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2015年4月30日

岩崎神社・・・大阪府豊能郡能勢町野間!

岩崎神社・・神社、社殿の脇に置いている、案内書を頂きましたが・・!
この案内書の表書きは・・安徳天皇、来見山、御霊蹟地、岩崎八幡宮とある・・

能勢町で購入のパンフでの、紹介文を引用するが・・・壇ノ浦で入水されたといわれている安徳天皇が藤原経房以下従者に守られ、石見~白眉~但馬~摂津天野(天王)~長尻(田尻)を経て当地に来られ、約一年間過ごされ亡くなられたという経房の遺書より明らかになった・・・


経房遺書とは、文化十四年(1817年)、この村の辻勘兵衛の屋根葺き替えのとき、棟木に吊した竹筒から発見された健保五年(1217年)在銘の侍従「経房遺書」である
同遺書は二千五百余字がからなり、壇ノ浦のいくさ場より野間の郷にて崩御まで詳細が描き込まれている
さらに、明治後半、岩崎社殿下から出土した養和元年(1181年)在銘の経筒、鏡、刀剣など、霊蹟地として存在が傍証されつつある・・・
これら出土品は現在、東京国立博物館蔵である・・

社殿・・覆屋で覆われている・・しかし!
本殿の屋根が荒廃している・・・なぜか、寂しい!
しかし、左大臣、右大臣は、彩色が施されている・・!
末社
社殿の右側に貼られていた古図・・

ググってみると、安徳天皇陵墓の説は多くあり、真実は到底分からない・・
万一、近畿説が真実であれば、この社殿の荒廃はないとおもうが・・・しかし、今に伝える地名、習俗は名残をとどめていると・・・!・・・・あくまでも私感です!

さて、大阪府豊能郡能勢町野間・地黄地区を巡ってきました・・・
これも、野間の大けやきを訪ね、管理人さんと話しさせていただき、資料を入手したことに始まります・・そして、プロ?のカメラマンさんとの出会いも・・・

未だ未だ残る、中井権次の足跡を巡る旅・・・そして、今回の能勢町の歴史・・・!
いやいや、忙しいことです・・(*^_^*)


追記 訪問日 4月27日





今養寺・・・大阪府豊能郡能勢町野間!

今養寺・・野間の大けやきのすぐ側の三叉路に、重要文化財、大日如来像 今養寺と案内板があります・・GoogleMap引用
道なりに進んでいくと・・山にそびえる巨木と、白漆喰の壁に高く積まれた石垣が見えます
しかし、「α君」・・車幅ギリギリです・・これは寺前がどうなっているかわからないので、この写真の位置の路肩?あぜ道に止め、歩きます・・・
日蓮宗 今養寺・・縁起・・
平安時代後期の草創され、当地方屈指の真言密教の名刹であった。戦国時代の元亀二年(15721年)に兵火に遭う寺運をたどったが、天正二年(1574年)郷民の厚い心願のもと、在所の現在地に移築された。

大阪府指定有形文化財・・・
・・・木造 千手観音立像 平安時代初期
国指定重要文化財・・・
・・・木造 大日如来座像 平安時代後期 経深作
大阪府指定有形文化財・・・
・・・木造 釈迦如来座像 鎌倉時代初期
備忘録、記するとき、ググっていくと、今養寺の国指定重要文化財、大日如来座像は盗難に遭っていると・・
全然知りませんでした・・・m(_ _)m
おおおぉ・・・見事なスズメバチの巣じゃないですか・・・サッカーボールの大きさはあるね!・・恐ろしい!
本堂、扁額・・・
まるで、城やね!


野間・地黄の道を巡ってきました・・・いいところです!・・冬は寒いですよ~と、云われました!

最後は・・・野間コース、岩崎神社です・・


追記:訪問日 4月27日







清普寺・・・大阪府豊能郡能勢町地黄!

