城へと!

では、国道163号線を伊賀上野方面へ、木津川沿いに走ります
そして、国道163号線から左手山側に、木津川市立恭仁小学校のすぐ側に、恭仁京跡、山城国分寺跡があります
その国道163号線に、どんと、看板があります

その先を左折して、すぐに、木津川市立恭仁小学校があり、そのそばに「α君」を停め、散策
散策じゃなくて、そこが、恭仁京跡なのです!

 いただいた資料の地図をみながら、小学校の山側へ、大極殿跡です

その敷地には、大極殿跡が位置し、石碑に恭仁京大極殿址と刻まれています

難波宮へ遷った後は、恭仁京大極殿が、山城国分寺の金堂に再利用されたと云われています


 その、反対側の石碑には、山城国分寺址と(写真左下)
その側で、恭仁京大極殿址の石碑が倒れている、寂しいね!(写真右下)


 その敷地、公園のような敷地の奥には、朽ち果てた五輪塔?、お墓があり、そこに「クロガネモチ」という木が・・
木の皮は染料となり、「トリモチ」もつくりますと、なにか、根っこ部分が瘤に
多分、枝、落とされて一本にされたような?


 そして、その奥のコスモス畑、花が咲いています
「折らないで」の看板、小学生3、4年生が手入れしてるのでしょうね!
でも、看板立てるということは、折る人がいるってこと・・・寂しいね!


そして、その反対側の広い敷地に、山城国分寺塔跡が・・
この塔跡には、瓦積の上に花崗岩製の巨大な礎石が並んでいます
七重の塔が築かれたと、考えられています
柿の木も、沢山、実をつけています



恭仁京は東西約560m、南北約750mの範囲を宮大垣と呼ばれる土塀で囲っていたと・・
右下図:クリックすると拡大します、位置関係がよくわかります(散策マップ引用)
そして、744年聖武天皇は恭仁京から、難波宮へ都を遷しました
その際、平城京から運ばれた大極殿はそのまま、恭仁京に残され、恭仁京大極殿が、山城国分寺の金堂に再利用されたと云われています

左右画像:木津川市観光パンフより引用

短命とはいえ、ここに、都があったのです
平常宮の約1/3と小さいことも分かってきたとのこと、又、共通点、相違点が何によるものか、謎が明らかになっていくでしょう

そして、跡地周辺は、芝生もキレイに刈られ・・そして、恭仁京跡地でしょうが、「P」につかわれるのか、広い敷地があり、全体によく、整備されていますね!


さぁ、戻りましょう
・おっと、小学校の柵の中にトイレが・・なにかイベントとの時に利用されるとのこと


 考えていますね

遷都の巡る旅も、今時点11月15日で、難波宮、紫香楽宮を残すのみです!
では、恭仁京の北側の山中にある、古寺古刹、国宝、五重の塔のある、海住山寺へ参りましょう

追記:11月17日に難波宮跡訪ねました

内容は私の主観によるもので正確性を検証していません。文中、Wikipedeaさん、散策マップより、一部引用いたしました

2013年11月26日

四国、香川県 丸亀城!

現存天守・・・
日本の城の天守のうち、江戸時代またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている天守のことである!
現存天守は・・・十二城です!
1 弘前城 2 松本城 3 丸岡城 4 犬山城 5 彦根城 6 姫路城 7 松江城 8 備中松山城 9 丸亀城 10 松山城 11 宇和島城 12 高知城

その内、犬山城(備忘録)、彦根城、姫路城(備忘録)、松山城は訪れました・・・

そして、今回、丸亀城へ・・・と、本日、金比羅宮さん、善通寺と行ってきました・・・
善通寺さんから、直線距離で、約7km・・僅かです!

