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2014年12月29日

荘厳寺、本黒田家略系図・・・兵庫県西脇市

黒田城址、姥が懐から北へ、黒田城址の麓を走ります・・右手には広大な田畑が広がっています
その途中の道端に、「黒田官兵衛生誕の里」の石碑が建っています・・・(写真右下)

NHK大河ドラマ黒田官兵衛の影響は大きいですね・・・・私はきっちり、はまってしまいました(*^_^*)
写真左下:赤丸左から・・多田城址、姥が懐、上、黒田城址、下、黒田官兵衛生誕の里」の石碑、右、荘厳寺・・

坂道、走れば・・荘厳寺に到着です
写真左下:案内板の説明によれば・・・
白雉年間(650~654)年中、天竺(インド)の僧の法道仙人の開基と伝えられる観音霊場です。
慶長年間(1596~1614)の頃、徳禅上人が当山に入り、堂宇を修復して「荘林山荘厳寺」を再興されました。
それ以後、徳禅上人を忠興開山として、真言宗高野山派となりました。 盛時には本堂への参道沿いに十ヶ寺程の塔頭を構えていたようで現在その建物跡地から往時のことが偲ばれます。
宝暦年間(1751~)には社町の朝光寺と鴨川の西光寺(廃寺)を行場とする権現信仰の修験道の寺として交流していたことが伺われると・・・
写真右上:持仏堂へと、駐車場右手参道を登って本堂、多宝塔や梵鐘への案内があります
では、先に、参道を登って本堂、多宝塔や梵鐘へ参りましょう・・・

苔むした石垣の上、漆喰壁の美しさを見、角を曲がった瞬間・・・おおおぉ!・・これは、楽しみです~さぁ、登りましょう~
そして、進みます・・・素晴らしい光景です
・・・どこかで、見たような光景?・・そうや!・熊野古道や!・・・写真でしか知りませんが・・・


苔むした石段、それを取り巻く杉木立・・
云われれば、杉木立、苔むした参道は、どこも、
同じかもしれませんが、黒田官兵衛を巡って来て、
この光景に会えるとは・・
約三百メートル・・ほぼ、直線の参道、石段です・・・
この参道に沿って、僧房の跡が残っていると・・・

帰路時、数えてみました・・・240段です ・・あまりに多すぎて、違うかも・・(*^_^*)

おおぉ! 見えてきました 左手は鐘楼、その奥に、光り輝く大屋根の本堂が見えてきました
鐘楼堂・・姫路城主本田正勝氏から慶安二年(1649年)に寄進されたもの
・・・梵鐘にその刻銘もみてとれます

本堂「観音堂」・・・・慶長十六年(1611年) 再建
四百年を経た本堂は老朽化が著しく、平成修復工事では、本堂の屋根をチタン板で葺き替えたとあります・・チタン材は、現時点では半永久的だといわれていますと・・・
チタン材の大屋根、初めてです・・・

うん?・・指定文化財として認定を受けるには、創建当時を保存した修理をしないとだめじゃないのかなぁ?
・・チタン材は覆い屋根? もとは茅葺きとあるが・・よく、わかりませんm(_ _)m

多宝塔(県有形文化財)・・正徳元年(1711年)再建とある・・伝、建久年間
多宝塔は修復工事は平成27~28年に・・本堂の、修復工事は3億前後の費用がかかったようです!
文化財、維持管理は大変なことですね・・・

三社八幡宮・・こけら葺・・
宝永五年(1708年)建立( 伝、室町時代創建)・・三百年の歴史を経ており、腐食や破損が激しい状況です
多宝塔から見下ろすと、修復工事、真最中・・
だれもいません・・チャンスです  じっくり、拝見します
下りましょう! 本堂から見た、鐘楼堂  上からみた参道・・ええなぁ!

山門をくぐり、持仏堂へ参ります・・・拝観料200円、手前の箱に入れます
こちらも迎春準備完了・・立派な門松があります
黒田家略系図・・・この略系図は歴代の黒田城主九代と八代目までの后の御霊を弔う願文として奉納されたものです
平成23年8月、歴史研究家によって詳細に解読された結果、この系図こそが信憑性の高いものと確認されました・・・
白板で黒田家略系図の説明が書かれていました・・赤字・・
そのなかで、インターネットのホームページ、「播磨黒田氏黒田官兵衛」をご覧くださいとあります
早速、見てみました・・
左赤丸が、黒田官兵衛  右赤丸が父、重隆・・・・
家系図を奉納した勝岡家は、黒田家と代々婚姻関係があった比延氏の末裔の一族とのことです

