京都府大山崎町、西国街道が東西への道・・・その西国街道に沿って、離宮八幡宮があります
天王山、寶積寺、大念寺と参拝して・・・JRの踏切を渡り、JR山崎駅へ・・
遮断機が上がるのを待っていると電気機関車が…撮り鉄気分で、パチリです・・・
EF200-17・・・
EF200形電気機関車は、日本貨物鉄道(JR貨物)が1990年(平成2年)から製作した直流電気機関車である
運用者 :日本貨物鉄道 製造所:日立製作所 製造年:1990年 - 1993年 製造数:21両
その内の17台目やなぁ・・・おおぉ、結構レアな電気機関車か? 全然知らないので・・・m(_ _)m
下図は、山崎駅周辺図・・・
赤アンダラインは、「妙喜庵」、利休が作ったといわれる、国宝の茶室「待庵」がありますが・・・
完全予約制、1ヶ月前から、往復ハガキで申し込み、とあります・・・
茶室「待庵」は、にじり口からしか拝見できず、内部、写真撮影禁止・・・厳しいですね!
JR、山崎駅・・・
駅から歩くと、離宮八幡宮の東門があります・・・
・・ここは、惣門から、境内へとすすみますね・・・
惣門(高麗門)・・・「禁門の変」でも焼失を免れた門・・・
・・・惣門前の道路が、西国街道・・・
「油祖 離宮八幡宮」
離宮八幡宮と油
離宮八幡宮は油の独占で栄えます。平安時代の後期(貞観年間)となり、津として栄えたこの地の人々の中に、荏胡麻の油絞りの道具を考え出した者(離宮八幡宮の神官貞観年間、時の神官が神示を受けたとされる)「長木」という搾油器を発明し荏胡麻油の製油を始めました。
当初はこの道具を使って作られた荏胡麻油は、対岸の石清水八幡宮の灯明用の油として神社仏閣の燈明用油として奉納されていましたが、次第に全国にこの業が広まり、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜りました。
そうして、油座として離宮八幡宮は幕府・朝廷の保護の下、大山崎油座として油の専売特許を持ち栄えていきます。安土桃山~江戸時代には、「西の日光」と呼ばれるほどの壮大な社殿を構え栄華を極めたそうです・・・観光協会案内より引用
写真下の的のようなものは、油脂販売評者の店頭標識です
右は、油祖像・・・
平安時代末頃より燈明用の荏胡麻油の生産が始まり鎌倉時代には油の製造販売を山崎の油商人が独占していました・・・以後、江戸時代になって菜種油にその座を譲るまで山崎の油は全国に知られていました
中門・・・(四脚門)
拝殿・・・
・・・離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社にあたり、八幡大神を祭神とする神社と・・・
幕末に起こった「禁門の変」によって大半は焼失しましたが、惣門(南門)と東門は奇跡的に残り、往事の様子 を今に伝えています
最も古い惣門と東門は大山崎町の指定文化財に、昭和初期の建造物である本殿、拝殿、透塀、高天宮神社、中門、手水所は国の登録有形文化財になっています
・・・案内板より引用
本殿・・・
・・・やはり、奉納品は、油の一斗缶ですね・・・
石灯籠・・・石清水八満宮とある
宝塔礎石・・・
その礎石が現在社殿の西側にある、寛永11年造替された時、宝塔のあったことが記されています
16個の礎石が4列に並んでいて、その周囲に緑廊の礎石が存しています
おおよそ間口、奥行きとも二間半ほどの宝塔でその周囲に三尺の緑廊があったと考えられます
之を本社境域古図のものと照らし合わせてみると現在の境域が往古の3分の1ほどにすぎず、いかに往古境内の大きく、荘厳なるものであったかを察することができます・・・神社説明より
塔心礎・・
離宮八幡宮の南には淀川が流れ、嵯峨天皇の河陽宮のあった頃には山崎橋がかかり河岸に相応寺、橋の上流には山崎津(港)がありました かしき石はその相応寺の塔の心礎であるといわれています 舎利器を納める為の二重の穴が刻まれていたものを後に小鉢として利用する為扇形に彫り広げられたものだと考えられています |
最後に、東門から出ました・・・右がJR山崎へ・・・この門前の左の道は西国街道・・
離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社にあたり、八幡大神を祭神とする神社と知り・・・おおぉ! 離宮八幡宮の神紋「三本杉」紋・・・なぜ? その記事が、大山崎観光協会のサイトに記されています・・・ ・・・実に、興味深いですね! そして、この地が、荏胡麻の油絞りの道具を考え出し、「長木」という搾油器を発明し荏胡麻油の製油を始めましたそして、離宮八幡宮は油の独占で栄えたと・・・独占企業やね! |
山崎の合戦から、禁門の変・・ここが如何に重要な地ということが分かりました・・・(遅い)!
参拝日:2017年6月12日
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