ここまで、懸念材料があったのです・・・それは、足、膝が、保つかどうか?だったんです!
金比羅宮さん・・765段の石段・・丸亀城は60m上の天守へ、勾配きつい坂道なんです・・
密かに、パンテリン液持参して・・

案ずるより産むが易し・・でした!・・旅での鍛錬の賜です・・うん!!
どこへ、「P」するか、ググってきてます・・・資料館前、市民広場が、無料なのです!
そして、大手門前から、天守の勇姿を、その城壁を・・と、すれば、市民広場なんです・・もちろん、公園利用者が優先ですが・・!
トイレもありますし、芝生の広場・・・すばらしい石垣、天守が全部視界に入る場所ですね!


「P」に「α君」を駐め、見上げました・・・「おぉおぉ・・」なんです!
嫁・・すごいね、あの石垣は!・・高いね!!・・と、・・・
ほんと、すばらしい石垣、天守なんでしょうか・・・・さぁ、行きましょう・・・

標高66mの亀山に築かれた平山城。滅名亀山城とも呼ばれています。本丸・二の丸・三の丸・帯曲帯、山下曲輪があり、東西約540m・南北460mの内堀内204,756㎡が史跡範囲とのこと
「石の城」と形容されるその名のとうり、丸亀城は石垣の名城なのです!

普通?は大手門・・・しかし、丸亀城は、「大手二の門」、その次に「大手一の門」と続きます・・
「大手二の門」「大手一の門」は、勿論、重要文化財・・・
堀端の高麗門を、「大手二の門」・・
城内側を、「大手一の門」と呼びます
 寛文10年(1670)京極氏のおり、完成しました ・・

「大手一の門」は楼上に太鼓を置き、城下に時を知らしたことから、太鼓門と呼ばれています
 大手二の門から、左右の石垣、内堀を・・・
大手枡形・・・枡形、大阪城で勉強しました
前面に方形の空間を設け、そこに門や口を2重に構えることで、攻撃側は桝形内部に侵入しても2番目の門に城内への侵入を阻まれ、桝形内部で守備側からの攻撃を全面に浴びせるためなのです・・と!

大手二の門をくぐり、大手枡形その正面には、切り込みハギの石垣が・・
城の大事なところへ築き、見せる石垣として用いられています
写真左: 枡形の左側 写真右:枡形、正面

そして、大手一の門をくぐれば、そこは、広々とした空間・・・
さて、ググってきています・・・観光協会に行って、資料集めですが、案内所兼うちわ工房竹に伺いましょう・・

理由は・・.大手一の門の内部が見学できるとのこと・・申込みです
そして、意外なことに・・天守閣の入場料が半額に(200円が100円に・!)・・へぇ!珍しいし、ありがたいですね!

「大手一の門」重要文化財・・
内部、見学いたします・・まず、草鞋に履き替え(スリッパはダメ)そして、石落としがあります、
内部写真、ピンぼけです

「大手一の門」から見た、「大手二の門」、枡形です!

はい、では、まずは三の丸に向かって、見返り坂を登りましょう・・・結構、勾配のきつい一直線の坂路です!
登っていくと、石垣の美という案内板が・・
三の丸北側の石垣は、丸亀城の石垣の中でも最も高く、20m以上の城壁が続いています
隅角部の石垣は、算木積みされた美しい曲線美で、「扇の勾配」と呼ばれています
眺めているだけで、顎があがり、のけぞってしまいそうな、曲線です・・
所々、周りと違う白い色の石、多分、修復されたものと思います

この石垣を右折・・さらに厳しい勾配の坂を登ると・・三の丸の広場に到着!
結構、息切れします・・はぁはぁ・・いっています!
三の丸は海抜約50.5mの平地・・
三の丸の北側の隅櫓跡から見る景色・・これまた絶景・・瀬戸内海、瀬戸中央道まで広がり、最高!
さぁ・・二の丸へ・・・石垣に囲まれた坂路を上がると・・・二の丸跡へ・・・
山上で二番目に高い平場(曲輪)・・
曲輪とは・・「くるわ」と呼び、城郭内にある一定区画を分かつ区域である。防御陣地・建造物を建てる敷地・兵の駐屯施設として、城郭の最重要施設である。
江戸時代には、中心的な曲輪に、本丸・二の丸・三の丸などの名前が付く・・とのこと。