清普寺の創建は、慶長六年(1601年)能勢頼次が日蓮宗中興の祖とされる日乾上人の弟子、日燃上人を開山に招き、父頼幸の菩提のために、建設したのが始まりである
日蓮宗の方丈型本堂としては大阪府最古の本堂を始め、庫裡鐘楼などが木立にいだかれるように配される、近世寺院の佇まいを良く残している・・・

表門・・地黄城の武家門の遺構と言われている・・一間薬医門 切妻造本瓦葺
沿革


本堂・・地黄城の大広間の遺構と言われている・・・
桁行16.88m 梁間11.75m 入母屋造向排一軒、鉄板葺(もと茅葺き)

庫裡・・桁行23.64m 梁間8.8m 入母屋造鉄板葺(もと茅葺き) 正面、背面庇付
清普寺の石造・・
病を除いてくれる仏様として最も信仰をあつめたのが薬師如来である。・・・省略・・・

石材は花崗岩、地上高140cm 像容を刻出する面は高さ60cmの舟形輪郭を彫り込んでいる
造立は鎌倉時代後期の薬師如来座像と考えられる
薬師如来座像・・

鐘楼・・・残念ながら、石段通行止め・・下よりズームで・・
桁行一間、梁間一間、入母屋造鉄板葺(もと茅葺き)

能勢頼次以来、一族代々の墓碑が建ち並び立つさまは、見事という言葉は不適切ですが、圧巻されます・・この静かな景観の山寺に、これほど数の、一族代々の墓碑が建ち並び立つことなど、想像さえできません・・

能勢家墓地の五輪塔十三基、宝塔四基、笠塔婆二十五基、板碑二十七基は府指定文化財に指定されている・・・
写真上、写真左右下・・・本堂南側墓所
本堂裏の墓所・・この門より内には、うん?・・ちょっと躊躇いがあり、門前で手を合わせ失礼いたしました
私・・基本、墓所は備忘録には掲載しないのですが・・・大阪府府指定文化財として掲載しています

能勢地方は、東部はキリシタン大名の高山右近の影響もあってキリスト教徒が多かったが、中部と西部は真言宗の寺院が多かった。頼次の領地は真言宗の寺院が中心であった。頼次は能勢妙見山を篤く信奉していたことから、能勢一帯の神社仏閣を日蓮宗に改宗させている・・領民に対する改宗の強要も強引なものだったらしく『能勢のいやいや法華』の言葉が伝わる。・・・Wikipediaより引用
妙見山、本瀧寺も、慶長十年、法華経祈願道場となる・・と、備忘録に記しましたが・・・同時期みたいですね!

さぁ、野間、地黄コースもいよいよ、残すところ2ヶ所・・行きましょう・・


追記:訪問日 4月27日







丸山城跡・石造九重塔・・・大阪府豊能郡能勢町!

能勢氏の居城、地黄城跡を拝見しました・・・その折の説明に・・
・・・平安後期、多田満仲の一族が能勢に入部して土豪化してのち国基になって能勢郡を領有、はじめて能勢氏を名乗り、西方の丸山城を本拠地とした・・・と!
国道477号線・・東郷バイパス・・地黄城跡前は旧道・・その、東郷バイパス沿いの小高い山が、丸山城跡・・・
管理人さんい聞きました・・・能勢町は観光事業に力を入れている・・・山肌を伐採して、山城を演出しようと・・頑張っていますね!


しかし、こちらからはまだ、登山できません・・未完成かも!
仕方なく、次の目的地「清普寺」へ向かいます・・・
この「清普寺」の門前に「α君」を停め、振り返ると・・・丸山城跡です!
標高278m、比高40mの丸山に築かれた中世能勢氏の居城。城跡は南北155m、東西30mの規模で、南北に細長く配された郭などの遺構がよく残っている・・と・・・
写真上、真ん中の桜の木の付近・・大手登り口に大阪府指定文化財、石造九重塔があるらしい・・
しかし、道がない・・よく、見れば、その桜の木の下にハシゴらしきもの・・
もしかしたら、あのハシゴが目当て・・・と、いうことは、畑のあぜ道を通っていくのかいな・・?
では、参りましょうか・・しかし、今日は所用のため、革靴・・・気をつけて歩きます・・・
城山の石造九重塔(地黄-丸山城址の大手口)
ここ「丸山」はという丘陵地は鎌倉時代の頃より能勢氏の本拠地として武威を振るった中世山城の丸山城址である。
ちょうど、大手口付近にあたるところに層塔と宝篋印塔(延文五年-1360年)とがならんで東面して造立されている。
本塔は能勢町内の石造文化財中、最も古いもので、今から715年前である・・・省略・・・