持仏堂内を・・資料が沢山展示されています・・鬼踊りの面も・・写真、ミス・・m(_ _)m

黒田官兵衛生誕地の会事務所・・・沢山の幟がありましたが、この会の尽力で、官兵衛も喜んでいるでしょう・・・
左、見上げれば・・天狗山・・黒田城の跡とあります・・・

2014年も押し迫った日に、一人、 「黒田官兵衛の里・西脇市」・・新たな生誕地・発祥地説、そのゆかりの地を訪ね、新説に触れながら・・・2014年も終わりです

又、新年2015年も黒田官兵衛の足跡をたどりながら・・一人旅?二人旅?・・・あっちこっちを旅します・・・

そう、九州、豊前、中津城・・そして、福岡藩、福岡城へも是非、行ってみたいです

2014年、長々と・・・m(_ _)m





追記:インターネットのホームページ、「播磨黒田氏黒田官兵衛」・・
Youtubeで講演会の動画(95分、6分割)があり、なかなか興味深いものがあります

そして、 黒田家前史の真実をたづねるに、播磨のことは播磨に聞け、というわけである。
・・と、結んでいる・・

黒田城址、姥が懐・・・兵庫県西脇市!

「黒田官兵衛の里・西脇市」・・新たな生誕地・発祥地説、そのゆかりの地をめぐっています!

多田城址を訪ねました・・・そこから東を見ると、そこに黒田城址・・そして天狗山へと続きます
その黒田城・・・今回はちょっと、訳ありで、登っていません・・・m(_ _)m


天狗山」の尾根から西へ連なる黒田城址・・・(左図参照)
尾根伝いに不明瞭な曲輪・土橋のようなものも残っていますが、城との関係は不明と・・・
写真右上:赤丸部分は黒田城址・・木々伐採して、黒田集落を一望できるよう、しているようですね!

黒田城址・・・中世・戦国時代に築かれた山城で、黒田氏九代の居城
現在、稲荷神社がある(上記写真右上赤丸部分)比高約40mの半独立山上に城があったと考えられますが、全体の城郭は不明。帯曲輪、堅堀、堀底道ともみえる遺構があるが、実態はよくわかっていないと・・・

その麓に「姥が懐」があります
「播磨古事」に記載された伝承によると、多田城(構居)に付随する邸宅跡と伝わっています 城山と黒田城下を流れる川に囲まれた田畑周辺が「姥が懐」と記されております
その麓に「姥が懐」があります
ちゃんと、「P」が用意されています・・・幟が歓迎してくれています
木々伐採して、道を作り、「リキ」入っていますね・・・西脇市!
黒田官兵衛生誕地の石碑が建てられています・
写真左下:この案内説明文が、興味深いです・・・引用しております
西側、この場所より北谷川ガードレールに囲まれた田畑の字名が「姥が懐」と残り、天明七年(1784年)姫路小寺家菩提寺心光寺の古記録閲覧・・・その中に小寺官兵衛祐隆 氏改め黒田 入道して如水という、播磨の国多可郡黒田村の産なり。
心光寺和尚入誉と黒田藩中村平市が黒田村現地調査に訪れ、黒田村古老から多くを聞き取りと現地案内を受け、その記録が「播磨古事」で福岡市博物館に蔵書としてあると


その内容は、黒田城壊滅から二百数十年をへてすべて田畑に変わるも、黒田村の古事について尋ねる問いに答えて云、此多可郡黒田村の多田の古城と申す八、今の筑前国主のご先祖の城址にて、姥が懐という八、其比の邸宅の古城にて、畑の字に残れり。と記述しております
黒田官兵衛は屋敷があったこの地で生まれたと思われます・・・案内説明板より引用


写真左下:石碑への途中より、姥が懐、黒田集落をみる
西側、この場所より北谷川ガードレールに囲まれた田畑の字名が「姥が懐」
写真左下:黒田官兵衛生誕地の石碑付近から、田畑を・・
写真右下:ガードレール付近より、黒田官兵衛生誕地の石碑方面をみる・・幟が陣のようにも見えますね!
黒田氏は二百数十年にわたり存続しましたが、九代治隆の時代、元亀の頃(1570年はじめ)丹波の赤井五郎・川向かい石原城の石原掃部助連合軍の突然の襲撃に敗れ、黒田城は滅亡したと
その頃、弟、孝隆はそれより早く姫路城主、小寺美濃守職隆の猶子(養子)となっており・・

うん?・・つじつまが合わない・・松ヶ瀬・・多田城落城の際、幼い官兵衛が母と逃げた・・の記述!
松ヶ瀬の伝承が、違っているのでしょうか?

まぁまぁ、その辺が、伝承、歴史なんでしょうね!

「P」にあった、風鈴?の販売・・
いや、商魂たくましいです!

さぁ、最後の新たな生誕地・発祥地説、そのゆかりの地・・荘厳寺へ、参りましょう!



2014年12月28日

「黒田官兵衛の里・西脇市」・・新たな生誕地・発祥地説とは・・・兵庫県西脇市!