二の丸井戸・・・最高所にある井戸。現在も水を湛え深さ約65mとのこと・・何か悲しい伝説の井戸とのこと!
写真、ありません・・・二の丸跡の写真の右隅にチョコッと写っています・・・
さぁ、本丸です・・・
山上の最高所が本丸です。本丸には、天守の他に隅櫓、多聞、土塀が石垣上に巡っていました
そして、丸亀城天守・・・重要文化財!
三層三階の現存木造天守です。高さ約15m、一階北側には、石落とし、狭間があり、唐破風や、千鳥破風で意匠を凝らしています
この天守は四国内で、最も古く万治三年(1660)に完成とあります
そして、日本一小さな現存木造天守です
小さい・・そんな言葉さえ、打ち消すように、66m山上、美しい石垣の上に座して青空のなか・・
「我、ここにあり!」と云っているかの如くです

よく出てくる建築用語・・破風(はふ)とは、日本の伝統的建築様式において、切妻や入母屋などにできる、妻側の三角形部分の造形を言う。
そして、切妻造とは屋根形状のひとつで屋根の最頂部の棟から地上に向かって二つの傾斜面が本を伏せたような山形の形状をした屋根
いやはや、難しいね・・・!勉強、勉強です

そして、いよいよ、天守内部へ・・・写真撮影可能ということで・・・
まずはいっきに三階へ・・・
写真左下:天守三階より、丸亀警察など、役所、市民広場、大手門から北へ延びる路・・瀬戸内海が一望です!
写真右下:そして、南側、金毘羅宮方面です(確か右隅と・・思います)
三階天守、内部、天井の柱組みです
三階から二階への階段・・・この天守の階段幅、広いです・・犬山城の倍の広さはあると思います・・私感!
二階から、一階への階段・・そして、一階の柱です・・
一階の展示品の中より丸亀城の古絵図を・・・パチリ・・初めてです!・・展示品パチリは・・
備忘録記するとき、拡大してみると、追手門があります・・
現在の大手二の門は、内堀淵にありますし、古絵図にもちゃんと・・私感!
写真右下:青丸、追手門 赤丸、大手一の門、大手二の門

はい・・・ゆっくり、内部を拝見いたしました
その天守閣から西側から眺める眺望・・先ほどとまた違い・・これこそ絶景・・です!
その天守の広場から、西から東へ、パノラマ写真を撮りました・・・

感動に浸りながら、帰途へ・・・
見返り坂を下ります・・・そして、御殿表門へ・・(写真左下、三の丸石垣修復部分が・・)
玄関先御門・番所・御駕籠部屋・長屋・・・県指定有形文化財
この門は、京極氏の屋敷にあたり、形式は薬医門です。
この門に接して番所・御駕籠部屋・長屋があります
古絵図でも、御殿とあり、焼失しています
今は芝生広場、資料館になっています


写真左下:大手二の門の柱修理箇所?・・・木と石にて組み合わせて修復しています
写真右下:大手一の門の鴨居?・・木組みを・・パチリ
ここまでで、結構な時間が経過しました・・・・残念ながら、ここで、帰途につきます
市民広場の「P」に戻りながら・・又、天守を見上げ・・青空に天守と飛行機雲・・いいね!

「カーナビ君」・・にルート設定・・坂出インターより帰途へ・・・

今回、日帰りで、四国、香川県・・金刀比羅宮さん、善通寺、丸亀城・・巡りました
765段の階段、見返り坂・・お陰様で、パンテンリン液使うことなく、元気で歩けました!
この四国の、歴史を、よりググって、いつか、巡って行きたい・・と、思います
現存する天守・・四国は、 松山城、宇和島城、高知城・・あります
ゆっくり、泊まりがけで、四国西半分をぐるっと回り、訪れます・・そんな気分です!

走向距離438km 平均燃費22.3km/L ・・又々燃費悪し・・踏みすぎに注意かも・・(^^;)

※内容は私の主観によるもので正確性を検証していません。
 文中、Wikipedia、丸亀城案内書より一部、引用いたしました