石造九重塔

石材は花崗岩製で、相輪が九輪の五輪目を残し、その上が欠失して下に転落している

鎌倉時代 弘安十一年(1288年)総高 309.4cm
大阪府有形文化財指定

この九重塔の手法はおそらく、大和西大寺に属する名工石工集団の製作であろうと云われている・・
宝篋印塔(延文五年-1360年)
     
少し、山へ入ると・・史跡 城山城跡の案内がある・・裏登山口かも・・・

石造九重塔付近から見た、次なる目的地、清普寺、全景・・「α君」も停まっている・・
この田のあぜ道を歩いてきました・・・(*^_^*)

いやぁ・・歴史が感じられますね・・石造九重塔・・鎌倉時代 弘安十一年(1288年)・・
すごい年月、風雪に耐えて立っているのですね!!

さぁ、清普寺へ参りましょう・・・!




追記:訪問日 4月27日





地黄城址・・・(地黄御陣屋、丸山新城)・・大阪府豊能郡能勢町!

能勢町、地黄は中国原産の薬用植物の名前、奈良~平安時代、宮内省に皇室の医薬のことをつかさどる典薬寮があり、附属の薬園で地黄を栽培して煎じ薬(地黄煎)を作っていた。薬園はいくつもあったがそのうちの一つが、平安時代の初め、承和年中(834~848)当時の能勢郡におかれて「地黄御薗」と呼ばれていた。以後、中世にいたるまで「地黄御薗」はしばしば古文書に登場するが、これが現在の地名「地黄」の由来である。近世には旗本能勢家の陣屋がおかれ、街沿いに城下町が整備された・・・パンフ、地黄の道より引用

ここ東郷地域は縄文遺跡や古墳群がみられ、さらに律令下では朝廷の典薬寮園となり、古くから政治文化の栄えた土地柄である。
平安後期、多田満仲の一族が能勢に入部して土豪化してのち国基になって能勢郡を領有、はじめて能勢氏を名乗り、西方の丸山城を本拠地とした。
戦国騒乱は能勢氏にもおよび本能寺の変では明智方の加担、そのため秀吉配下の河原長右衛門宜勝らの乱入をうけて、丸山城をはじめ城下は焼け野原となった。城主頼次は能勢を離散、以後、領地は高山右近をはじめ数代を経て天正十六年(1588年)島津氏の管掌するところとなった。
能勢氏中興の祖といわれた能勢頼次は関ヶ原の合戦で東軍に組みし、軍功により旧領・預地をあわせ一万石余が宛がわれた。
頼次は領内の野間社(布留の宮)の再建をはじめ、ついで新しく「地黄城」と、城下町を構築に着手した(慶長七年(1602年)
普請奉行山田彦左衛門の縄張りにより東西75m・南北110m・面積8200平方メートル、さらに大手・搦手・裏には彫りをめぐらし、四方には石垣を高く築き高塀が設けられた。城内には御殿、官宅をはじめ十数屋舎が配され、北側には三層の楼閣がきわ立だった。普請完成は元和元年(1615年)とされている。近世初頭の陣屋敷として偉容を輝かせたが星はうつりて明治二年(1869年)藩籍奉還となるや旗本能勢氏(四千八石)も累代祖霊の見守る中終焉を告げたのである・・清和源氏 頼光派・・・以上、地黄城址、案内説明板より、全文引用

能勢氏は、摂津国(北摂地方)の封建領主。清和源氏頼光流を称する・・・能勢地方は源満仲以来の本拠地である多田に隣接することから古来より源氏と関係の深い土地であったと考えられる・・とある・・・先日の多田神社の清和源氏同族会へと繋がっていくのです・・・
http://a-shi-a-to.blogspot.jp/2015/04/blog-post_57.html
現在は能勢町立東中学校・・・この石垣の上がグランド!
運動場の南側・・草むらの中に立つ・・能勢氏故城址の碑・・

大手門・・(食違虎口)・・グランド側から・・
多分、観光用の整備された「P」と思うが、施錠されている・・イベントの折か、学校休みの時しか開かない・・かも!