「黒田官兵衛の里・西脇市」・・新たな生誕地・発祥地説、そのゆかりの地をめぐっています!
しかし、これからの見所は、なぜ、西脇市が新たな生誕地・発祥地説なのかを、読まなければなりません・・

もうひとつの官兵衛生誕・黒田氏発祥の地・・官兵衛の里・西脇市・・・・に、書かれている説とは?・・

黒田官兵衛を輩出した黒田氏は、近江国出自というのが通説・・・
しかし、確たる証拠はなく、後世に福岡藩黒田家の事業として、貝原益軒が編纂した「黒田家譜」によるところが大きいのが事実です。
又、姫路城にて生まれたとされる黒田官兵衛についても、その出生地が確認できる史料は存在しておりません。
一方、江戸時代に編纂された播磨の地誌類や記録類には、「黒田官兵衛やその父は、多可郡黒田村の生まれ」とするものが多数あります。
又、西脇市黒田庄町黒田にある古刹・荘厳寺所蔵の「黒田家略系図」が近年公表され、官兵衛や黒田氏の西脇市出自説がにわかに脚光を浴びてきています。

播磨古事の記述より・・・
小寺官兵衛祐隆(孝隆)、のちの、黒田官兵衛は播磨国多可郡黒田村の産なり。その村名にちなんで、黒田氏に改めて、姫路城を相続して居城する・・・と、ある

今から訪れる・・多田の古城(黒田村にあった城館)は、筑前国主のご先祖の城跡・・・
多田の城が攻められたときに、姫路へ脱出した若君が後の黒田官兵衛である・・・
当時の黒田村伝承が、村の見取り図とともに記録されています

ここからが・・・ややこしい・・のです!
NHK大河ドラマ黒田官兵衛も終わりました・・・その登場人物は、黒田官兵衛の祖父が重隆、父が職隆・・です・
荘厳寺所蔵の「黒田家略系図」では・・
黒田官兵衛の実父は重隆  その二男である黒田官兵衛は小寺美濃守職隆公の猶子(養子)であると・・・

荘厳寺所蔵の「黒田家略系図」・・・・

黒田氏は播磨守護・赤松円心の弟・円光を祖とし、その息子・七郎重光が黒田城に拠って黒田姓を名のったことが始まりとされています

後ほど、訪れる荘厳寺の堂内に本黒田家略系図を活字で示した系図がありました
右赤丸が、重隆 左赤丸が、二男、孝隆官兵衛尉(黒田官兵衛)

八代、 重隆の二男として、生まれた孝隆官兵衛尉(黒田官兵衛)が小寺職隆の猶子(養子)となって、姫路城を守ったと記されています
官兵衛の兄、九代・治孝左衛門尉が黒田城を継ぎましたが近隣から攻撃を受け、落城し、宗家は断絶しました
黒田官兵衛の母は、この系図では重隆の妻となった比延山城主、比延氏の娘と記しています

播磨古事・・・黒田重隆や職隆の廟所整備などの記録や播磨における黒田氏の調査や伝承をまとめたもので、文政12年(1829年)に著されています
廟所建設の普請方として福岡藩から派遣された山口武乕が業務の合間に小寺家菩提寺、姫路、心光寺の古記をはじめ、播磨の旧家に伝わる古文書を閲覧し、書き写したものである・・
平成18年、所有者から福岡県博物館に寄贈されたものとのこと・・・・

・・・行きましたね・・黒田家廟所・・確かに、福岡藩から石材を運んで普請したとありました・・・

黒田家譜と荘厳寺黒田家略系図を比較すると・・・

黒田家譜・・・
---高政---重隆---職隆---孝高(隆)---長政---


荘厳寺所蔵の「黒田家略系図」・・・
---重笵---重隆-----------治隆(断絶)
            |-----孝隆======小寺職隆の猶子(養子)

そういったところが、大ざっぱですが、西脇市配布の「官兵衛の里・西脇市」から引用いたしました・・

う~ん?・・・黒田庄の地名もそうですが、「官兵衛の里・西脇市」が新説ですね・・・と、思い込んでいます

さて、ゆかりの地・・ 多田城址(多田の古城)・・行きました・・・
説明案内板のみで、この付近・・加古川を望む段丘端に、城主居館と、家臣団の屋敷群があったとされ、平成7年、発掘調査されたと・・・

案内板の立つ場所は、市営黒田住宅の「P」です・・写真右下:「α君」車内より・・

その「P」より、黒田城跡をみます・・・ズームでみると、山上から黒田村が見渡せるよう、伐採してますね!・・

赤丸が黒田城跡とあります・・・
別に図では、左へ繋がる尾根全体が黒田城跡で曲輪や土塁がみられるそうです

ゆかりの地・・松ヶ瀬・・
多田城落城の際、幼い官兵衛と母・於松は加古川を渡って逃げましたが、母は増水した川で溺死したという伝承があります
母の名にちなみ、この場所を「松ヶ瀬」といいます
「松ヶ瀬」は、左、奥の方です・・・

西脇市より・・雑草多いので、新中橋からの眺望がおすすめ・・と、
では・・新中橋から・・
残念、Googleさんから引用しました(^_^;)

次なるゆかりの地・・・へ、参りましょう

追記:備忘録文、西脇市配布、官兵衛生誕・黒田氏発祥の地・・官兵衛の里・西脇市、荘厳寺本黒田家略系図より引用いたしました