なかなかの石垣のラインである・・

地黄公会堂・・・
地黄城大手門跡近くにある木造二階建て、昭和初期に建てられて、今も現役の公会堂

ここで、思わぬことが・・・・!
先客?・・所謂、カメラマンの方!がおられる・・その方が、私に「どこを狙っているのですか?」と・・
いや、私は、城址を拝見しにきたのです、そして、スナップ写真ですよ!・・って、ことから・・
同伴のおばさんが、よく、この城址をご存じで・・・と・・
・・一応、資料館で聞きましたから、そして幟が・・と・・

それからが大変・・そう30分ぐらいかなかぁ・・立ち話で、撮影談話を、いや、一方通行ですが・・(*^_^*)
その方、全日本写真連盟とかのコンテストによく入賞されるらしい・・
そりゃ、大きな一眼レフ下げて、脚立を持参してまで、城の石垣を狙っているらしい・・
しかし、この城址、今日で二日目とのこと・・なぜか? そう、撮影ポイントの前に工事用車両が止まっているので・・
その車が、移動するかどうかを待っているらしい・・・(^^;)

写真コンテストへの投稿に対する心構え、考え方、等々・・・そして、撮影ポイント、撮影方法、撮影テクニック、など、ご伝授いただきました・・m(_ _)m

最終的には、撮影教室での勉強も薦められました・・!

因みに、地黄公会堂を撮影を例に・・建物のコントラストはいいのですが・・2階の窓、その中に段ボール箱が見える・・
そういったところもよく観察しなければ・・ね!・・って!・・・おおぉ!と、感心しかり・・

むずかしいね・・・写真は!・・と、感じながら、お礼を申し上げ、丸山城へ向かいます


追記: 訪問日 4月27日

2015年4月29日

野間神社・・・大阪府豊能郡豊能町野間!

「野間の大けやき」の資料館で購入したパンフ、そして頂いた資料から・・野間コースを巡ります!

パンフから・・・能勢町野間地区の歴史は古い・・「先代旧事本記」に見える野間連、そしてその氏神として野間神社があり、野間中古墳群が築造されるなど、すでに大化前代から先人の足跡がたどることができる・・・と、あります!

まずは、野間神社・・・・!
豊能郡豊能町は観光事業に力を入れています・・と、説明を受けました・・・
早速、感じるところが・・・そう、野間神社、駐車場が作られています・・・

本来なら、神社前に「P」させてもらうのですが、そこは、旧道・・やはり、狭いです!
ですから、ホント、助かりますね!・・・
ちょうど、社務所裏にあたります・・・

野間神社、由緒・・・おおぉ、ビッシリ書かれています!・・熟読です
当社は、地黄字森畑に鎮座する「延喜式内の神社」である。当社の創祀は推古天皇の十三年(605年)大和国布留宮より「勾玉」の御神体を奉祭したと記されている・・・省略・・・

・・・この辺から、この地が能勢氏という存在が文字として出てくる・・・いや、全く知らなかったです!
・・後述・・



拝殿の扁額・・「布留大明神」
・・・名称は野間だが、所在地は地黄 奈良県天理市の石上神社からの分祀を受けて創始されたという・・その為、「布留宮」「布留大明神」とも呼ばれる・・・

社務所・・・

いや、なにやら、豊能町の歴史の渦に巻き込まれていきます
・・そんな大層な・・・いや、能勢氏の歴史が続きます・・・


追記:訪問日 4月27日